現況:不詳
肥城路(馬関通21)
竣工 1914年以前
設計 不詳
施工 不詳
肥城路(馬関通21)
竣工 1914年以前
設計 不詳
施工 不詳
中山路から天主教堂へのぼる坂道(肥城路)の途中にある建物ですが、
アパートかホテル、あるいは教会の関連施設だったのかもしれません。
おそらくドイツ統治時代に建てられたと思われますが、
最近塗りなおされてきれいになっています。
アパートかホテル、あるいは教会の関連施設だったのかもしれません。
おそらくドイツ統治時代に建てられたと思われますが、
最近塗りなおされてきれいになっています。
2枚目は絵葉書の一部。背景に1930年着工1934年竣工の天主教堂が映っていませんので
1930年以前の絵葉書と思われますが、
静岡町(Shizuoka Street)(現・中山路)と書かれていますので
日本が占領した時期(1914年以降1922年まで)の絵葉書と推定できます。
手前で交差している道が静岡町(中山路)です。
奥に見える聖心修道院は1902年、手前の海恩大楼は1904年竣工とされていますので
この建物もほぼ同時期の竣工と思われますが確証はありません。
5枚めはウィキペディアより。
1930年以前の絵葉書と思われますが、
静岡町(Shizuoka Street)(現・中山路)と書かれていますので
日本が占領した時期(1914年以降1922年まで)の絵葉書と推定できます。
手前で交差している道が静岡町(中山路)です。
奥に見える聖心修道院は1902年、手前の海恩大楼は1904年竣工とされていますので
この建物もほぼ同時期の竣工と思われますが確証はありません。
5枚めはウィキペディアより。
2011年7月に出版された『消えた学院―日中共学を実践した『青島学院』の30年を追う』(ラグーナ出版・米村秀司著)という本によれば、
この建物は元はドイツ人の家で、1914年に日本が占領してからは、青島基督教会が使用していたそうです。
青島英学院はクリスチャンでコロンビア大学を卒業した吉利平次郎(よしとし・へいじろう)氏が1916年4月に設立した日中共学の夜間の英語学校で、翌年「青島学院」と改名し、簿記、日本語などを教えました。
その後、同学院は1918年に葉桜町(現・館陶路)に移転し、1925年夜間部を青島学院実業学校とし、1921年に開設した5年制昼間部の商業学校は、1934年に新校舎を台西鎮単県路に作り、青島学院商業学校として発展しました。1938年には商業学校のあとを利用して、紘宇高等女学校を設立しました。
したがってこの建物は「青島学院発祥の地」ということができます。
同書28pに掲載されていた写真3・4を参照。
青島学院実業学校と紘宇高等女学校については次のページをご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/yosihei8jp/62599999.html
この建物は元はドイツ人の家で、1914年に日本が占領してからは、青島基督教会が使用していたそうです。
青島英学院はクリスチャンでコロンビア大学を卒業した吉利平次郎(よしとし・へいじろう)氏が1916年4月に設立した日中共学の夜間の英語学校で、翌年「青島学院」と改名し、簿記、日本語などを教えました。
その後、同学院は1918年に葉桜町(現・館陶路)に移転し、1925年夜間部を青島学院実業学校とし、1921年に開設した5年制昼間部の商業学校は、1934年に新校舎を台西鎮単県路に作り、青島学院商業学校として発展しました。1938年には商業学校のあとを利用して、紘宇高等女学校を設立しました。
したがってこの建物は「青島学院発祥の地」ということができます。
同書28pに掲載されていた写真3・4を参照。
青島学院実業学校と紘宇高等女学校については次のページをご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/yosihei8jp/62599999.html
AD