長男の優大が2011年震災直後の4月、10歳と10ヶ月程でその命を卒業して天に帰っていった時の話しです。
震災の避難で九州の私の実家へと帰省して数日経った頃、優大の様子が急変し病院へと連れて行きました。
その時は肺炎と重度の貧血で、何が起きているのか定かではなく、とにかくどんどんと悪くなり更に大きな病院へと救急車で搬送されました。
その病院は10年前に優大が生まれた病院でした。知っている方もちらほら見かけ声をかけて下さったりしましたが、混乱と苦しさでそこにいるだけでやっとの思いでした・・。
病室には次々と医師が集まりひっきりなしに出入りしながら病状の把握が行われていました。
震えながら廊下で待っていると、医師からサチュレーションが上がらないため命が危険な状況で、輸血と人工呼吸器の装着を承諾して下さいと言われました。
少しの考えている余裕もない緊迫した状況に頷く以外ありませんでした。
夫が東京から飛行機で向かう間ですから5時間くらいは経っていたのでしょうか、病院に到着した夫と共にようやく優大の顔を見ることができました。
呼びかけると意識があり、チラッとこちらを見る様子は、いつもの頼もしくかっこいい優大の顔。
心配かけたね、と言わんばかりに彼の心が穏やかなのが伝わってきました。
診断の結果、急速進行性糸球体腎炎という聞いたこともない病気で、避難する前からなっていたようでした。
腎臓が機能しなくなり死に至る可能性が非常に高い病気でした・・。
生まれながらに大脳が全て欠損するというとても重度の障がいを背負っている彼に、なぜそれほど大変な病気が授けられたのだろうか。。
でも、いつものように奇跡を起こし続けてくれる。そう願うしかありませんでした。
震災直後ということもあり、夫は在宅勤務の形で働く許可を頂いて、重体の優大のそばで過ごす毎日が始まりました。
私達にとっては幸いにも、小児は重体でも病棟管理だったために病室に寝泊まりしながら面会を続けることができました。
時折回復を思わせる日もありましたが、実際には日に日にあらゆる数値が生きる限界へと近付く毎日の中で、優大の身体は水風船のようにパンパンにむくみ、強い薬の副作用で皮膚がただれ全身から出血し服をきることすら困難になりました。
何本もの管につながれて、そんなに苦しい状態でも、優大の心はいつも穏やかだったように感じました。
何故なら見守っている私がいつも溢れる程の愛に満ち、絶望も無理な希望もなく、ただしっかりと優大の命に寄り添うことができたからです。
これは優大の素晴らしく強い愛の心を私が写し共鳴しながら過ごしていたからなのだと感じています。
私達は優大からの学びの総仕上げをしていました。
生きることはね、こうだよ!何ができるとか、誰より勝っているとかそんなことじゃない。たったひとつの自分の命を輝かせて生きるんだよ!
そう自分の命をかけて教え続けてくれた優大学校とでも言える命の学びを卒業する時が近付いていました。
私は心のどこかで別れが来ることを知っていました。
それでも優大が生きる仕上げとしての「死」を全うしようとしていることがわかっていたから、それは絶望という種類の時間とは全く違うものでした。
いつ亡くなってもおかしくない状態が続いていたある日、優大が話しかけているように感じました。
優大と向かい合い心を通わせてみると、頭の中にはっきりと声が聞こえてきました。
「ママ、あっくん、パパ、バーバ、・・・・」次々と彼の周りで過ごしてきてくれた人たちの名前が聞こえてきました。
そして「ぼくはだいじょうぶだよ。みんなのことが大好きだよ」と。
私はそれまでそのような経験をしたことがなかったのですが、それが紛れもなく優大の魂の声であることを確信しました。
なんて強い、なんて愛に満ちた言葉だろう。涙が止めどなく流れました。
数日後また優大が話しかけて来るのを感じました。
「あっくんを呼んで欲しい。」優大の6歳下の弟のことでした。
当時まだ5歳だった次男をすぐに病室に呼びました。そしてそれは別れの挨拶をするためだとわかりました。
次男が来て病室で家族みんなで過ごしました。
2時間くらい経った頃でしょうか、優大は弱ってもう計れなくなっていた最期の心臓の鼓動を止めてその命を終えました。
本当に本当に安らかに鼓動を静かに自分で止めたのがわかりました。
私は亡骸にすがるという気持ちになりませんでした。
もうそれは優大が脱いだ服のようなものとしてそこにあるだけに感じたからです。
苦しく不自由だった身体から抜け出た優大の魂は病室の中でスキップでもするように自由に飛び回っているようでした。
ぼくはやりとげた!そんな喜びが私には伝わってきました。
残される私達の準備が整ったのを確認して、最期の最期まで彼らしく命を輝かせて生き切ることを見せてくれた最期の仕事が「死」というものだったのです。
自分の命の隅々まで輝かせて生きた優大からもらったバトンは黄金色に輝き私と夫の心の中にしっかりと握られました。
この世界に目に見えていることに大きな意味はない。
見えないものの方がはるかに大きいのです。
魂は何度も命という形を成しながら生まれ、一生に一度の命の経験を積みます。
今を生きていることはすでにこの世界に望まれて生まれたからなのです。
私だけの命というものを知りたいという宇宙の意志のようなものがあると感じています。
私は優大からもらったバトンを握りしめながら私の命を輝かせずに死を迎える訳にはいきません。
何となく、無難に、取り敢えず、そんな風に生きる時間なんて少しだってないのです。
私らしく生きることは時に難しく苦しいこともあるけれど、私達は愛されて生まれてきたことを受け入れ愛の中で喜びとと共に生きることをいつでも選択することができます。
こうして私の心の核心をBlogに載せることに、今まで少し躊躇がありました。
でも、私が優大の生と死、そして自分自身の生を通して知った生きることの意味を伝えたい。
だからまずは私がありのままで輝く、恐れずさらけ出すことだと今思っています。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
このご縁に感謝です♡
震災の避難で九州の私の実家へと帰省して数日経った頃、優大の様子が急変し病院へと連れて行きました。
その時は肺炎と重度の貧血で、何が起きているのか定かではなく、とにかくどんどんと悪くなり更に大きな病院へと救急車で搬送されました。
その病院は10年前に優大が生まれた病院でした。知っている方もちらほら見かけ声をかけて下さったりしましたが、混乱と苦しさでそこにいるだけでやっとの思いでした・・。
病室には次々と医師が集まりひっきりなしに出入りしながら病状の把握が行われていました。
震えながら廊下で待っていると、医師からサチュレーションが上がらないため命が危険な状況で、輸血と人工呼吸器の装着を承諾して下さいと言われました。
少しの考えている余裕もない緊迫した状況に頷く以外ありませんでした。
夫が東京から飛行機で向かう間ですから5時間くらいは経っていたのでしょうか、病院に到着した夫と共にようやく優大の顔を見ることができました。
呼びかけると意識があり、チラッとこちらを見る様子は、いつもの頼もしくかっこいい優大の顔。
心配かけたね、と言わんばかりに彼の心が穏やかなのが伝わってきました。
診断の結果、急速進行性糸球体腎炎という聞いたこともない病気で、避難する前からなっていたようでした。
腎臓が機能しなくなり死に至る可能性が非常に高い病気でした・・。
生まれながらに大脳が全て欠損するというとても重度の障がいを背負っている彼に、なぜそれほど大変な病気が授けられたのだろうか。。
でも、いつものように奇跡を起こし続けてくれる。そう願うしかありませんでした。
震災直後ということもあり、夫は在宅勤務の形で働く許可を頂いて、重体の優大のそばで過ごす毎日が始まりました。
私達にとっては幸いにも、小児は重体でも病棟管理だったために病室に寝泊まりしながら面会を続けることができました。
時折回復を思わせる日もありましたが、実際には日に日にあらゆる数値が生きる限界へと近付く毎日の中で、優大の身体は水風船のようにパンパンにむくみ、強い薬の副作用で皮膚がただれ全身から出血し服をきることすら困難になりました。
何本もの管につながれて、そんなに苦しい状態でも、優大の心はいつも穏やかだったように感じました。
何故なら見守っている私がいつも溢れる程の愛に満ち、絶望も無理な希望もなく、ただしっかりと優大の命に寄り添うことができたからです。
これは優大の素晴らしく強い愛の心を私が写し共鳴しながら過ごしていたからなのだと感じています。
私達は優大からの学びの総仕上げをしていました。
生きることはね、こうだよ!何ができるとか、誰より勝っているとかそんなことじゃない。たったひとつの自分の命を輝かせて生きるんだよ!
そう自分の命をかけて教え続けてくれた優大学校とでも言える命の学びを卒業する時が近付いていました。
私は心のどこかで別れが来ることを知っていました。
それでも優大が生きる仕上げとしての「死」を全うしようとしていることがわかっていたから、それは絶望という種類の時間とは全く違うものでした。
いつ亡くなってもおかしくない状態が続いていたある日、優大が話しかけているように感じました。
優大と向かい合い心を通わせてみると、頭の中にはっきりと声が聞こえてきました。
「ママ、あっくん、パパ、バーバ、・・・・」次々と彼の周りで過ごしてきてくれた人たちの名前が聞こえてきました。
そして「ぼくはだいじょうぶだよ。みんなのことが大好きだよ」と。
私はそれまでそのような経験をしたことがなかったのですが、それが紛れもなく優大の魂の声であることを確信しました。
なんて強い、なんて愛に満ちた言葉だろう。涙が止めどなく流れました。
数日後また優大が話しかけて来るのを感じました。
「あっくんを呼んで欲しい。」優大の6歳下の弟のことでした。
当時まだ5歳だった次男をすぐに病室に呼びました。そしてそれは別れの挨拶をするためだとわかりました。
次男が来て病室で家族みんなで過ごしました。
2時間くらい経った頃でしょうか、優大は弱ってもう計れなくなっていた最期の心臓の鼓動を止めてその命を終えました。
本当に本当に安らかに鼓動を静かに自分で止めたのがわかりました。
私は亡骸にすがるという気持ちになりませんでした。
もうそれは優大が脱いだ服のようなものとしてそこにあるだけに感じたからです。
苦しく不自由だった身体から抜け出た優大の魂は病室の中でスキップでもするように自由に飛び回っているようでした。
ぼくはやりとげた!そんな喜びが私には伝わってきました。
残される私達の準備が整ったのを確認して、最期の最期まで彼らしく命を輝かせて生き切ることを見せてくれた最期の仕事が「死」というものだったのです。
自分の命の隅々まで輝かせて生きた優大からもらったバトンは黄金色に輝き私と夫の心の中にしっかりと握られました。
この世界に目に見えていることに大きな意味はない。
見えないものの方がはるかに大きいのです。
魂は何度も命という形を成しながら生まれ、一生に一度の命の経験を積みます。
今を生きていることはすでにこの世界に望まれて生まれたからなのです。
私だけの命というものを知りたいという宇宙の意志のようなものがあると感じています。
私は優大からもらったバトンを握りしめながら私の命を輝かせずに死を迎える訳にはいきません。
何となく、無難に、取り敢えず、そんな風に生きる時間なんて少しだってないのです。
私らしく生きることは時に難しく苦しいこともあるけれど、私達は愛されて生まれてきたことを受け入れ愛の中で喜びとと共に生きることをいつでも選択することができます。
こうして私の心の核心をBlogに載せることに、今まで少し躊躇がありました。
でも、私が優大の生と死、そして自分自身の生を通して知った生きることの意味を伝えたい。
だからまずは私がありのままで輝く、恐れずさらけ出すことだと今思っています。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
このご縁に感謝です♡


