閉院までに思ったこと、感じたこと・・ | 頭痛 あれこれ

頭痛 あれこれ

 「慢性頭痛」は私達の日常生活を送る際の問題点に対する”危険信号”です。
 このなかで「片頭痛」は、どのようにして引き起こされるのでしょうか。
 慢性頭痛改善は、「姿勢」と「食生活」の改善がすべてであり、「健康と美容」のための第一歩です。

 当医院は令和元年8月31日に過去30年間の診療の幕を閉じましたが、閉院する2カ月前に、このことを外来の掲示板に表示し、これまで通院して戴いた方々を今後、どこで治療を継続して頂くかを決めてもらうための期間を2カ月間設けました。
 こうした中で、気がついたこと感じたことを述べてみたいと思います。
 
 当医院開設当時、紀南地区には神経疾患を診療する診療科がなかったため、「神経内科」を標榜しました。ところが新聞社の地方紙の記者が何を思い違いをされたのか、聞き慣れない診療科のこともあったのでしょうが、「精神内科」という有りもしない診療科の名称で大々的に記事にされてしまいました。
 当時の紀南地区では総合病院の精神科の先生が「神経内科」を標榜し診療していたこともありますが、開院した途端に、これまで精神科(当時は、心療内科は存在しませんでした)に通院中の患者さんが一向に良くならないといって統合失調症・うつ病の患者さんばかりが来院され、さらに新患の方も精神科・心療内科領域の患者さんばかりで、本来の神経内科疾患の患者さんを診察することは、極めて少なく、せっかくカルテを作成してもすべて無駄となってしまっていました。


 以前、このブログでも紹介したことがありますが、こうした中の患者さんのなかで、1年来めまいを訴えて、紀南地区のすべての医療機関を受診しても原因不明と言われたと訴えて40歳の女性が受診されました。神経学的所見としては注視眼振のみしか認められず、頭部CTでは脳幹背側部の注視中枢に低吸収域を認めたため、再度、造影剤を点滴した後に再撮影しますと、この低吸収域の部分が著明に増強効果を呈していました。
 これまで、高血圧・糖尿病・高脂血症などの基礎疾患がないことを確認の上、当時紀南地区には脳神経外科なかったため、御坊市の総合病院の脳神経外科へ紹介しました。
 そして、その返事をみてまさに驚愕させられました。それは開業医の分際で「脳腫瘍の診断を脳外科医に対して下した上で紹介する等は、言語道断であると前置きして、脳梗塞の診断を下され、追い返されました。これに対して、私の意見を述べましたが却下されました。このため3カ月後、低吸収域の拡大を確認の上、再度、紹介しました。
 しかし、この時点でも分からないの一点張りで、和歌山大学へ紹介され、半年後には見るも無惨な寝たきりとなり自宅へ追い返されました。
 結果的に、最後は私が看取ることになり、ご家族特に娘さんの恨みに籠もった目付きが未だ脳裏から離れることはありません。


 こういったことから、神経内科に対する理解度は一般開業医には程遠く、精神科もしくは心療内科とでも思っているのが実情であり、現在でも変わりはないようです。

 

 このため一般の患者さんも同様に、このように精神科もしくは心療内科とでも思っているようでした。
 閉院近くにこれまで高血圧で通院中の患者さんが、手のふるえを訴えたため、診察の結果パーキンソン病の起こり始めと伝えたところ、家人から「専門医へ紹介してくれ」と言われる始末で、もうこれではダメだと諦めて閉院の決意を固めた次第です。

 

 こうした医院を閉院するなかで思ったことは、医師とは製薬会社の販売員なのかということです。医師は製薬会社のMRの薬の作用の説明に従って、薬を患者さんに処方して、これを元にして生計を立てている存在でしかないということです。
 私が医師に成り立ての頃は1人の患者さんに5剤は最低処方するように”師匠”から指導されていました。肝心要の薬剤は2剤で、その他3剤は付け足しということです。
 その1剤として、小野薬品のタフマックEを入れるように師匠に強制されていました。
 これが内科200床の患者さん、さらに外来患者さんすべてに入っていくということです。トータルすれば、気の遠くなるような数のタフマックEが処方されることになります。
 このお陰で、小野薬品がスポンサーになって医局旅行が行われていました。
 現在では、こうしたことは考えられないことですが・・
 現在では、この5剤が7剤までに増加しているようです。これは年々、診療報酬の改正により保険点数が下がる一方のため、このように7剤まで増やさないことには一般開業医はやっていけないということを意味しています。
 こうしたことからすれば、私の処は大半が1剤が主であり、多くて3剤程度ということで、医院が潰れた理由の1つにもなっていたように思われます。

 

 先程も述べましたが、私の医院を精神科もしくは心療内科と思い込んで来院され、薬さえ飲んでおれば自分の病気は治ってしまうと考えてくすりだけを取りに来る患者が如何に多く、沈潜していたのかが理解されました。
 その代表は、不眠症を根本的に治療することもなく睡眠薬だけを服用される方々、さらにデパス依存症の方々です。とくにデパス依存症の方々はデパスを服用を行っておれば自分の症状が軽減される方々で、それまで他院で処方されていた方でただ単にデパスの処方を希望されていた方々で、私の忠告には一切耳を貸すことなく服用を継続されていた方々です。こうした方々は、デパス依存症からの脱却などは一切頭にない方々です。
 こうした患者さんが如何に多いかが実感され、ここにも問題が存在するようです。


 さらに、頭痛診療を行うなかで、緊張型頭痛の場合、筋弛緩剤・抗不安薬・血流改善薬を原則として1週間だけ処方し、日常的に姿勢を正しくする注意を行いつつ、症状が悪化した場合はレーザー照射を行うように指導しているのですが、こうした配慮が面倒に思われる方々が薬だけを継続され、最終的にデパス依存症へと移行していくケースも多いように思われます。
 また、閉院間近になって、これまでほとんどトリプタン製剤を服用されていなかった方々までが、トリプタン製剤の処方を求めて来院されるのが目立ちました。
 こうしたトリプタン製剤を希望される方々は、初診時の年齢が30歳を越えた方々で、私の指導を面倒くさがってトリプタン製剤に頼られる方々で、こうした方々は40、50、60歳と年齢を重ねるに連れて増加傾向を示していました。
 こうしてみる限り、頭痛診療で重要なことは、頭痛を自覚した最初の段階、すなわち中学生・高校生の段階で、典型的な片頭痛の症状が完成する以前の段階、片頭痛の疑いの段階で、適切に指導することによってくすりに頼ることなく、頭痛を緩和させるスベを教え、現在どのような段階に置かれていて、今後、どのような要因が加わることによって片頭痛へと移行していくのかを的確に説明しなくてはならないと考えております。
 また、このような中学生・高校生の段階で既に片頭痛に至っていても、トリプタン製剤を処方することなく、他の強力な鎮痛薬とともに片頭痛の要因を的確に把握することによって、こちらを是正させるだけでトリプタン製剤は必要でないと思っています。このような時期から服用させれば、根本的に治そうとはされないからです。
 こういったことから、こうした初期の段階に適切な指導を行うことが極めて大切であり、30歳を越えてからでは、面倒臭がって私の指導を真面目に行わずにくすりに頼るため治療に成功することはなく、トリプタン依存患者を作るだけのことでしかないということです。


 こうしてみますと、医院閉院につれて、薬剤依存患者ばかり押し寄せてきて、私の医院は、くすりの販売所だったのか、といった錯覚を覚えた程でした。
 これが末端の底辺を支える一般開業医の実情であり、医療費が何時までも高騰し続ける理由にもなっています。ですから、いくら2年おきに診療報酬の改定を行おうとも医療費の削減に繋がることはなく、逆に益々高騰し続けるものと思われます。

 

 それにしても、私が国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院内科を辞して、将来の血行再開療法を夢見て、大阪の富永記念病院・脳内科に勤務中に、同級生の牧野正直(前・国立療養所邑久光明園、現在 紀和病院・精神科)に偶然出会わなければ、私の医師人生はまったく変わっていただろうにと思うと悔やまれてならないところです。
 牧野に富永記念病院の悪評を吹き込まれ、アカの病院(理事長が韓国人であったため)は直ちに辞めるべきである。そして、和歌山の田辺に医師を求めている医院があるからと言われ、なかば脅されるようにして、田辺に連れて来られて訳です。

 医師人生を終えるに当たって最後の最後に悔やまれたことでした。
 皆さんのご記憶にない方も多いかと思われますが、連れて来られた医院は、日本全国を股に掛けて荒らし回っていた”医院乗っ取りグループ”の番平らの餌食にされた医院でした。
 このため莫大な借金を抱えていたため既に赴任時点で医院の競売が進んでいたため、勤務1年で競売に付され、持ち主は建築会社になってしまいましたが、競売で落とした目的は、ここに介護老人保健施設を建てることでしたが、周辺が住宅地であることから三階建ての建物が建築できないという建築基準法により計画が頓挫してしまい、昔のままの医院建築で診療せざるを得なくなり、病室が二階にあり搬送手段がなく、自力で階段を上がれる患者さんでなければ入院できないという有様のため、私の急性期脳卒中診療を行うためのネックとなり、極めて効率の悪い診療しかできず極めて苦労を強いられました。
 ところが、平成17年には建築会社も潰れてしまい、医院はその子会社の介護老人保健施設の持ち物となってしまいました。これからが悲惨な道筋を辿ることになりました。
 この時点で医院を閉じておけばよかったのですが、未練を残して継続した苦労がたたり平成19年5月には右胸に胸水が貯留し、肺炎との診断でしたが、3カ月後復帰したものの病棟を閉じられ、外来だけの診療しかできなくなり、さらに経営状況は悪化し、これまで何とか個人の努力で継続していましたが、個人の力にも限界があり、遂に本年で閉鎖せざるを得なくなった次第です。

 このような田辺での私の医師としての転落人生を考えれば、その岐路は大阪で同級生の牧野に出会ったことにあり、これさえ無ければと・・まさに疫病神としか思われません。
  いくら呪っても呪いきれないものがあり、八つ裂きにしてやりたい思いしかありません。


これまでの参考記事

 

老神経内科医のボヤキ その4 再度、めまい
 
https://ameblo.jp/yoyamono/entry-11965229832.html?frm=theme

 

老神経内科医のボヤキ その5 神経内科という診療科    
 
https://ameblo.jp/yoyamono/entry-11965316958.html?frm=theme

 

老神経内科医のボヤキ その10 パーキンソン病
 
https://ameblo.jp/yoyamono/entry-11966107579.html?frm=theme