川崎殺傷事件を受けて考えた事とうみのての予言 | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

川崎で痛ましい事件が起きた。メディアで散々報じられているので、事の詳細は読者の方も詳しいと思う。

自分の妻や子供があのような事件に遭ったらと思うとすごく怖い。不安がストレスになって、事件が起こった日から数日はとてもストレスフルだった。僕はそっとテレビのニュースを消す。

日本の治安は世界最高レベルだけど、こんな事件があると、体感治安が悪化して、不安感が増す。ワイパックス(精神薬)を飲んでやり過ごす。

今回の川崎の事件に関するツイートで、多くのツイッタラーが自分とは違う考えのフォロワーを失っていると思います。それくらい、社会的影響が大きく、考え方が分かれる事件です。でも、考え方が違っても、これ以上このような事件は起こってほしくない気持ちは共通しているはずだと思います。

事件を受け、秋葉原無差別殺傷事件を元に作られたうみのての「もはや平和ではない」の重みが増している。

僕らは毎日注意深く
慎重に暮らしてる
誰も傷つけないように
誰にも傷つけられぬよに
僕らの平和は潰される
一人の馬鹿に 一人の馬鹿



うみのて「もはや平和ではない」

以下の歌詞が非常に示唆的だ。

今日もどっかで起こってる
小さな戦争 小さな悪意 小さないたずら
小さないじめ 小さな欲望 小さな声

やがて重みに耐えきれず
どっかがぷっつりキレるだろう
やがて痛みに耐えきれず
僕らはぷっつりキレるだろう


川崎の事件の犯人も、子供の頃に祖母からの虐待を受け、職業訓練校で賭けマージャンのカモにされていたという。積み重なった痛みに耐えきれずに犯行に及んだのだろう。

しかし、過度に犯人側に感情移入することは危ういし、遺族を傷つけることになると思う。「不良品」は論外だけど。

これ以上犯人を産まないために、共感の技術により(共感は技術だ)、犯人の生い立ちと同じような境遇の人に共感すること、遺族の失われた命への悲しみに共感すること、その双方が必要だと思う。

「もはや平和ではない」の歌詞が面白いのは、主格の人物がころころと変わるところだ。パソコンに狂気の沙汰を書く人物も、超高層ビルの谷間に落ちた人物も、主格の人物かは分からない。そして、どっかがぷっつりキレた人物も、一人の馬鹿に平和は潰される人物も、主格は「僕ら」だったりする。うみのてのソングライターの笹口騒音は、そのことによって誰もが加害者にも被害者にもなりうることを示したかったのだろう。

今回の事件で議論になっている「自分一人で死ね」という言葉は、川崎殺傷事件の犯人に対しては有効だが、それ以外の鬱屈した感情を持った人に対しても呪詛の働きをする。僕はうみのての「WORDS KILL PEOPLE」の歌詞を連想してしまう。

「死ね」という
「殺す」という
「消えろ」という
「ゴミ」という
言葉が人を殺したよ
俺はそれをそれを見たんだ



うみのて「WORDS KILL PEOPLE(COTODAMA THE KILLER)」

川崎の事件を受けて元事務次官が引きこもりの息子を殺害した事件も、「自分一人で死ね」という言葉の働きかけの影響が大きかったのではないかと僕は考えている。

うみのての曲は様々な予言をする。「笑っていいとも!」が近々終わることも予言したし、川崎の事件も予言したと言ってよいだろう。笹口さんの予言が当たるのはなぜか。それは、社会と人々の核心を捉えているからであり、繰り返し行われる凶悪事件や出来事に共通するコアを拾い上げているからだと思う。うみのては、遥かな高みから社会を俯瞰し、ドブ川のような低みから社会を凝視している。