緑の中を行く
6月2日大森風に吹かれてにて。
四国から戻り、梅雨の走りの空。この季節、いろいろな場所で新茶の頂き物。上の写真のは御殿場から届いた。急須はシバさん作をひさしぶりに。数年前のシバさんの個展で、この急須を手に取った時「お茶はちょっといいやつ使ってね」と言われた。いいやつ同士。
風に吹かれて では。小山トシヒロくんのCD完成記念ライブ。
「今日のうた」というタイトルどおり、小山くんの日々の暮らしを一日にまとめてしまったような選曲。彼は産業廃棄物を取り扱う会社をやっている。アルバムジャケットには実際の現場、つまり人間の暮らしから放棄されてしまったモノたちの山の中でギターを持って空を見上げている写真。
サウンドプロデュースの井上ともやす君の力もおおいに生かされていると思う。
私もコーラス、ダルシマー、そしてライナーノーツに参加。
今日の記念ライブでは若手ミュージシャンの活きの良い音と、ゲストの生田敬太郎さんの円熟のハープと北帰行も聴けました。そして私も「ヨイシラセ」をバンドで唄うことができてありがたいこと。このアルバムの総合プロデューサーは金谷あつし、腕の怪我も少し回復しているらしい。
6月3日豊島市民センター多目的ホールにて。
宍戸大裕さん監督の新しい映画が出来上がり、完成上映会に駆けつけました。
題名は「杳かなる」~はるかなる~と読みます。
映画はALSと生きる人たちの日々のドキュメンタリーです。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病を発症した女性、佐藤裕美さん。
そしてもう一人は岡部宏生さん。40代の働き盛りにALSを発症し49歳で気管切開、人工呼吸器との人生が始まって20年近く、瞬きでしか意思の疎通ができない岡部さんは、透明アクリル板の文字盤を、介助者との「まなざし」と自分の「まばたき」のやりとりで文章にする。そのやり取りは今までに聴いたことのない新しく美しい音楽のようにも聴こえました。
ALSは発症後、平均3~5年で筋肉が衰え自力での呼吸ができなくなるという。患者の7割が人工呼吸器をつける選択をせずに亡くなっていくという。佐藤さんはまだ人工呼吸器は装着をしていませんが、ゆくゆくはその選択をする日がやってきます。
人工呼吸器とともに24時間介護で自立生活をしている人のことを知ったのも、宍戸さんの映画「風は生きよという」でした。主人公の海老原宏美さんの明るい生き方にビックリしました。風は生きよという~の風とは、人工呼吸器の音にもつながると、その映画の解説にはありました。その音はいのちそのものでもあった。
海老原さんは21年の冬に亡くなりましたが、その最中にもこの新しい映画「杳かなる」は撮影されていたことになります。
とても長い時間をかけて制作されたのには、監督とカメラマンのまなざし、小さな息遣いも逃さない繊細さ、どこまでもゆっくりと一緒に歩こうとする豊潤な心が一生懸命働いていたからだと、想像します。
これは3年前にNHKハートネットに掲載されていた、今回の主人公の一人佐藤裕美さんの言葉です。
「あなたが生きるとすごく負担がかかる人がいますよとか、家族は大変ですよとか、医療の資源、社会保障の資源とか、いろんなものをこういう人はすごく使うんだということを言いたがったりする人だとか。私たちが生きることに対しては希望的な議論がない。尊厳ある死を語るんだったら、尊厳ある生を語るべきであって、同じように語らなければ違う」(佐藤さん)NHKハートネットより。
佐藤さんは、岡部さんと出会い、自分の生きる意味を揺れ動く心のままに悩み考えていく。それが、「難病当事者交流会IKEBUKURO難病カフェ」の立ち上げという形にもなりました。
この映画は、書ききれないたくさんの想いを、私の心の中に呼び覚ましてくれました。
上映が終わって、劇場挨拶の席上、岡部宏生さんは「この映画は少なくとも3回は観てください。」と言いました。
人工呼吸器と、家族や介助者と共に全身全霊で生きる人たちから教えてもらうのは、突き詰めていけば自分自身のことです。生きることです。上映会が始まったら私も何回も見たいと思います。
2011年から私が唄い続けている曲の一つに「足もと照らせば」という曲があります。誰かに運んだつもりの灯りは気づけば自分の足元を照らしてくれています。
「あなたを照らす小さな灯り、私の小さな道しるべになる」
足もと照らせば
6月8日warpにて。
ナベちゃんこと渡辺義行さんと出会ったのは、16~7年前になるでしょうか。各地の憲法フォークジャンボリーで。
筋ジストロフィーという病気のために車椅子の生活ですが、実に行動的で、ヘルパーさんとともに遠くまで旅をして、時には「歌」も唄います。冬の北陸で一緒にカニを食べた忘れられない想い出
「銀色のランナー」という代表曲は、メロディーは坂庭省吾さん、歌詞はナベちゃんと笠木透さん。
ナベちゃんがコロナ禍で出歩けなくなり、そのうえ腰の骨を折る大けがをして、遠出は無理になってしまったことを気にしていた石川県の川崎さん親子やその仲間たち、どこかナベちゃんの近くでライブやれたらなあ。
八王子のwarpに相談して実現することができました。この場所で私が唄うときにはナベちゃんは必ず聴きに来てくれた。
車いすで上がれるように、簡易スロープまで用意してくれた
warapの小林さんが今回も奮闘してくれました。
川崎さん夫妻と草汰くん、かんちゃん、たけちゃん、恭子さん、そして石川、長野、岐阜、茨城、遠くからたくさん応援があり、warpは超満員。
最後はみんなで銀色のランナーを唄いました。
「ぼくは君と一緒に走る
銀色のランナー
キンジスという名のトロフィーを
背負って走るのさ どこまでも
どこまで行けるのか 分らないけれど
ぼくは君と 一緒に走る
銀色のランナー」
私は車いすには乗っていないけれど、歌詞にあるように
どこまで行けるのかわからないけれど、、、という条件はおんなじです。
一五一会の名プレーヤーであり、素敵なシンガソングライターの川崎草汰くんも生まれながらに困難を持っている青年です。私がナベちゃんや草汰くんと仲良くなれたのは、歌という道具とそれを使って繋がろうとしてきた人たちのおかげです。
またね、ナベちゃん!またね草汰くん!
warpの皆さん、ありがとうございました。
ヤドリギノニカイの1階にあったミシン。我が家のも同じだった。
6月15日愛媛伊予市 町屋にて。
雨降り予報でしたが、空は奇跡的に曇天で止まっています。
朝4時に起きて、というよりもあまり眠らないで飛行機に乗って松山に。空港には昨年同様に迎えに来てくれた友だち。ありがとう。
ふるさと交流市場町家は20年。町家ライブも20年目、
屋外の無料ライブだが、ここでしか会えない人もある。そして新しい出会いも必ずある。
「夜は松山で唄います。」と言って終わったら、「どこでやるの?」と見知らぬ女性。
夜唄う場所の地図を書いてもらい渡したけれど、地図を受け取り、手ぶらでサンダル履きのその人は何も言わずに消えていったのです。
夜は、松山道後にある「ヤドリギノニカイ」という素敵な場所。以前病院だった建物をリノベーションして、小さな部屋は生音のコンサートだけを少人数相手に行っている。
一年ぶりに会う流水龍也さんとアコーディオンのリサさん。
私たちは、この部屋の響きに嬉しくなって、気持ちの良すぎるライブが始まりました。
すると、ビックリ!昼の町家でのあの手ぶらサンダル履きの女性が、息せき切って部屋の階段を駆け上がってきました。手には地図を握りしめて。ふと、この人は妖精ではないだろうか?時々こういう風にすれちがう人がある。その時にふぅっと漂う空気を、今日、そのひと感じたから。二度と会えないかもしれない妖精さん。
夜の道後から、大洲まで、国見さんの車で。1時間半、山道を行くと、初夏の愛媛に来たなあと、今年も感じ入るのです。
6月16日大洲家族旅行村キャンプ場にて。
見事に晴れた日曜日です。朝から音楽と、食べ物と、みどりを楽しみます。
近隣の農家のビワがビニール袋いっぱいで100円で売られていました。カメムシの被害で売り物にならないという。
無農薬のとても美味しいビワ。。。
農業や養鶏などやっている若い人たちにも出会いました。
今年やっと言葉を交わすようになったのは、はるちんという女性で、農業をしながら歌も唄っています。暮らしの歌が素敵でした。
佐田岬の人たちにも久々に会えました、ヤマウチコウタくんの歌を聴きながら野外出張の整体を受けました。
内輪の打ち上げは国見さんのパワフルな料理です。
いちにち陽に当たって過ごす贅沢をありがとうございます。
また来年!
翌朝は、再び松山から友達が迎えに来てくれて海沿いをドライブしながら空港まで。幼いときから足が不自由の彼女は外出する時は車いすですが、車の運転が上手く、私はいつもお世話になるばかりです。
昨年悲しい出来事のあったけれど、これから近い将来にやりたいことなど、道々はなしながら。ありがとう、また近い日に。
6月21日赤羽青猫書房にて。
夏至の夕べに宮尾節子さんの詩の会があるといって、山梨の詩人の髙部久理子さんが誘ってくれました。
カレンダーで「ああ、今日は夏至なんだ」ということはよくあるけれど、
「こんどの夏至の日に、なになにしよう」っていう機会はそんなにないでしょう?誘ってもらって二つ返事でした。
久理子ちゃんと二人で待ち合わせなんて初めてだし、青猫書房も初めて、でも行く前からそこが良い場所であることは感じていて。。そしてその本屋は想像以上に素敵でした。
始まる前に絵本の物色。いろいろ欲しくなるけれど、私は一冊だけ、7月生まれの孫の一人に。でも、送る前に私が読むんだ。
宮尾のせっちゃんは、小さいころの言葉との出会いから話をしてくれました。木登りが得意な子だったせっちゃん、詩作は木登りに似ているという。次の枝を掴みに行く、そうすればまた新しい景色を見ることができる。言葉も、掴んで!
残った時間で、まあるく輪になって座っている参加者全員で、詩を繋いでいった。音楽ならアドリブのセッションだ。
私は楽器のアドリブは得意でないけれど、なんだか詩は専門ではないという気軽さもあって、、そしてあの木登りの話の後だったから、そうか、言葉は無理にキリキリと絞り出すものでないのだなあ。。。と。。。「これっ!って掴むのね」
「一篇の詩は。。。」というフレーズから始まる輪作は夏至の夜にぴったりな解放感がありました。
この日、久理ちゃんと赤羽駅で待ち合わせして店に向かう途中、私がドラッグストアでハンドクリームを買いたいと呟くと、久理ちゃんがお土産に用意してくれていたのが手製の良い香りのハンドクリームだった!という!
夏至の夕のシンクロニシティではじまった時間、ありがとう!
6月22日萩、「スナックどんまい」にて。
ナマリノゾミさんに出会ったのは、2012年12月、岩手県大槌町。カリタスボランティアベースでナマリちゃんはボランティアとして仮設住宅などをまわっていました。それから大槌の変化とともに10年間働いて、実家のある山口萩市に戻り、昨年秋に「スナックどんまい」を始めたのです。私も行きたかったし、ナマリちゃんも来てほしいと思っていたというタイミング、嬉しい再会と、スナックどんまいライブ実現でした。
ひっそりと人影まばらな商店街のはずれ、しかし、スナックどんまいには老若男女がたくさん集まりました。カウンターの中のナマリちゃんの動きや応対を観ながら、ここは大槌の仮設のスナック?ではないかと、錯覚しそうでした。あの頃もそうだった、皆、誰かと話したくって、過ごしたくって、夜な夜な集まって、遅くまで語り合っていた。
これをふるさとでもやりたかったんだね。。。
古い町だけれど、ちらほらと移住してくる若者もいるという。今夜の宿も、そんなやる気のある世代のつくったゲストハウスです。
6月23日萩 廻69 にて。
古い町並み、昔の家屋を素敵にリノベーションして使っている一軒で贅沢なライブです。
ここは、元金物問屋の店兼住居だったという。
さて、ここでもビックリ!
音響さんが来ているのではやくいきましょう、と、ナマリちゃんに連れられて現場に行ってみると、車の中からにこにこ笑っている人。どこかで見たことがあるようだけれど、誰?
30秒くらいたって「あ!岡本くん!え~っ?」
いやあ、わからなかった、日に焼けて精悍な顔つきになって別人だよ!
そう、大阪のチャクラで音響をやってくれて、私のCDの録音も何度もやってくれた岡本修道くんだったのです。
大阪時代は青白い顔でひょろっとしていて、笑顔もあまり見せなかったのに、、実家のある山口に帰り、岩国の工場で昼夜働いて、山や畑にでたり、川下りしたり、そしてつい数日前に音響設備一式を手に入れたばかりだったというのです。
「3/4あたり」という私のCDが彼の初仕事でしたが、今回も山口での音響の初仕事は私のライブです。これから大きく広がっていけたらよいです。
すっかり安心をして、良い音で唄えるシアワセをかみしめながら、萩という町で歌を聴いてもらえる機会をつくってくれたナマリちゃんに感謝です。
今日のライブでも客席は老若男女、
そしてWe Shall Overecome を3番まで唄える人が沢山いました。
梅雨空の萩にて指月山 日本海
6月27日東中野じみへん にて。
およそ3か月に一度くらいのペースで唄うのだけれど、その間にいろいろな場所に出かけて、この店にはいつも、ただいまと帰ってきてうたう感覚。
今夜はゲストに、うたたねPlumさん。彼女の大切な活動である映画「カンタ!ティモール」の上映会。
少しでも多くの人に映画のことを通して、平和について、生き方について考える機会が作れたら。。。
今夜も語りで綴る「うたえ!カンタ!ティモール」から。
真っすぐな思いが、彼女の姿に溢れていて輝いていました。だから聴いている人たちにも届いていると感じました。
6月なので「夕張めろん」を。作者の皆川さんの三回忌に先日参加した同じく夕張出身ジャッキーさんに唄ってもらい、らんぶりんまっくさんにはワイゼンボーン。最後はジュランのハープもありがとう。
私は初めての歌もいくつかあって、それだけでも新鮮。それなのに、Plumさんが沢山声をかけてくださり、びっくりするほど満員のじみへん、皆さんありがとうございます。
《夏至の夕べにつないだ詩》
一篇の詩は。。。と、ノートに書き始めると
次の言葉が私を待っていてくれるような気がする
一篇の詩は。。。次の言葉に気づかずに
私が通りすぎていかないように
一篇の詩は。。。私に気づくために
あなたに話しかけるために
一篇の詩は。。。海よりも空よりも大きくて広い
私とあなたくらい 深くて豊か
つながっていること
5月8日
東京都美術館にナカハタトモコさんの参加しているグループ展へ。彼女は裂き織りを得意としていて、今回の作品は喪服の黒紋付きと襦袢の赤で、追悼と希望の思いを込めているという。赤黒いうねうねは我が家に上がり込んでくる大きなムカデの動きのようなイメージもあって、生命力が伝わってきます。
5月12日
岐阜県北方にて
林亭、ヒルトップストリングスバンド、そして私。北方町生涯学習センターきらりという立派なコンサートホール。
PA福井さんの音に支えられ、佐久間順平さんのきっちりとした進行に導かれ、楽屋や舞台袖では大江田信さんに癒され、ヒルトップストリングスバンドは50年の歳月に醸されて、
その音にはため息と喝采です。
林亭の二人と私と、お茶の水ヒルトップホテルは同じ年齢、1954年生まれ。でもホテルは今年2月に閉館してしまいました、、、。味わい深い山の上のホテルは、文豪が投宿して執筆していたことでも有名です。ヒルトップストリングスバンドというバンド名はこのホテルにちなんでと、バーボンストリートブルースのレコードジャケットには記されています。
「今度、あのバンドでレコーディングするよ。みんなとてもノッテるんだ。レコードが出来たら送るよ。」1977年の春先、そんなハガキが東京三鷹からカリフォルニアの私の住む町に届きました。
渡さん、私ね、やっと今日ね、生で聴くことができましたよ。ちょいと一緒に歌ったりもしましたよ。
まぁ、きっとその辺で聴いている気配は感じていたけれど。
5月13日
岐阜から岡山へ。尾崎夫妻の車に乗せてもらい、皆で笠岡の萌に勇造さんを聴きに行きました。ノーマイク、Gibson J-200。ギターケースもきっと重いやつだ。道の先を歩くひとが唄う姿に出会えた夜。
5月14日
岡山禁酒會館にて。
この場所で私はいっぱいにしてもらっているから、私も聴いてくれるひとをいっぱいにしたい。そうやって17年経ちました。
2曲良い歌うたってくれたシバちゃん、ありがとう。うたいながらだんだん元気になってね。
オザキユニットの「横並びに歩きたいね」毎回新しく感じる歌。尾崎さんもバンドも年をとるほどに新しくなっているんだ。歌の中に出てくる映画「山の郵便配達」をひさしぶりに観たくなりました。
小さな館に足を運んでくださった皆さん、早くから準備をしてくださった皆さん、ありがとうございました!打ち上げ会場下津井港のバンちゃん、ビールを温めてくれてありがとう!絶妙の温度です!
5月15日
牛窓てれやカフェにて。
本番までの時間を、丘の上の店の縁側で過ごすのが年に一度の贅沢です。
一人が10人分くらいの集中力と拍手を担ってくれたような、ぎゅっとした時間でした。
牛窓への愛に満ちた店主小林くんは、デニムのタブっとしたオーバーオールを着ていました。なんでも私の50年前のレコードジャケットの写真のオマージュだそうです。
太鼓のおっちゃんと初めて言葉を交わせて良かった!
5月16日ライブは休み。市場恵子さんからサロンのオイルマッサージをご馳走頂き、身体がすっかり温かくなりました。このプレゼントは今日で4回目。夜は尾崎夫妻、市場さんと食事会。
5月17日
熊山永瀬清子の家にて。
詩人永瀬清子さんの生家をリノベーションして保存会を立ち上げた横田登志子さん。
永瀬さんの詩に登場する、井戸も五右衛門風呂も、そしてかまども!このかまどは土間にあるのですが、まるで祭壇のようです。手は加えられても気配を感じる佇まいです。
私は、にわか読者で、今年に入って初めて永瀬さんの詩の世界に足を踏み入れ、この数か月、読めるだけ読んでみました。詩に曲がつけられたらというリクエストがありました。
結局、候補詩には曲はつかず、谷川俊太郎さんの書いた「永瀬清子さんのちゃぶだい」という詩が曲になりました。
谷川さんも永瀬清子さんのファンなのです。
そして、私は永瀬さんの書く短い言葉のいくつかに道を照らしてもらっています。
「正直であれ、正直によって眼をさませ、正直とは浅い律儀さではなく、ねむりこむことではなく、掘りおこす鍬であり鋤である。
正直であれ、正直によって詩人であることをつらぬけ」
永瀬清子 蝶のめいていより
清子の家の10畳ほどの和室に低い椅子に膝折り曲げて座り聴いてくださった沢山の方々、そしてグレンデルの竈屋でのご馳走と語らい、、詩集の中の永瀬さんと、この場所で感じる永瀬さん、これからも私は永瀬清子さんと対話をしていくでしょう。その対話の中で歌を作り次に機会があればこの場所で唄いたい!と思いました。
5月18日
姫路労音音楽の間にて。
尾崎ツトム、清子さんと3人で、朝ごはん抜きで出発。姫路労音では毎回、到着する私たちのために、大量の素麺を茹でて待っていてくれるからです。
播州の素麺は本当に美味しい。贅沢な食べ物だと思います。こんなに美しい食べ物、昔は庶民はなかなか食べられなかったのかもしれません。
尾崎ツトムさんが珍しく椅子に座って唄いました。その雰囲気がよくて、「牛窓オリーブ園の丘にて」をじっくりと聴くことが出来ました。
私のこのツアーではじめてうたったShe said NO! の最後は皆でWe Shall Overcome の大合唱でした。
良い音響に声も助けてもらいました。
昼に素麺を食べたテーブルには打ち上げのおでんやチヂミロールキャベツおにぎりが並び。お腹いっぱい食べました。
5月19日
長島愛生園さざなみハウスにて。
このライブが決まったのは、今年に入って金沢の絵描きHISAさんからの一本の電話から。
「よしこさん、ハンセン病のこと知っていますか?世界ではまだまだ多くの人が苦しんでいる。インドの物乞いの人の動画を送ります。」
現在でも世界で年間14万人が発症するハンセン病。そのうち約半分を占めるのがインドだという。
家や地域社会を追われ物乞いという生き方しか選ぶことのできないインドの人たちの映像を観ながら、私は自分の気持ちがハンセン病という問題からとても遠いところにいたなあ。。と思いました。
これまでに私は岡山の長島愛生園、そして熊本の菊地恵楓園で唄わせてもらう機会がありました。。園内を見学して、日本におけるハンセン病の強制隔離、人権闘争の歴史、そして入所者の方々の多くが文学、音楽、絵画、などの芸術に人生を昇華させていかれたことなどを知ることもできました。しかし、知ってしまったけれど、それ以上深く意識を持ってかかわるには大きくて重すぎると、何年もそう思っていました。
「私、いつかハンセン病療養所へ自分の絵を持って、元患者さんたちにみてもらいたいって思っているんです。」
HISAさんの純粋な思いにハッとさせられて、その日のうちに、尾崎ツトムさんに電話して、長島愛生園の看護学校で授業を続けたり、様々なかかわりを持っている市場恵子さんに伝えてもらうと、ほどなくして、愛生園にあるさざなみハウスでのライブをできるように動いてくださいました。
瀬戸内海の静かな海に浮かぶ長島は国立ハンセン病療養所の長島愛生園と邑久光明園のある島です。
かつては7000人以上が強制隔離収容され、戦時中は食料も乏しい中、遠く家族故郷から引き離された幼い子供達も強制労働させられ、その為にたくさんの命が失われ、患者同士の結婚には断種手術が強制され、それでも妊娠すれば堕胎が行われ、、、やがて治療薬ができて回復を果たした人たちも、後遺症のために手足を失い、神経の麻痺、視力を失うことも多く、人の目に見えやすい部分である手指や、顔面の変形は悲しい現実として、激しい差別と偏見に晒されてきました。
今は回復者の方々も高齢となり、愛生園で約90名ほどがゆっくりとしずかに暮らしています。
さざなみハウスという見晴らしの良いカフェからは、さざなみの音がずっと絶え間なく聞こえます。島の100年をずっと見つめてきた波たちです。
カフェの鑓屋翔子さんは、4年前に島にやってきて店を始めました。入所者の人たちとの触れ合いの日々を綴っている新聞があります。
「長島での出会いは緊張の連続だった。ハンセン病について何も知らない私は境界線の外側にいると思っていた。
だけど、そこに線はなかった。
あるのは、この島でずっと続く生活の営みだった。」
美味しいおにぎり弁当を食べ、窓から入ってくるさざなみの音に心をゆだねながら、今日のライブの中身を考えました。
オザキユニットの尾崎ツトムさんのつくった「牛窓オリーブ園の丘にて」は、50年前に尾崎さんが初めてこの島にポンポン船に乗ってやって来て、真実の一端を実際に見聞きした時のことを唄っています。
歌の最後はこう締めくくられています。
「時が流れ今ではその島に橋が架かり、誰もが車に乗ったままで島を巡ることができる
しかし その島に刻まれた過酷な人々の歴史は 、立ち止まり 目を凝らし 耳を澄ませなければ解らないだろう」
絶対隔離の島に橋が架かったのは1988年、人間回復の橋と呼ばれてきました。
そうだ、遠くは青森、愛知、京都、鳥取からも、、岡山に住んでいても初めて訪れる人も、、皆、今日は邑久長島大橋を渡ってここに来た。だから、一人一人が、橋を渡る前とは違う新しいことに何か一つでも気づけたら良い!
立ち止まり 目を凝らし 耳を澄ませ、この場所で思ったこと、感じたこと、考えたことを、心に刻んで、明日に持ち帰ることができるように、私は唄おう!そしてHISAさんの描く絵に何が産まれてくるのか、皆で楽しみにしよう。」
唄う私の傍で無心に描くHISAさんは、目に見えないなにかと交信をしているようで、その気配を感じながら唄うのは、言葉では表せない感覚でした。
参加者の半分ほどは、島の見学で悲しく辛い歴史の記録に触れた後、ライブ、そのあとは、宿舎での懇親会、その時にはみな笑顔笑顔で、それは翌日それぞれ別れる時間まで続きました。沢山沢山笑いました。
「長島」は立ち止まり 目を凝らし 耳を澄ませ
考える 大切な場所となりました。皆でつくったかけがえのない時間です。
5月20日
備前カフェランバーにて。
山陽ツアーの最終日です。
沢山の人たちに、いっぱい満たしてもらった私は、最後の日にふさわしい歌と話でいっぱいにしたいと思いました。途中で陽空希衣(ひあきけい)さんという女性が一曲歌ってくれました。
私は全部出し切ってしまった状態になりましたが、ランバーの峯子さんの用意してくれたご馳走を皆で分け合いながら、残った人たちの話を聴いていると、人と人の繋がりの不思議に今日もあたらしく感動します。
備前という小さな町の小さなカフェに、集まる人たちのいろとりどり。境遇も、職業もいろいろですが、社会の中で地域で自分を生きている人ばかりです。
私は、自分では経験したこのない人生のひとかけらをこうして教えてもらいまたいっぱいになります。
夜は、峯子邸にて、律ちゃんにコンディショニングという体の整え方をレクチャーしてもらいました。
以前は皆でお灸をし合って部屋が煙でどんよりしてしまったこともありました。
最終日の夜には運よくこんな風にして身体を労わるメニューに必ず出会います。
5月25日
板橋ドリームズカフェにて。
店のマスター野々村さんが今年の春先に亡くなりました。
パートナーの裕子さんは、ほどなく店を開けて今まで通りのライブもランチもやっています。
音響もマスターからきちんと教えてもらったという話を人伝えに聴いた時は切なくなりました。
去年、マスターが闘病中に一緒に唄ったことは大切な思い出。
だから、今度は裕子さんと唄いましょうということで、杉本さんがピアノ、助っ人のベースのしんごくん、そして私。
Love has no prideとYou've got friendを裕子さんのリードボーカルで。客席には店の常連も沢山。
歌があって良かった。。ただただそう思う夜。
5月30日
高知パラダイムにて。
年に一度の高知。
私は、ゆっくりと前日から入るつもりでいたのに、何を勘違いしたのか、すっかり忘れてしまいました。大慌てで、新幹線から瀬戸大橋を渡る特急南風に乗り継いで今日の夕方に高知入り。
ニセのBAND花子、池マサト、二人とは二度目の共演ですが、リハーサルで池さんの歌に感動してしまいました。
5歳の次男が、もいちど3歳に戻りたいと言っている歌です。本当の話であることはすぐに分かりました。聴きながら、私も3歳に戻りたくなる、そういう歌でした。
主催をしてくれた高須賀満さんは、今夜は1曲だけ唄うという演出でした。しかし、この一曲は、昨年、高須賀さんとライブ明けの高松の朝、珈琲屋で、「何か、みんなで唄える歌をつくりたい。」と言っていた通りに出来上がった曲でした。題名は「地球の庭で」。
高須賀さんは会うたびに新しい歌が産まれていて、だから高地に毎年来たくなるのだと思います。
客席は毎回会う人たちに加え、お店でお客さんを呼んでくれて、それもありがたいことです。パラダイムはもう15年ほど前からお世話になっています。一番初めに来たときは永原元ちゃんと一緒でした。
5月31
日高松オリーブホールにて。
立派なホールで、豪華な音でやるのです。普段はメジャーなバンドがスタンディングで興行をするような場所です。
高須賀さんはリハーサルなのに全曲フルに唄っていました。
もう気持ちが良くて、ずっとステージで遊んでいたくなります。
私も、いつもとは違う分厚い音響で、自分で自分の声やハーモニカの音にビックリしてしまいます。
一方、本番で、客席はとても静かです。真っ暗ですが、拍手の音でだいたい何人くらいか予想はつきます。
そして最後の曲が終わって、楽屋に戻り、客席がシーンとしているのがわかりました。「アンコールはないんだね。。終わろうね」と高須賀さんと話して客席に出てみると、皆さん明るい中で座ったままいるのです。
なので、もう一度ステージに上がって高須賀さんと一曲。
後で聴いたのですが、皆、余韻に浸ってシーンとしていたんだというのです。
客席が静かだというのは、決してよくないことではないのですね。少し時間がたって急に嬉しくなりました。
駆け足の高知高松ではあったけれど、充実した時間。高知では髙部久理子、宮尾節子という土佐生まれの詩人の歌を思い込めてうたえました。高松はうどんも食べて、旧友と言いたいことを言い合って、ふるい馴染みのギターにも挨拶ができました。瀬戸大橋を渡るのはもう何回目だろう?何回目でも胸が高鳴ります。橋はここからそこへ、自分がつながっていることを示してくれます。
5月は盛りだくさんでした。
知らなかったこと、知ろうとしなかったことへ向き合ってみれば、そこには自分とは無関係なものはなにもない、、、
HISAさんから、さざなみハウスでのライブペイントがその後少しずつ変化しているといって送られてきた写真。幼いころに病を発症して愛する家族と離れ離れのまま島で生涯を終えた幾千の魂たちの語らいであるかもしれない、、そして、私と母の魂の対話であるのかもしれない、、絵はまだ変化をしていきそうです。
心を空っぽにしたときに、手が動いていく、、という、、HISAさんの透き通った心の絵。
《海よりも、空よりも、広くて深いものがある
それはひとの心
今日、私は、私の心にこの島をまるごとおさめて
家に帰ろう
この島の100年をまるごと持って帰ろう
この島に眠る幾千の魂も一緒に
もう、決して遠いものにしないように
それは、いつも私とつながっているのだと
わすれないように
私の心が、海よりも、空よりも広くて深いことを
わすれないように》 y.y 2024 05.19.
免許更新と読書
4月7日 大森風に吹かれてにて。
映画「カンタ!ティモール」の上映会。私は映画の後に唄いました。
映画の舞台となっている東ティモールの歴史を知ったのは、この映画を観たおかげです。
1975年にポルトガルから独立した直後、今度はインドネシア政府軍が治安の安定という名目で軍事介入して支配下に。24年間におよんだインドネシア時代には、東ティモールの人びとがさまざまな苦難を経験したこと。戦争、飢餓、身体的暴力により命を失った人も多く、映画では体験者の話が多数登場します。数年間戦争状態、人口約60万人のうち10万人以上の人が亡くなったといいます。それは日本にも無関係ではなく、当時日本政府は莫大な軍事経済支援をインドネシア政府にしていたと。
そして、南洋の美しい島は、今も、島と周辺海域の豊かな資源のために世界の大国の欲望の的となっていることを知ります。
しかし、この映画のタイトル「カンタ!ティモール」のカンタ!とは「唄う!唄え!」という意味。ただ単に島の苦難の歴史だけではなく、そこから立ち上がり暮らしをはじめて、笑顔を取り戻し、唄う人たち、とくに若い人たちと子供たちの姿をみつめています。
監督の広田奈津子さんが初めて島で耳にした歌、その歌が帰国後も心から離れずにいたところからすべては始まりました。
彼らのことばが、うたが、
いつまでも 心をはなれないのは、
それがほんとうの 物語だから。
映画監督 広田奈津子
映画の主要人物であるアレックスという青年。彼は行く先々で子供たちと共に自作の歌をうたいます。残念なことにアレックスは亡くなってしまったのですが、彼から、届いたメッセージが、この映画とこの映画を広めていく人たちに共有されているのだと思います。
自分たちの仲間が
10人にしか見えなくて
対するものが大きくて
巨大で1000人にも見えても
あなたのやろうとしていることが
命に沿ったもの
命が喜ぶことであれば
亡くなった人たちも
これから生まれてくる人たちも
ついていってくれるから
それは1000どころじゃないから
絶対に大丈夫だから
恐れずに続けてください
仕事の途中で命を失うかもしれないけれども
それでも大丈夫だから続けてください
心細くなった時は
自分たちのことを思い出してほしい
自分たちは小さかった
「あの巨大な軍を撤退させる
ということができたら奇跡だ」
と笑われた闘いでした
でも最後にはその軍も撤退しました
これは夢でも幻想でもなく
現実に起きたことで
目に見えない力が
僕らを助けてくれたから
どうか信じて
あなたの道を進んでください
ヘルデール・アレキソ・ロペス/通称アレックス
今日の映写会を開いてくれたのは、うたたねPlumさん。
彼女はカンタ!ティモールを一人でも多くの人たちと共有したい,その一念でギターを練習し人前で唄うようになりました。私とも数年前に唄う場所で出会いました。今日映写会という形で、私の友達や、またその友達と共有して、考えるきっかけを作れたことは、東ティーモールの自由のために戦った人々、唄う青年、子供たち、映画をつくった人たち、それを広めている人たちに繋がり、そして拡がって、また私に還ってきます。
4月12日 大阪集い処はな にて。
店のメニューに、ホタルイカのパスタがあるから、だいたい春に唄っているのです。
面白い出会いが産まれる処です。
アカリトバリの二人と一緒に唄います。
トバリアカリさんとトバリ岳陽くんのデュオとはこの場所で数回一緒にやっていますが、今夜の二人はとても素敵でした。
戦時中は歌詞を変えてうたうようにという弾圧を受けた話から唄いだすアカリさんの故郷福島の歌「相馬盆唄」は魂の自由をはじけるように現していました。それから、岡山の海に浮かぶ国立ハンセン病療養所長島愛生園で出会った人との思いを歌にした曲は、静かな島の浜に打ち寄せるさざ波のようでした。最後は一緒に「平和を生きる権利」を唄いました。ここでなかれば会わない人があり、ここでなければつくれない空気があります。びっくりしたのは、大学時代に朝比奈逸人さんに美術の授業を受けたという人がいたことです。
4月13日京都修学院アコシャンにて。
21年前、ステージのやり方もよくわからない、、そんな状態で唄い始めた私を最初に受け入れてくれた店であるアコシャンは健在です。今日も、半数は、最初の私を目撃している人たちです。それから、途中で友達になった人が混ざって小さなアコシャンは満員です。
オジョーと一緒に唄うのも恒例となりました。オジョーやなぎ君の小さな歌をうたい継いでいます。作った人は亡くなっても歌はずっと旅をしています。
客席に山本シンさんがいました。気持ちよさそうに体をゆすって聴いてくれていました。お酒も進んだようですが。。。
それから、渡さんの最晩年のライブをこの店でやった時に聴いていた人たちもあり、それから数えてもう19年です。
店と一緒に年を重ねた人たちと一緒の夜に感謝。
4月20日一橋学園ローリングビーンズにて。
集中して唄える雰囲気はどこから生まれるのか、、、というと、、、聴き手が集中して耳を傾けてくれているからなのですね。
おかげで休憩をせずに一気に。
ヨイシラセをビーンズの仲間と一緒に唄いますが、みなすっかりきちんと練習してくれたから、ものすごい厚みのある音になります。
打ち上げをやるのは4年ぶりです。そこで盛り上がるのは、それぞれの好きな歌い手の話と歌です。沖田浩之という歌手の熱烈ファンが二人もいて、いろいろ教えてくれました。
久しぶりに夜更かしでした。
4月24日茅ヶ崎ボチボチにて。
通い続けて少しずつ聴いてくれる人たちが増えた場所です。
新しい歌があると嬉しいものです。
ヨイシラセに杉本さんがベースを入れてくれました。そして、ローリングビーンズの続きのように中村さんのエコーハーモニカとパンデーロも。自分の曲に参加してもらえるのは嬉しいことです。
この店では、いつも終わって残った人たちと、もう一杯飲みながらひととき過ごします。
私の住む町も神奈川県にありますが、ここ茅ヶ崎は神奈川県という響きがよく似合いうなあと思います。
帰り道の国道右側には防風林の黒い影、その向こうは湘南の海。
4月27日亀有kidboxにて。
我が家から約二時間の道のり。楽器が沢山置いてある店なので今日はダルシマーは借りることにしました。翌日青森に行くので旅の支度をして行くからです。
最近、ダルシマーの弦を一本減らして3本で弾いているのですが、今日は4本です。やはり4本の方が華やかな響きです。いつかギターが弾けなくなったなら、ダルシマーだけで弾き語ることになるかもしれないので、レパートリーも増やしていこう。
4畳半ほどのスペースに団子のように重なり合って歌を聴いてもらうkidboxライブ。店主の鷲見君の誕生日ということで美味しい差し入れもあり、、本編が終わってからボーナストラックでニール・ヤングを1曲歌いました。
4月28日青森にて。レストランオルケスタの30周年パーティーに友達3人で新幹線に乗り駆けつけました。
オルケスタは夫婦たった二人で切り盛りしてきました。私は14年ほど前から毎年のようにレストランで唄ってきたので、青森に少しずつ友達ができました。
今日は沢山の人たちが集ってのお祝いです。不思議と皆知り合いのように感じます。小さな町のレストランには今日この大きな宴会場に集まった人たちの何倍もの数の笑顔が刻まれているのだと思います。
明るいところには人が集まって、歓びは何倍にも膨らむんだな。。。キラキラした光が手に掴めるような夜でした。
翌朝、青森港のフェリー乗り場に連れて行ってもらいました。こんど、50年ぶりにフェリーに乗って函館に行こうかな。
笛とサックスと麦わら帽子で来てくれた波子さん、勝ちゃんもありがとう。久見ちゃん美味しい朝ごはんありがとう。
もう10年もハンドルを握っていませんが運転免許の更新をしました。
高齢者講習を受けなくてはいけないということで、教習所の予約をしました。どうしよう、、、運転できるかな、、、エンジンかけるの、どうするんだっけ?来月までに予習をしなくてはならないな、、、
最近アマゾンの請求にびっくりです。できるだけ古本探しているんだけれど。。。
沢山読んだ私の中から、何がどれだけ産まれてくるのか、
なぞってみたり、切り抜いてみたり、糊付けしてみたり、巻き戻してみたり、、、掘ったり削ったり、、、あたまの中で一生懸命働く私がいます。。。疲れたら散歩。。。