セカオワ「Dragon Night」と分断の溝を埋めるもの | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。



僕の敬愛する思想家である内田樹の3ヶ月近く前の記事に、その文章を読んでから事あるごとに読み返している文章がある。長いが、引用させていただく。

---引用始め---
同じことは、アメリカで成功したすべての物語ジャンルについて妥当するのではないか思う。
アメリカでは興行的大成功のことを「ブロックバスター」(block buster)と呼ぶ。1942年初出の新語である。もとはイギリスの軍用語で「一区画ごと破壊する爆弾」を指していた。
だが、その後、アメリカに来て、意味が変遷した。
「ものの行き来を妨げている障害物を吹き飛ばすもの」に変わった。
アメリカ人はblockを「区画」ではなく「障害物」とあえて「誤読」したのである。
それは彼らにとって、映画や小説や音楽や、ともかく彼らが切望している作物は「ものの行き来を妨げている障害物」を「吹き飛ばす」ものでなければならなかったからである。
南北戦争に限らない。
それから後もアメリカはさまざまな仕方で国民的分断を経験した。
西部劇のもう一つの基調音的対立である、牧畜者たちとホームステッド法で公有地を無償で手に入れて入植してきた農夫たちの対立がそうだ。
遊牧民と定住民の対立である。『シェーン』はこれを描いている。
19世紀末からは、資本家とプロレタリアの対立、都市と田園の対立、知識人と無学者の対立・・・とさまざまな変奏に展開した。
そして、その対立の「ブロック」を「打ち砕いた」ものがブロックバスターになった。
20世紀におけるもっとも印象的な「ブロックバスター」はエルヴィス・プレスリーだと私は思う。
なぜなみいるミュージシャンたちの中で彼だけが「キング」と呼ばれるのか。
それはマーク・トウェインが「アメリカ文学の父」と呼ばれることとおそらくは同じ理由による。
エルヴィスは不思議なシンガーだった。系譜がわからないのである。だから、分類できない。
1950年代、アメリカのヒットチャートはポップス、カントリー、R&Bの三つに分かれていた。
とりわけ白人音楽であるカントリーと黒人音楽であるR&Bの間には乗り越えられない「壁」があった。
レイ・チャールスはカントリー曲『愛さずにはいられない』をカバーしてR&Bのトップになったが、カントリー・チャートでは100位にも入らなかった。ハンク・ウィリアムスはカントリー・チャートに無数のヒット曲を送り込んだが、一度もR&Bチャートに入ったことがない。
それほどまでに黒人と白人の音楽の間には高い壁があった。
エルヴィスがその壁を砕いた。
『ハート・ブレイク・ホテル』でエルヴィスはポップス、カントリー、R&Bの全チャート1位という偉業を成し遂げた。
それまで社会集団ごとに文化的に分断されていたアメリカ人たちの若者たちが、「ブロック」を超えて、エルヴィスだけは「自分たちのための音楽」だと認知したのである。
それは1885年のアメリカ人たちが南北の隔てを超えて、『ハックルベリー・フィンの冒険』を「自分たちのための音楽」だと認知したのと構造的には同じことだと私は思う。

マーク・トウェインと世阿弥(つづき)
http://blog.tatsuru.com/2019/02/27_1816.html
---引用終わり---

この文章に倣うなら、日本でいうブロックバスターの最近の事例として、セカオワの「Dragon Night」が挙げられるのではないか。


SEKAI NO OWARI「Dragon Night」

歌詞を引用してみる。

---引用始め---
人はそれぞれ「正義」があって、争い合うのは仕方ないのかも知れない
だけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ

ドラゴンナイト 今宵、僕たちは友達のように歌うだろう
ムーンライト、スターリースカイ、ファイアーバード
今宵、僕たちは友達のように踊るんだ

(中略)

人はそれぞれ「正義」があって、争い合うのは仕方ないのかも知れない
だけど僕の「正義」がきっと彼を傷付けていたんだね
---引用終わり---

今の世の中は、SNSによって人々の本音が可視化され、様々な対立も起きている。

一番大きな対立は、右派と左派の対立だと思う。どちらの側も自分が正義だと思って譲らない。

僕は簡単に右や左に流されるよりも、なるべくその間から物事を見ていたい。なぜなら、感情のおもむくままに右や左に流されるのは危険だからだ。人は惰性でどこまでも流される。

それでも僕が左右に寄っていることは分かっているんだ。だけど、感情の流れに抵抗していたい。中庸の立場から止揚したい。

一面的になるな。多面的になれ。世界と人生の複雑さを引き受けるには、多面的であるべきだ。

常に思想的には孤独であれ。何らかの人間や思想を盲信的に信用するな。

これは、信頼できる複数の思想を止揚した多面体の思想だ。

ザ・スミスのモリッシーが左翼から右翼に転向したのを見ていると、個人の思想の上でカギとなるのは、寛容性という気がする。左翼も右翼も他の思想に寛容ではないという点で共通しているから、簡単に転向できる。

そして、この世界は徐々に寛容でなくなってきている。中道は危機に瀕している。

左右の対立以外にも、マジョリティとマイノリティの対立や、宗教間の対立、雇用者と被用者の対立、男女間の対立など、数多くの対立がある。

セカオワの「Dragon Night」は対立のどちらの側にも正義を認め、一夜だけ友達になれると歌う。そして、「コングラッチュレーション」と歌い、その一夜を祝福するのだ。

自分と違う立場の人を最初から拒絶せずに、その正義を理解しようとしてほしい。完全に理解することなんて無理だけど、理解があれば共感も生まれるから。こういうふうに考えているのだなと分かれば、もう怖くないよ。

分断をなくすために、言葉や理性や共感があるんだよ。それに、一人一人は違う人間だけど、同じところも多いんだよ。

人の思想には立場があり、どの立場にも正義がある。立場間で争いあって社会は作られていく。

僕は僕という存在を「ブロックバスター」にしたい。立場間の争いはより良い社会を目指す上で必要だが、その争いによる分断の溝を埋めていきたい。人々は両極によって引き裂かれている。

僕のこの考えは、多数派からは理解されないのかもしれない。

いつか、君にも伝わる日が来てほしい。そう思って常に文を書いている。僕は僕の悪を憎みつつ、僕の正しさを人生かけて証明したい。

セカオワの「Dragon Night」が流行った2015年、人々の間で半ばふざけながら「ドラゲナイ」と言うのが流行ったのは、人々の分断が加速していく世の中におけるブロックバスターだったのだ。正義の対立による憎しみという障害を打ち砕いたからこそ、あそこまで幅広く認知される歌になったのだと僕は考えている。

2015年に僕らは「Dragon Night」の夢見がちなEDMサウンドを聴きながら、社会の分断の溝がなくなる夢を見ていたんだ。