前回は、マスコミ報道で覆い隠された部分のみを取り上げました。
今回は、逆に、この事件に関するさまざまな見解がネット上に飛び交っています。このことは、二度と同様の事件が起きないがための見解です。
こうした見解の一部を引用してみることにします。
そして、こういった見解にどのように私達は対処していくべきなのでしょうか??
はじめに
大阪市北区の「西梅田こころとからだのクリニック」から出火し、25人が死亡した放火殺人事件で、大阪府警は放火犯を、このクリニックに通院していた61歳の谷本盛雄容疑者と特定した。
出火後、谷本容疑者が逃げるようなそぶりはなく、むしろ火に向かっていくような動きを見せる様子が防犯カメラに映っていたという。したがって、谷本容疑者は、もともと自殺願望を抱いていて、クリニックの医師やスタッフ、通院患者などを道連れに無理心中を図った可能性が高く、「拡大自殺」と考えられる。
谷本容疑者は、約10年前、2011年4月にも長男を包丁で刺したとして殺人未遂容疑で逮捕されている。2008年に離婚した谷本容疑者は、離婚後1人暮らしの寂しさから元妻に復縁を申し込んだものの断られ、孤独感が募って、次第に自殺を考えるようになったようだ。しかし、1人で死ぬのは怖かったのか、“働かず元妻に迷惑をかけている”という理由で長男を道連れにしようという考えが浮かび、元妻と息子2人が暮らしていた家で、長男の頭部周辺を何度も出刃包丁で刺した。裁判では、家族を道連れにするのは「家族に対する甘え」とみなされ、懲役5年が言い渡された(「文春オンライン」12月18日配信)。
こうした経緯を振り返ると、谷本容疑者はもともと自殺願望を抱いていた可能性が高い。服役して出所後は、さらに孤独感を深めたようで、「1人ぼっちだと、悩みを打ち明けていた」との証言もある。この孤独感、そしてそれによる厭世観と絶望感が自殺願望に拍車をかけたことは十分考えられる。
大阪ビル放火、なぜ谷本容疑者は他人を巻き添えに無理心中?無差別殺人が頻発の背景
問題は、自殺願望を抱いている人が、なぜ他の誰かを道連れにして無理心中を図るのかということだ。巻き添えにするのが今回のように赤の他人のこともあれば、愛する親や子、あるいは配偶者のこともあるが、なぜおとなしく1人で自殺しないのかという疑問を誰でも抱くだろう。そこで、今回はこの問題を分析し、「拡大自殺」の根底に潜む病理を明らかにしたい。
自殺願望は反転したサディズム
そもそも、自殺願望は、たいてい他人への攻撃衝動の反転したものである。重症のうつ病では自殺願望がしばしば出現するが、最初は他の誰かに向けられていた攻撃衝動が反転して自分自身に向けられるようになった結果芽生えたとみなすのが妥当だと思う。
これは私だけの見解ではない。たとえば、M・ベネゼックは「うつ病患者の自殺は、サディズムが反転して自分自身に向けられた証拠である。これは、他の誰かを殺そうとする意図なしに自殺することはありえないという説の裏づけになる」と述べている。さらに、M・グットマッハーも、「自分自身の殺害は、憎しみの対象である誰かを象徴的に殺す行為」であり、とくに「抑うつ的な人間の自殺は、しばしば両親のどちらか一方の殺害として解釈される」と述べている。
実際、自分自身の生命を犠牲にする究極の自己懲罰によって、もともと憎しみや敵意を抱いていた対象への復讐を果たそうとする意図が、自殺を図る人の胸中にまったくないとはいえない。だから、自殺願望を、怒りや敵意を直接示すことがはばかられる相手に対する攻撃衝動の反転したものとしてとらえるのは妥当だと私は思う。
自殺と他殺を分けるのは復讐願望
このように、自殺願望を理解する鍵になるのは、他人への憎しみや敵意、怒りや攻撃衝動なのだが、逆の流れも当然起こりうる。自分自身に向けられた破壊衝動が反転して他人に向けられると殺人を犯すことになる。
そもそも、攻撃衝動の矛先が誰に向けられるかは非常に流動的である。自傷行為を繰り返す患者を長年診察していると、攻撃衝動が自分に向いて自傷行為や自殺未遂が頻発する時期と、攻撃衝動が外部に向けられて暴力や暴言を繰り返す時期が交互に出現することに気づく。
このように、怒りや攻撃衝動の鉾先が自分と他人との間を行ったり来たりするのはよくあることで、それが自分自身に向けられると自殺や自傷、他人に向けられると殺人や傷害の形で表面化する。
それでは、怒りや攻撃衝動が自分自身と他人の間を行ったり来たりするとき、自殺に向かうのか、それとも他殺に向かうのかを決定する要因は一体何なのか? これは、復讐願望の強さにほかならない。
最近頻発している無差別殺傷事件からは、犯人の「少しでもやり返したい」「一矢報いたい」という願望が透けて見えることが少なくない。しかも、その胸中には、しばしば怒りも煮えたぎっている。これは当然ともいえる。古代ローマの哲学者セネカが見抜いているように、「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望」にほかならないからだ。
見逃せないのは、このように怒りに駆られている人がしばしば自分だけが理不尽な目に遭っていると感じており、「不正に害された」と思い込んでいることである。谷本容疑者も、父親が経営していた板金工場を継げず、兄が跡を継いだことに不満を漏らしていたらしいので、「不正に害された」という思いがあったのかもしれない。腕のいい職人だっただけに、不満が一層募ったとも考えられる。
ただ、客観的に見ると乗り越えられないほどの大きな困難ではなく、別の選択肢もあったはずなのに、「拡大自殺」を選んだのは一体なぜなのだろうと首をかしげざるを得ない。
その一因として、強い被害者意識があるのではないか。何でも被害的に受け止めると、「なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないんだ」と怒りを募らせやすく、当然復讐願望も強くなるからだ。
問題は、こうした被害者意識が日本で最近強くなっており、「自分だけが割を食っている」と感じている人が年々増加しているように見えることである。困ったことに、被害者意識が強くなると、「自分はこんな理不尽な目に遭っている被害者なのだから、<加害者>に復讐するのは当然だ」と思い込む人が増える。ここでいう<加害者>とは、本人が主観的にそう思い込んでいるだけで、客観的に見ると的はずれなことも少なくない。
たとえば、今回の事件の被害者であるクリニックの医師やスタッフ、通院患者などは、客観的に見ると<加害者>とは到底いいがたい。だが、些細な出来事をきっかけに谷本容疑者が「不正に害された」と思い込んで、凶行に走ったのかもしれない。被害者意識をよりどころにして、<加害者>への復讐を正当化しようとした可能性も十分考えられる。
現在の日本社会では、個々人の被害者意識ますます強くなっているように見える。そのため、厭世観と絶望感にさいなまれた人が、「自分の人生がうまくいかなかったのは、これこれの<加害者>のせいだ」と思い込んで、<加害者>を罰して復讐を果たし、なおかつ自らの人生に終止符を打とうとする「拡大自殺」がますます増えるのではないかと危惧せずにはいられない。
(文=片田珠美/精神科医から引用)
誰かを巻き添えにする...死を急ぐ犯罪者たち
「拡大自殺」は、絶望感から自殺願望と復讐願望を抱き、誰かを道連れにすることを指し、精神医学では用語化しているという。現代の代表的な例として、2008年6月の秋葉原通り魔事件などを挙げ、世界各地で起きている自爆テロもそれに当てはまるという。自殺願望、復讐願望によるとみられる事件は、頻発化傾向にあるが、流動化が強まる現代社会ではだれもがそうした状況に追い込まれる可能性があるという。
秋葉原事件、相模原事件
自殺者はこの10年間では大幅に減少しており、厚生労働省の統計によると、2006年に3万2155人だったものが16年には2万1897人になっている。「拡大自殺」については、こうした統計はないけれども、自殺願望あるいは復讐願望に動機とみられる殺傷事件がこのところ増えているということはいえそうだ。この10月にも米ラスベガスで銃乱射事件が起き、国内では茨城県で32歳の男が妻子6人を殺害したとされる事件が明らかになった。
本書(片田珠美『拡大自殺―大量殺人・自爆テロ・無理心中』角川選書、2017年)では、復讐願望による凶悪事件の例として16年10月に神奈川・相模原の障害者施設で起きた無差別大量殺人に言及している。事件を起こした元職員の男は、施設を辞めさせられたことに対しての恨みを口にしている。こうした復讐願望を持つ心の底にあるのは絶望感。秋葉原通り魔事件で死刑が確定した男も仕事での不満や、ネットの世界で無視されたことへの怒りから自暴自棄になったという。
本書ではほかに、死刑になるため引き起こした殺人事件や警官の発砲を挑発したケースなど、近年あった「拡大自殺」の実例をさらに挙げて詳しく紹介したうえ、ケースごとのメカニズムを分析してみせる。こうした「拡大自殺」では、無関係の人間が標的にされたり巻き込まれたりすることが少なくない。病理の解明と対策が必要だ。
読売新聞(2017年10月8日付)書評欄で、本書をとりあげた作家の宮部みゆきさんは「読み進むほどに恐ろしく、この心性は意外と他人事ではないと気づけば慄然としてしまう」と述べている。
著者は、犯罪心理や心の病を構造的に分析している精神科医で、社会問題をテーマにした著作も多い。
●片田珠美/精神科医
広島県生まれ。精神科医。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。人間・環境学博士(京都大学)。フランス政府給費留学生としてパリ第8大学精神分析学部でラカン派の精神分析を学ぶ。DEA(専門研究課程修了証書)取得。パリ第8大学博士課程中退。京都大学非常勤講師(2003年度~2016年度)。精神科医として臨床に携わり、臨床経験にもとづいて、犯罪心理や心の病の構造を分析。社会問題にも目を向け、社会の根底に潜む構造的な問題を精神分析学的視点から分析。
大阪・北新地でのビル放火殺人は「テロ」と言えるか 国際情勢専門家が考える「事件」との違い
大阪市北区の繁華街・北新地にある雑居ビル4階の心療内科クリニックで12月17日起きた放火殺人事件。21日現在25人が犠牲となり、日本社会に大きな衝撃を与えている。報道によると、容疑者は腕のいい職人として慕われていたが、離婚を原因に孤立化し、その後生活が荒れていったとみられ、事件の真相解明が待たれるところだ。
今回の事件からは、36人が犠牲となった2019年7月の京都アニメーション放火殺人事件、最近では2021年8月6日の小田急線無差別殺傷事件、同年10月31日の京王線無差別殺傷事件などが脳裏に浮かぶ。これら3つの事件と今回の事件では、個人的な不満や恨みなどから犯行を入念に計画し、無差別かつ被害最大化を狙って犯行に及んだという共通点がある。社会に対して不安や恐怖心を煽ろうという意思を容疑者が持っていたという点で共通しているかは分からないが、4つの事件とも社会に対して大きな衝撃を与えたことは間違いない。
一方、これまでのメディア報道やネットをみていると、一部でこの事件を巡りテロという言葉が用いられている。上述の3事件の際にも同様にテロという言葉がしばしば目撃された。しかし、厳密に言うと、今回の事件も上述3件の事件もテロには該当しないのだ。
今日、世界ではテロ、テロリズムという言葉に厳格に決まった定義は存在しない。専門家の数だけテロの定義があるとも言われるほどだ。しかし、厳格に決まった定義はないにしても、広く共有されている考えがある。
それは、1つの暴力行為に政治性があるかどうかだ。たとえば、世界ではイスラム国やアルカイダなどイスラム過激派(その信奉者を含む)が度々テロを起こしているが、こういったイスラム過激派には欧米や権威主義的なアラブ諸国の政府を打倒し、イスラム法による政教一致的な国家を作るという政治的なビジョンがある。近年、欧米社会で頻発する極右主義テロでも、そこには白人優位の社会を作る、移民難民は排斥するなどといった政治的なビジョンがある。
反対に、実際、暴力行為の無差別性、被害規模、社会的影響力なども、テロかどうかを判断する上で影響を与える場合も少なくない。おそらく、今回の事件でテロという言葉を使っているメディアやツイートなどでは、暴力行為の無差別性、被害規模などを強く意識している可能性が高い。
しかし、これまでのところ警察や大多数のメディアはこの事件でテロという言葉は使っていない。やはり、そこには政治性があるかどうかという無意識の共有意識があり、仮に日本政府の転覆や政治家の殺害を狙った暴力行為が発生すれば、テロという言葉がより多く用いられるであろう。
また、我々はテロという言葉を過剰に用いるべきではない。一般犯罪とテロを区別する際に政治性があるが、テロは一般犯罪以上に社会に恐怖心や不安を煽る行為であり、それによって社会が混乱する危険性を内在している。たとえば、2019年4月、スリランカでイスラム国支持組織による同時多発的なテロがあり、日本人1人を含む約260人が犠牲となったが、その際、スリランカ政府は国家非常事態宣言を出した。それにより、ネットの遮断や外出禁止令など社会インフラが大幅に麻痺しただけでなく、実行組織がイスラム過激派だったことから国内でイスラムコミュニティへの風当たりが厳しくなり、無実のイスラム教徒の店主が異教徒によって殺害されるという悲惨な事件も発生した。要は、テロという1つの暴力によって民族間、宗教間、人種間の緊張が高まり、過剰な被害を出してしまう場合があるのだ。
日本でスリランカのようなことが起こることは考えにくいが、テロという言葉が一人歩きすると返って過剰な不安や恐怖心を煽り、最悪新たな暴力を生み出す恐れがあるので、テロかどうかを判断する際には政治性があるかどうかを慎重に見極め、中立的かつ客観的な判断が求められるのだ。
大阪ビル放火25人死亡、京王線のジョーカー、小田急“無差別”刺傷…元捜査一課刑事が明かす「2021年凶悪事件の驚くべき“類似点”」増加する「いきなり型」犯罪の“真の怖さ”とは?
2021年はショッキングな事件が頻発し、治安の悪化を感じる人が増えている。
8月6日に小田急線の快速急行車内で起きた無差別刺傷事件で10人が重軽傷を負った記憶もさめやらぬ10月31日には「小田急線の事件を参考にした」と京王線の特急電車内で“ジョーカー”無差別刺傷事件が発生し、またも18人が重軽傷を負った。
10月12日には19歳の少年が山梨の甲府で、自分をふった少女の両親を殺害し家に放火する事件が起き、11月26日には大阪で中学2年生の女子生徒が商業施設の屋上から買い物用カートを約20メートル下の地上に落とし、殺人未遂の疑いで逮捕されている。12月17日には、大阪・北新地で少なくとも25人が死亡するビル放火事件が起きている。
無差別、そして未成年というキーワードが浮かんでくる。
「凶悪事件の件数自体は減っているが、今年の事件は“質的”におかしい」と語るのは、元埼玉県警察本部刑事部捜査第一課の佐々木成三氏だ。一体日本で何が起きているのだろうか。
◆
――2021年の後半は電車内での無差別殺傷など、恐怖をかきたてる事件が多くありました。
佐々木 複数の無差別刺傷事件などの要因を深く考えていくと、象徴的なものとして新宿・歌舞伎町での「トー横事件」にたどり着くのではないかと思っています。11月27日に新宿・歌舞伎町のビル屋上で起きた傷害致死事件で、容疑者たちを総称した「トー横キッズ」という言葉が話題になりました。
「いきなりやる」「やると決めたら最後までやる」
――「トー横キッズ」はグループ的な存在で、無差別刺傷などの“孤独”なイメージが強い犯罪とは異なるようにも見えます。
佐々木 共通点は、普段の生活では承認欲求や所属欲求を満たされない、自分の居場所のない子供たちだということです。「トー横キッズ」の少なくとも一部が、逸脱行為が仲間の証になってしまう問題の多いコミュニティであることは間違いない。でもそこが、若者にとってやっと見つけた“居場所”という可能性もある。トー横のようなコミュニティでも自分を理解してくれる人が自分の居場所となるが、そのようなコミュニティに属せない人が、孤独と社会への憎悪を募らせて無差別の事件を起こしているような気がするんです。
――社会が取りこぼした子供たち、ということですね。
佐々木 もう1つ怖いと思っているのが、「いきなりやる」「やると決めたら最後までやる」という点です。
――詳しく教えてください。
佐々木 私は捜査一課で10年間殺人事件の捜査をしましたが、人を殺すというのは強い決意がなければできず、一般的に人に対して危害を与える犯罪は、最初は文句を言ったりするような、徐々に感情的になって犯行に及ぶというステップがあるのです。非行の場合もそうで、未成年のタバコから始まって、窃盗、恐喝、強盗、そして殺人に至るという「エスカレーター式」が一般的でした。でも今は、すべてのステップを飛ばして、前科のない子供が突然「殺す」という選択肢にたどり着いてしまうんです。これが「いきなりやる」です。
――では「やると決めたら最後までやる」というのはどういうことでしょうか。
佐々木 「無敵の人」に近いイメージです。無差別事件などを起こした社会的に失うものがない人のことを「無敵の人」と表現することがありますが、私は「無敵」というのは「警察に捕まることを恐れていない、もしくは想像できていない人」だと捉えています。捕まるリスクを無視して最後まで目的を達することだけを考えている相手には、厳罰も防犯カメラも効きません。それが「無敵」なんです。
動機を理解することが難しい事件
――無差別事件では「誰でもよかった」「死刑になりたかった」という動機をよく聞くようになりました。
佐々木 今の事件は、動機が一般的に理解できない犯罪が増えている印象があります。通常の感覚では動機になりえないようなことが大きな事件のきっかけになってしまう、ということです。小田急線の容疑者は「幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」、京王線の容疑者は「仕事や友人関係がうまくいかず死刑になるために事件を起こした」と動機を語っているようですが、この動機を正しく理解することは極めて難しい。
――佐々木さんが現役警察官だった時にもそういう犯罪者はいたのですか?
佐々木 僕が初めて取り調べにあたった殺人事件の被疑者がまさにそのタイプでした。母親を殺害した23歳の男性で、取り調べの前に刑事の先輩から「母親を殺すということはかなりの恨みがある。母親との関係に深い闇があるはずだから動機はしっかり20枚くらい調書を取れ」と言われたんです。しかし、話を聞いても全く理解できるものではありませんでした。
――どういう動機だったのでしょう。
佐々木 男性は優秀な私立大学を出ていて“いい会社”に入りました。ある時会社でミスをして、それを隠すために嘘をついたんです。しかしその嘘がバレて、始末書を書くことになった。それを母親がかばってくれなかった、というのが殺人の理由でした。
――……どういうことでしょう?
佐々木 男性の母親はいわゆる“モンスターペアレント”で、学校で問題が起きた時は常に「うちの子は悪くない」と主張して男性が謝らなくてすむようにしていたんです。しかし会社での嘘について相談を受けた時に「なんで嘘をついたの。それはあなたの責任でしょ」と責められ、殺害を決意した。そして母親が寝静まるのを待って、ナイフとベルトで殺害したんです。
――その場ではなく、寝静まるのを待った冷静さも怖いです。
佐々木 「犯行前に一度冷静になる」というのも最近の事件の特徴です。感情的になって、理性が効かず殺害する事件は多く見てきました。でも京王線や小田急線の事件や、愛知で同級生を刺した中学3年生は、犯行の前に冷静に計画を立てています。事前にインターネットで凶器を買い、停車間隔が長い特急電車を狙ったり。普通ならばその途中で思いとどまるのに、彼らは最後までやりきってしまう。
――佐々木さんから見て、いきなり、最後まで犯罪を実行してしまった容疑者たちの共通点は何ですか?
佐々木 彼らには失敗経験がないように見えます。特に無差別事件を起こした人に顕著ですが、それまでの人生でずっと受動的に生きてきたタイプが多い。失敗したりストレスを感じた時の知識経験が少なく、また想像力や他者共感が顕著に欠如していて、ストレスの発散方法がわからずに突然“殺人"という逸脱行為に走ってしまうんです。
身を守るためには「普通の人をたくさん見る」
――それは家庭での教育方針などである程度解決できるのですか?
佐々木 できると思います。多様な価値観と出会ったり、失敗から立ち直る経験や、「自分はここにいていいんだ」という居場所は犯罪の手前で踏みとどまるために大切な要素です。親はどうしても自分の価値観を子供に押し付けがちですが、子供がいろんなことにチャレンジして価値観を作り変えていける環境を作ることが大事だと思います。
――それにしても前科のない人が突然凶行に及んだり、ましてターゲットが無差別だったりすると防ぎようがない気がして、外へ出ることさえ不安になってしまいます。自分の身を守る方法はあるのでしょうか。
佐々木 残念ながら、突然発生する無差別事件を完全に避けることは難しいですが、僕が鉄道警察隊にいた頃に言われた「普通の人をたくさん見ろ」というアドバイスは役に立つかもしれません。今から犯罪をしようという人間は、やはり行動のどこかに異常が表れます。顔が興奮していたり、何かを凝視していたり、ずっとこっちを見ていたりなど、そういうサインを見つけるんです。そして異常に気づくためには、「普通の人」を常にたくさん見ている必要があるんです。
――犯罪を犯す人の特徴を探すのではなく、普通の人をたくさん見ているとそこから外れる人に気がつけるのですね。
佐々木 「歩きスマホ」や、電車の中でずっとスマホを見ているのは無警戒になるので危険です。僕は今でも警察官だった頃の癖で、電車に乗れば消火器や非常ボタンの場所を確認するし、レストランなどでは非常口を確認します。本当はそんなことをしなくてもいいのが理想ですが、想像できない事件が起きている今の時代には自分で自分を守る必要があると思います。
佐々木 成三/Webオリジナル(特集班)
社説:北新地放火事件 逃げ場なき惨事またも
火煙が凶器となり、またも多数の人命が奪われた。
大阪市北区の繁華街・北新地にある雑居ビル4階で火災が起き、火元の心療内科クリニックにいた24人が死亡した。激しい火と煙で逃げ場を失ったとみられている。
大阪府警は、クリニックに通院していた61歳の男を住建造物等放火と殺人の容疑者と特定し、火災で重体の男の氏名を公表した。
この惨事に、36人が死亡した2019年の京都アニメーション放火殺人事件を思い起こした人も多いのではないか。
火災のあったクリニックは、職場で苦しむ人や仕事復帰を目指す人が多く通院していたという。なぜ巻き込まれ、多くの命が失われたのか。無念でならない。
捜査では、男がエレベーターを出てすぐのクリニック受付付近で、持参した液体に引火させた疑いが持たれている。防犯ビデオに紙袋を置いてすぐ火が上がる様子が写っており、現場に油分と焼けたライターが残っていた。最近のガソリン購入も判明したという。
出火後、男が奥の診察室側へ向かう姿も写っていた。催涙スプレーのような缶二つを携帯し、関係者を狙った可能性もあるという。
トラブルがなかったか、動機や経緯の詳しい解明が必要だ。
重大なのは、クリニックの一部約25平方メートルが焼けた火災規模に比べ犠牲者があまりに多いことだ。
判明した死因は、一酸化炭素(CO)中毒だった。火元の受付付近から離れた奥に多く倒れ、火煙から逃げる途中に吸い込んだようだ。外へ出られる避難口が受付側のエレベーター横にしかなかったのが致命的だった。
小規模なビルは、階段が一つだけなのが一般的だ。スプリンクラー設置の義務もなく、今回のビルも2年前の消防の定期検査で不備は確認されていなかった。
雑居ビル火災では、01年に東京・新宿歌舞伎町で44人が死亡し、避難路確保が問題となった。京アニ事件でも、燃焼力の強いガソリンなどが階段近くで一気に燃え広がれば、避難が困難なことを思い知らされた。繰り返してなるまい。
同様の雑居ビルは全国に約3万棟ある。総務省は消防の立ち入り検査で不特定多数の出入りする施設の避難路などを調べ、有識者らで再発防止策を議論する方針だ。防火設備や建物利用の規制強化なども検討すべきではないか。
入居する事業所や利用者らも、非常事態にどう対応するか、行動と備えを確認したい。
「一人で死ね」論がなぜ駄目なのか
「(恋愛弱者やオタク男性は)波風立たせず平和にひとり滅びればいい」とは、東京大学の社会学・上野千鶴子教授が自著にて展開した持論です。こうした「出来れば僕たち私たちのフィールドと関係ない所で一人ひっそり滅びてくれないかなぁ」という、ある種身勝手な思考を「一人で死ね」論と呼びます。
「一人で死ね」論は無責任かつ身勝手な放言に過ぎません。社会のあらゆる深刻な問題について、それに悩む当事者へ「お前面倒くせえんだよ!視界から消えろ!」と蹴りを入れるようなものです。そして、現実から引き離したかった人間を却って現実上へと引き寄せることもあります。
川崎通り魔事件を機に増殖
「自分さえよければいい」の発露に過ぎなかった「一人で死ね」論が一気に支持されだしたのは、2019年5月に起こった川崎通り魔事件がきっかけでした。たった十数秒で20人を次々と殺傷し自ら命を絶った犯人に対し、「死にたいなら他人を巻き込まず一人で死ねばいいだろう!」という意見がテレビやネットを問わず各所から噴出したのです。
理不尽な目に遭った被害者への哀悼という隠れ蓑もあって、反論されれば「自分や家族が襲われても同じことが言えるのか!」でやり過ごせる無敵の論理にまでなりました。しかし、所詮は「自分さえ無事ならそれでいい」という我儘に過ぎません。
極刑が下されるほどの凶悪犯罪者はしばしば「別世界の住人」「知らない場所の怪物」として扱われます。例えば、見ず知らずの親子4人を崖から突き落とした「おせんころがし事件」の栗田源蔵です。栗田は1956年の国会にて、当時の最高検察庁検事である安平政吉氏から名指しで「特殊な極悪人」と呼ばれていました。
しかし、いくら「別次元のモンスター」と思い込んだところで無駄です。栗田源蔵にしろ古谷惣吉にしろ植松聖にしろ、彼らの現実と我々の現実は地続きになっています。同じ現実世界に生きている人間が、現実世界における様々な圧力や障害や不遇などによって怪物になったのが大半です。
今現在は安定していても途中で転落しないとは限りません。自己責任論の蔓延を放置していては、地続きの現実のどこかで新たな怪物が目覚めることでしょう。哀悼のつもりで「一人で死ね」と放言していると、それを受け取った人間が怪物になるかもしれませんし、その怪物になるのが自分や家族かもしれないのです。
逆に「拡大自殺」を煽る
「一人で死ね」というメッセージを受け取ると、逆に「拡大自殺」を煽るという危険性も説かれています。精神科医の片田珠美さんは「拡大自殺」について、「自殺願望と(社会への)復讐願望が合わさり、誰かに道連れを強要すること」と定義しており、「津山三十人殺し」や「コロンバイン高校銃乱射事件」を例に挙げています。
コロンバイン事件では、犯人の母親が「自殺予防の活動」に力を入れています。加害者遺族や自殺者遺族と関わっていく中で、自殺願望が凶行の原動力になると気付いたからです。出版した手記では「私たちのような加害者遺族は自殺願望こそ事件の原因と考えていますが、世間はひとつの殺人事件とすることに固執しています。自殺を防げば凶悪犯罪も防げることを周知してもらいたいです」と述べています。
自殺対策支援センター「ライフリンク」の清水康之代表は、「社会としてやるべきは『生きていく方がいい』と思える社会になることではないか。社会づくりの理念で対策を進めなければ、同じ事件は何度でも起こる」「(過剰な報道で)ただ死ぬよりも誰かを道連れにすれば大きく取り上げてもらえる…などと考え出す懸念はある」として社会の態度を問いました。
音楽ライターの磯部涼さんは、デイリー新潮のコラムで「『一人で死ね』という言葉は、8050問題などの社会的背景から犯人を引き剥がし、犯人ひとりに全てを抱え込ませて闇へ葬る残酷さがある。遺族の怒りを代弁しているつもりだろうが、事件を自分たちの問題として考える煩わしさから逃げているだけではないのか」と川崎の事件に言及しました。
更に磯部さんは「『一人で死ね』が別の男の背中を押し凶行へ向かわせた。その男とは元農水事務次官の熊澤英昭だ」とコラムを結んでいます。熊澤被告の息子殺しもまた「拡大自殺」の一つの形といえるでしょう。殺す対象が自分ではなかったという大きな違いこそありますが。
なぜ死ぬ前提なのか
川崎通り魔事件を抜きにして考えても、そもそも「死ぬ」という前提で語っていること自体に大きな問題があります。「生き直す」という選択肢が無いのは「本人が死にたがっているから」でしょうか、それとも「養う余裕が社会にはない(と思い込んでいる)」からでしょうか。
冒頭の上野教授の発言には「現実に干渉しないまま一人でくたばってくれ」という願望が込められています。これは「滅びていけばいい」という「滅亡」「死」を前提とした言葉選びから明らかです。なぜここまで「死」を願っているのでしょうか。
大雑把に考えるならば、幼稚な願望が表出されただけに過ぎないのだと思います。「オタクはキモイから死ね!」「障害者は生産性がないから死ね!」「おれの言う通りにしないなら死ね!」という極めて幼稚な願望です。実際に事に及ばず、本人はオブラートに包んだつもりで「一人で死ね」と譲っているのでしょう。幼稚な願望に従って事に及んだのが植松や栗田なのですが。
京都ALS嘱託殺人のように「本人が死にたがっていた」としても、「死にたがっていたならしょうがないか。ALSだし……」などと宣(のたま)って「生き直し」について俎上(そじょう)に載せることはありませんでした。この辺りに「自分で歩けもしない奴を社会で包摂するのは不可能だ」という残酷な諦めが滲み出ています。
生き直し生き続けるにあたって本人ひとりが適応できるのはごくわずかです。社会で包摂するための仕組みや風潮などを作っていかなければ、「生き直し」の選択肢は生まれません。これは「障害の社会モデル」「障害の個人モデル」にも通じる話だと思います。
「一人で死ね」とは社会に潜む数多くの生きづらさに対して思考を放棄するばかりか、悩んでいる当人を「自己責任論」の刃で刺し貫くタチの悪い我儘です。本人への気遣いや譲歩のつもりで言ったのであれば、価値観が倒錯していると言わざるを得ません。
それにしても、通り魔の犠牲者に対する哀悼として絞り出した言葉が「犯人は一人で死ね」とは、冷静に考えればおかしいと気付きそうなものです。事件報道で気が立っていると、余裕が無くて分からなくなると言えなくもないですが、いくらなんでも「死ね」は無いと思うのですが。
京アニ放火事件 青葉被告の元主治医が思いを語る 大阪・北新地放火
大阪・北新地ビル放火事件を起こしたとみられる谷本盛雄容疑者は依然、重篤な状態で治療を受けています。京都アニメーション放火殺人事件で青葉被告の主治医だった医師が今回の事件への思いを語りました。
「京都アニメーションの件もそうだが、絶対に許せない。どういう理由があっても他人に危害を加えたり、他人の命を奪うというのは、医師だからというより一般的に許してはいけない。」
上田敬博医師。京都アニメーション放火殺人事件で青葉被告の元主治医でした。
「医療従事者が個人的な感情で治療に手を抜くことはあってはならないこと。加害者でも被害者でもやることは同じ。第三者的に見ると、なぜこの事件を起こしたのか、真相究明が必要。京都アニメーション放火事件でもなぜこのようなことが起きたのか、同じような犯罪が起こらないようにする。そのために全力を尽くしたので、今治療に当たっておられる方は大変だと思う。」
青葉被告の治療にあたる中で、危機感を募らせていたといいます。
「前回の治療を通じて思ったのは、これは氷山の一角だと思ってました。何か手を打たなければと思っていたが、こんなに短いインターバルで同じような犯罪が起きるのは残念。行政、国も含め早急に対策に取り掛かる必要があると思う。犯罪心理を早めにキャッチして抑える、抑止することが大事、抑止することだと思う。抑止できないかと聞かれると自分が治療経験した中では抑止できると思っている。他人が困っていた時、苦しんでいる時に、いかに手を差し伸べたり、そういうコミュニティーをもう一回取り戻さないといけない。人間の孤立化というのがベースにある、そういうことを見て見ぬふりをする社会に早くメスを入れなければならない」
次回へと続きます。