初音ミク16歳の誕生日おめでとうシリーズ第27弾です。『ワールズエンド・ダンスホール』や『ローリンガール』で知られ、2019年に急逝したwowakaさんはボカロ界のみならず多くの界隈で知らない人はいないほどの有名Pでした。それだけに急逝の報せは衝撃的なもので、今でも人々から忘れられることはありません。今回はwowakaさんのボカロ曲では遺作となった『アンノウン・マザーグース』について考えます、以下敬称略です。(wowakaさんの曲分析って難しいんですよね。)



 "動画投稿は2017年8月22日で作詞作曲はwowaka。VOCALOID神話入り(1000万再生超え)"(ニコニコ大百科より)

 初音ミク10周年記念コンピレーションアルバム「Re:Start」DISC1の第1曲目に収録されている。wowakaとしては3曲目となるVOCALOID神話入りで、史上初の快挙を達成した。また、前作から6年越しの新作だったらしい。短調の曲。

 ※2023年8月11日に『裏表ラバーズ』がVOCALOID神話入りを果たし、史上初の4曲神話入り保持者となった。これは2023年8月31日現在でwowakaのみが達成している偉業である。



 公式動画はこちら。YouTubeで動画投稿している"ヒトリエ"はwowaka主宰のバンド。


ニコニコ動画へのリンク 




 楽曲形式は次の通り
A-間奏1-A-B-C-D-間奏2-A-E-B-C-D-A
 この曲はこのように分けられる。間奏1はintroの役割も担っているが、はじめのAメロが孤立しているわけではないので間奏1とした。Dメロに言葉の歌詞はないが「oh」で歌っている。大きく見ればA-間奏1-1番-間奏2-2番-Aとなる。サビについては後述。解説の都合上間奏1から分析していく。


 間奏1はイントロの要素を担っている。ギター風の潰したシンセの音色で跳躍進行を主に演奏される。2小節ワンフレーズで、内訳は上行跳躍の付点四分音符2つ×2回と下行跳躍の四分音符2つ×1回である。付点四分音符が続くためグルーブ感がでる。上行跳躍で上がったテンションを拍通りに下行跳躍することでうまいこと収まるようになっている。コードとは独立している、というかずっとiの和音。


 Aメロはノリの良いエイトビートを基調とした主音を重心とするメロディ。上行形のアウフタクトも特徴的で、「あのね」と話しかけるような雰囲気がある。フレーズと歌詞の切れ目がリンクしていてまさしく語るようなメロディである。ベースはずっとiの音。コード感の変化がないので、さらに淡々と主張するような感じがする。
 楽曲最後のAメロだけコード進行がVI-VII-i(自然的短音階)となっていて、これはDメロのコードを受けついでいる。


 Bメロは前後半に分けられる。なお、ベースはずっとviの音、だと思う。
 前半は三連符が特徴的なメロディである。拍通りに上行したあと三連符で下行してくるので、残念感というか期待が薄れていく感じがする。
 後半はボーカロイドらしい超早口のパートが特徴的なフレーズである。3度ずつ上行しながら超早口でまくしたてるので緊張感がかなり高まる。その後は普通ならさらに高音にむかうとか主音へ解決するメロディが来るだろうがこの曲では力なく下行する。強い主張があるのに、自分の中でぐっと堪えているような感じだ。
 

 Cメロは前後半に分けられる。歌唱パートでは珍しく、コードはi-VI-VII-iiiの"小室進行"とか呼ばれるコードで進行する。
 前半は2拍ずつの大きなビートからなるメロディで、しっとりと歌われる。特に各フレーズの最初は二分音符が連続して使われることが多く、言葉がよく伝わる。そして特徴的なのはひときわ目立つ楽曲の最高音。この8度(1オクターブ)の跳躍は、ゆったりとした曲調の中で異彩を放っている。伴奏はドラムスと"柔らかいマレットで叩いたビブラフォンみたいな音"とクラップだけで、この楽曲のなかでも非常に静かな伴奏である。
 後半は前半に比べて音数が増え、言葉が増える。終盤に再度最高音が現れ、順次進行で下行してくるがメロディ上は解決はしない。伴奏はストリングが増え、それだけでも賑やかさが増す。


 Dメロは言葉の歌詞は「wow」で歌われる。4小節×2の前後半からできている。
 前半はじめの2小節は付点四分音符からはじまり、次の小節の頭に四分休符があるメロディで、音の高さはv-vii-↑i-↑i-vii-vとなり対称的である。付点四分音符で勢いよく上がったものの、1拍はさんで拍通りに下がってくるのは歌詞こそないが膨らむ気持ちを抑えているように感じる。続く2小節も先ほどと同じリズムだが、比べて低めの音の高さであり下行形のため、より気持ちを抑えているように感じる。
 後半のはじめ2小節は前半と同じである。続く2小節もやはり同じリズムであるが、高音から下行形で降りてくる。込み上げる気持ちがはち切れそうな感じがする。
 コード進行だがVI-VII-VII-iとベースが上がる。終止形としては偽終止風になり、解決感は弱い。


 間奏2は新規の音楽で、ギターのようなシンセがポルタメントのフレーズを奏でる。


 Eメロは2番に挿入される。短い音価でi度とv度を行ったり来たりするメロディとシンコペーションを含むやや音価の長いメロディから出来ている。ベースはずっとiの音。


 この楽曲でよく議題に上がるのが「サビ」論争である。歌唱パートであるAからEのうちどれがサビなのか。
「Aサビ説」
 楽曲のはじめと終わりに登場するAメロがサビとする説。よくある手法としてサビをイントロ代わりに使ったり、最後にラスサビとして置くことがある。それを考慮するとAメロがサビという考えもできる。しかし、音の高さが低めで盛り上がりが少ないことや、"1番"の中で最初に登場し、一般的なJ-POPの形式ではこの説は特殊であることなどから否定的な考え方もある。
「Cサビ説」
 一般的なJ-POPはA-B-サビの形を取ることが多く、それをこの楽曲に当てはめ、Dを間奏的扱いとするとこの説になる。また、メロディに最高音が登場するためここがサビだという考え方もできる。一方で、一般的なサビは楽曲で一番盛り上がるところであり、Cメロは極端に少ない伴奏によって静かに始まる。それを考慮するとサビの要件を満たしていないとも言える。
「サビない説」
 上記のサビらしい部分が全て要件を満たしていないのならば、この楽曲にはサビはないという考え方もできる。楽曲にはサビが必須ではなく、他の要素で十分成り立つという考え方である。

 これらの説がある中で、私見を述べたい。まず、前提として、感情の発現が最も大きい部分がサビであると考えている。その上で、私はCメロがサビであると考えている。ただし最後のAメロもサビの要素を含んでいる。Cメロがサビである理由として2つの要因が考えられる。
 1つめはコードに関してである。Aメロ、Bメロ、Eメロの分析の中にベースはずっと◯の音」と書いた。かっこよく言えばオルゲルプンクトのように一定のベースの上にメロディが乗っていることになる。すると、旋律による起伏があってもコード感が一定であることによって雰囲気は一定になる。一方でCメロとDメロはコード進行に動きがあり、「和声的進行および解決」という変化がある。
 2つ目は歌詞についてである。まず、Dメロはそもそも歌詞がない。この楽曲の歌詞ははっきり言って難解で複雑に紡がれており、「これだ」という解釈を容易にできない。だが、そこで1つの手がかりとなるのは符号である。実は歌詞がある部分について最初と最後のAメロ、そしてCメロ以外は節の最後に「!」が付く。有り余る思いを叫んでいるということだ。一方、最初と最後のAメロとCメロには「!」が付いていない。解釈が非常に分かれるところだが、最初のAメロは断定、Cメロは自問、最後のAメロは静観と言えるだろう。最初のAメロは他者に向かっているが、Cメロと最後のAメロは自分自身にも語りかけるような歌詞である。「感情の発現が大きい」とは激情的という意味にもとれるが、この楽曲では、内にあるものを成長させようとすることが当てはまると思う。
 これら2つの理由から、Cメロがサビであると考えている。また、2つの条件を満たす最後のAメロもサビと同等の意味があると考えている


 ここからは歌詞について考えていくが、一部分だけ引用する。


 この楽曲はwowakaが語ったように、自身と初音ミクを重ね合わせている。初音ミク黎明期に多く制作された「ミク自身を歌う曲」が時間を越えて「wowakaと初音ミク自身を歌う曲」という新しい形で生まれたのがこの楽曲である。ミクにとってもwowakaにとっても原点回帰と言える重要な曲だろう。
 この楽曲のテーマは「」である。


"あなたには僕が見えるか?"
 wowakaの動画のほとんどはMVがシンプルな一枚絵で、字幕があるだけである。もちろんこの楽曲も同様にだ。ただ一点、他の動画と異なるのが上部にある反転した歌詞である。私発の考えではないが「画面の中のミクが読むための歌詞」という考察には舌を巻いた。一方で、楽曲中に突然反転する歌詞がある。「あなたには僕が見えるか?」。もし、上部に反転したものがミクが読むためのものならば、この歌詞はわざわざ画面のこちらの私達へ、ミクが示した1つの質問である。
 「この歌が好き」という言葉は、クリエイターにとっては賛辞だが、歌手であるミクにとってはどうだろうか。あなたが曲を褒める時に、歌手のことは考えているだろうか?「『アンノウン・マザーグース』が好き」の中に「初音ミク」は見えているか?音楽の大量消費社会において、これは一種のテーマだろう。
 これはクリエイターについても同様である。「この曲が好き」の中にクリエイターの存在は見えているだろうか?曲自体を愛して、クリエイターやミュージシャンに囚われないことももちろん音楽の楽しみ方として尊重されるものである。それでも、クリエイターをあっての楽曲という考えもあるだろう。「『アンノウン・マザーグース』が好き」の中に「wowaka」は見えているか?





"いつだって転がり続けるんだろう"
 wowakaのミクが「転がる」と歌ったら、多くの人が『ローリンガール』を思いつくのではないだろうか。『ローリンガール』も非常に多くの解釈を生む楽曲だったが、彼女は転がり続けた。そして彼女が転がるのを止(や)めたとき、息を止(や)めた。とても大きな解釈になるが「転がること=生きること」なのではないだろうか。張り裂けそうな心を抱え、慣れてしまうほどの痛みに曝されながらも「転がること」を選択したのは誰だろうか。それは「あたし」である。「あたし」は誰なのか。それが指す人物は初音ミクだけではないだろう。私には、様々な障壁に立ちふさがれてもなおクリエイターとして生き続けるwowakaの決死の選択に思える。




"あたしが愛を語るなら"、"あなたが愛に塗れるまで"、"あなたが愛を語るなら"、"愛の唄 歌わせてくれないかな"、"ねぇ、愛を語るのなら"、"あたしが愛になれるのなら"、"この世界を愛せるかな"、"ねぇ、あいをさけぶのなら"、"あたしがあいをかたるのなら"
 楽曲中に「」に関係する歌詞はこれだけ登場する。というテーマを隠すことなくダイレクトに打ち出したこの楽曲では、ただひたすらにへの渇望が綴られている。「あたし」はあなたに、世界に対して熱く強く胸が苦しくなるほどを求め、与えようとしている。
 初音ミクはあくまで音声合成ソフトであり、そこに感情などない。しかし、クリエイターの手によって歌や言葉を手に入れることで喜怒哀楽・愛憎・心を持つことができる。そこに求めているのはデモシンガーのように使われる機械的な操作よりも、「私にくれた歌」を歌わせてもらえる愛情だろう。そして与えられたを語る時に、それは言葉や歌を超越したものへと昇華していく。このように、初音ミクや音声合成ソフト、ひいては他のアクセサリー・ツールは全て、クリエイターによるを求め、それを受け取ることによって自分自身を「新しい」へと変化させることができる。
 wowakaは同時に、この楽曲をクリエイターが受け手(世間)へ作品を送り出す状況にも重ね合わせているのだろう。受け手(世間)に対して、より興味深く感動的な経験をしてもらうために、クリエイターはその技術とをもって作品を制作する。時には、自身の地位の向上のためによりも結果を求めることもあるかもしれないが、頭や身体を悩ませて生み出す作品には、少なからずがこもっているはずである。そして、クリエイターは自分自身の"言葉"でを語るのである。しかし、どれほどを込めた作品でも受け手(世間)はその造形に満足し、内面的なを受け取ることなく作品を消費してしまう現実が少なくない。それを皮肉にも表現した言葉が「」である。
 この楽曲では、に対する答えの1つとして「あたしがあいをかたるのなら そのすべてはこのうただ」と伝えている。初音ミクにとって、そしてwowakaにとって、この歌こそがなのである。2人から与えられたこのに対してどのように向き合うことが我々からのであるか、考えさせられる。



 今回のお誕生日企画は1クリエイター1曲を原則にブログを書いています。wowakaさんについて書くことは決めていましたが曲は何にしようか悩みました。候補はいくつもありましたがその中でも私が思う代表曲にしようと決めました。本人は望んでいなかったとしても結果的に"集大成"となった『アンノウン・マザーグース』は遺作という点でも人気という点でも代表曲と言えるのではと思い選曲しました。
 wowakaさんの存在は初音ミクをはじめ、VOCALOIDの魅力を多分に引き出し、ボカロ界の発展に大いに貢献しました。ここにその活躍と意志を称えます。

 最後に、wowakaさん自身がこの楽曲へ言及したツイートがあるのでリンクを置いておきます。また、使われていないアカウント削除の動きがあるようなので、誠に勝手ながら当該ツイート添付の画像を引用(転載)させていただきます。