前回は、選考倍率が非常に高い高学歴チケットについて、そして、その競争に拘泥した人々が持ついくつかの問題について書き記した。

 

やはり、”過度に”「学歴プライド」を持つ人、そして「学歴コンプレックス」を持つ人は、それぞれ大きな問題を抱えていると言えるだろう。

 

まず、過度に学歴プライドを持つ人の問題とは何か。それは、学歴こそが1番の人の判断基準だと思っている点、そして学歴にとらわれ過ぎたために、その成功は自分の努力のおかげだけではないのにも拘らず、そうであると捉えている点である。

 

一つ目の点に関しては、過度に学歴コンプレックスを持つ人の問題にも関わるので、詳述はそこに譲ることにする。まあ、人生そんなに単純じゃないよ、ということである。

 

二つ目の点に関しては、マイケル・サンデルに代弁してもらおう。

彼らの入学が熱意と努力の賜物であるのは確かだとしても、彼らだけの手柄だとは言い切れない。入学へ至る努力を手助けしてくれた親や教師はどうなるのだろうか?自力ですべてをつくりあげたとは言えない才能や素質は?たまたま恵まれていた才能を育て、報いを与えてくれる社会で暮らしている幸運についてはどう考えればいいだろうか?

競争の激しい能力主義社会で努力と才能によって勝利を収める人々は、さまざまな恩恵を被っているのにもかかわらず、競争のせいでそれを忘れてしまいがちだ。能力主義が高じると、奮闘努力するうちに我を忘れ、与えられる恩恵などを目にも入らなくなってしまう。(p.27)

 

そして、過度に学歴コンプレックスを持つ人の問題とは何か。それは、学歴は人の評価の一基準でしかないのにも拘らず、それをあたかも全てであるかのように捉えている点である。

 

学歴は、言うなれば学校の5教科のうちのひと科目でしかない。

 

たとえば、学歴を国語だとし、東大合格を100点満点としてみよう。国語で100点を取ったとしたら、きっと褒められるだろう。しかし、そうすると今度聞きたいのは他の科目の点数である。

 

もし国語以外の教科の点数が全て20点だったらどうだろうか。その合計点は180点となるが、これは全教科40点を取った生徒よりも低いことになる。すなわち、国語というひと科目だけでみたら、満点の生徒の方が高いが、5教科でみた場合は、40点を取った生徒の方が合計点が高いのである。

 

人の評価も同じようなものではないだろうか。つまり、学歴という一基準だけで見られるほど甘いものではなく、学歴以外も含めた、すべての総合で見られるのではないだろうか。

 

補足として、これは双方に相通ずるものかもしれないが、それら問題の究極の源泉は、「行き過ぎた所属感の渇望」とも言えるだろう。言い換えれば、「学歴を過度にありがたがってる」ところに源泉があると考える。

 

過度な学歴プライドを持つ人は、自身の高学歴に優越感を持ち過ぎて、挙げ句の果てには、そうではない人々を軽蔑を含めて口撃し始める。そして、過度な学歴コンプレックスを持つ人も、自身の学歴に劣等感を持ち過ぎて、しまいには、高学歴の人々に嫉妬心を含めて悪口を言う。

 

ここまで、過度に学歴プライド・コンプレックスを持っている人々、双方の問題点とその源泉について述べてきた。では、この拗らせ人種の人々への処方箋は一体どんなものが良いのだろうか。

 

その答えは、複数の被評価軸を持つこと、そして、自分に自信を持つこと。この二つに尽きるだろう。

 

まず、複数の被評価軸を持つことに関しては、自分の好きなことや興味のあることをもっと伸ばすことによって達成することができる。

 

例えば、私は現在パスタ作りに凝っており、わざわざアルミフライパンを買って、作り方にも細心の注意を払いながら日々作っている。正直、下手にそこら辺の店に行くよりかは、自分で作った方が美味しいものが食べれると自負している。しかし、ここにおいて、私のパスタがうまいか、まずいかということは至極どうでもよく、パスタ(あるいは料理)も上手に作れるぞという、人から評価される箇所を新たに設けることが大切なのである。

 

このように、自分の新たな一面を磨くことによって、人から判断される場所を自ら構築していくことが重要であると考える。

 

つぎに、自分に自信を持つことに関しては、人と比べるのではなく、過去の自分と比べることで達成することができる。ただ、これは別にストイックに生きろ系の発言ではない。

 

例えば、今日は受験に向けて勉強しようと計画していたが、結局YouTubeを一日中見て過ごしたとする。これは、一見マイナスのように見えるが、過去の自分と比べることによって、それはプラスへと変化する。つまり、1日を意図していない使い方をしてしまったという焦りを得たのかもしれない。それから、一日中YouTubeをみたことによって、そのチャンネルについて詳しくなったのかもしれない。さらに、今日の天気、起こった出来事について知るという、新たな知識を得たのかもしれない。

 

このように、過去の自分と比べて、ほんの少しでも得たことがあるのなら、それは成長と呼ぶにふさわしく、これを基準に「歴代最強の自分」として自分に自信を持つことが重要であると考える。

 

複数の被評価軸を持つこと、自分に自信を持つこと。この二つを学歴に悩むすべての患者さんにお薬として処方します。

 

ところで、私はこれから学歴にこだわっていく生き方をしようと思うので、このブログはこれにて一旦休刊します。これまで執筆してきたものは、500年後くらいに古典として読んでもらうために、『ヨシフル・ヒスロディによる、現代社会に向けた短編思索集』という、厨二病感満載の名前に変えてそのまま残しておきます。また戻ってくるかも。

 

ではみなさん、さようなら

 

 

 

引用ページ数は、ハードカバー版のものであることにご留意ください。

(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)

 

まずは20時に投稿できなかったことをお詫び申し上げます。今回はいつも以上に言いたいことが多かったのと、こだわりが行き過ぎたため、気づいたら時間を過ぎていました(まあ、時間通りに出さなくても見る人が少ないので、あまり関係ないと思いますが笑)。

 

結局字数も多くなり過ぎたため、記事自体を前後半の2回に分けようと思います。断言しますが、後半の方がきっと皆様を満足させる内容となっておりますので、ぜひご期待ください(次は20時ぴったりです!)。

 

 

 

学歴問題は定期的にネットを騒がせる。そして学歴問題あらため、そこから生じる階級・格差問題まで含めると、この問題は人類永遠の未解決問題として、後世に語り継がれていくだろう。

 

そんな完全密室事件のような問題を、今回は取り扱っていこうと思う。

 

まず前提&持論として、いわゆる「高学歴」の人は、ふつうにすごいと思っている。

 

(今回は、「高学歴」を旧帝大、早慶上理、およびその近辺のレベルとみなされる大学のことを指す。一般的に見れば、大卒の時点ですでに上位50%なので、それを高学歴とみなすこともできるのだが。)

 

前にも述べたことがあるが、私は以前、寮生活を送りながら浪人をしていたことがある。その寮には、医学部を目指していた生徒が多くいて、なかには東大を受ける生徒もいたが、控えめに言って、彼らは引くぐらい勉強していた。

 

なので、医者がお医者様と呼ばれていたり、世間で東大生が憧れの存在であることにも、個人的には納得がいく。そして、高学歴である彼ら自身の多くも、自分の実績にプライドを持っていることだろう。

 

しかし、高学歴という名のプラチナチケットは、手に入れるのが非常に難しい。裏を返せば、手に入れられなかった人たちも大多数いるということである。そういった競争に敗れ、「低学歴」となってしまった人たちの中には、コンプレックスを抱く人もいるだろう。

 

このように、みんなが羨む高学歴は、競争倍率高めで落選者も大量に出てくる。そしてその中には、過度に学歴を気にする人も含まれていて、その人たちが、世間でいう「学歴プライド」を持つ人、「学歴コンプレックス」を持つ人と呼ばれるのである。

 

しかしながら、”過度に”「学歴プライド」を持つ人、そして”過度に”「学歴コンプレックス」を持つ人は、それぞれ大きな問題を抱えていると言えるだろう。以下に概要を記すが、詳述は次回に持ち越すことにする。

 

まず、過度に学歴プライドを持つ人の問題とは何か。それは、学歴こそが1番の人の判断基準だと思っている点、そして学歴とらわれ過ぎたために、その成功の大半は自分の努力のおかげであると考えている点である。

 

そして、過度に学歴コンプレックスを持つ人の問題とは何か。それは、学歴は人の評価の一基準でしかないのにも拘らず、それをあたかも全てであるかのように捉えている点である。

 

補足として、これは双方に相通ずるものかもしれないが、それらの問題の究極の源泉は、「行き過ぎた所属感の渇望」とも言えるだろう。言い換えれば、「学歴を過度にありがたがってる」ところに源泉があると考える。

 

次回は、それぞれの抱える問題の深掘りと、どうすればその問題を超越できるのかということに関して考察していく。

 

ちなみに、M.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、次回のその2で紹介する本を理解する上で役立つかもしれませんので、ご参考までに。

 

 

(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)

 

一昨日、サッカーのヨーロッパ最強国を決める4年に1度の戦い、UEFA EURO(UEFAヨーロッパ選手権)が開幕した。

 

日本ではこれに関してちょっとした問題が起こっていた。その問題とは、日本でそのEUROを放送するテレビ局、ネットサービスが一つもないということである。つまり、日本では、誰もその大会を見ることができないということである。以前までは、WOWOWが毎回放映権を獲得していたようであるが、今回は大会1ヶ月前になっても放送予定が告知されることはなく、日本のサッカーファンは不安に駆られていた。

 

結局は、WOWOWが会員向けに、そしてAbema TVが無料配信をすることが、大会一週間前に発表され、なんとか難を逃れる形となった。

 

今回はEUROでの事例であったが、実は似たような問題が、日本の代表チームが出場する大会でも起きていた。

 

例えば、男子サッカー日本代表のワールドカップ出場権獲得がかかった大切な試合を、有料配信サービスの会員のみが見ることができたり、女子代表が出場するワールドカップの放映がギリギリまで決まらなかったり、といったことが挙げられる。

 

私は、こうした問題は子ども達の可能性を狭めてしまう恐れがあると考える。

 

前提として、問題点は主に二つある。まず一つ目は、そもそもサッカー代表戦の試合が見られないということ。そして二つ目は、仮に見られたとしても、それは主に有料配信サービスに登録している人たちに限定されるということである。

 

特に二つ目に関して、有料サービスに入って見る人々というのは、そもそもサッカー好きであることにほぼ疑いはないだろう。つまり、あまりサッカーを見ない層には届かないという点が問題点として挙げられる。

 

これらの問題点によって、子どもたちがサッカーを見る機会というのは、どんどん少なくなっているのが昨今の現状だ。つまり、ますます自分が興味を持つかもしれないことに触れる機会が減ってるのである。しかし、

 

「なんだかサッカーの大事な試合があるらしいぞ」

 

「とりあえずテレビつけたら、なんか盛り上がってるぞ」

 

そんな軽い気持ちで見てもらい、興味を持ちうる機会を増やすことが大切である。そうすると、思った以上にのめり込んだりすることもあるだろう。さらにそこから、私も長谷川選手みたいになりたい!とか、僕も三苫選手みたいになりたい!と思って実際にサッカーを始める子どもたちもいるかもしれない。

 

今回はサッカーの例を挙げたが、他のすべてのスポーツにも当てはまるし、もちろんスポーツ以外のジャンルにも当てはまるだろう。

 

このように、子どもたちが興味を持つかもしれないことに触れる機会を増やし、彼らの可能性を広げる役割を果たせるのは、まさに地上波放送やネットでの無料放送である。

 

だから、子どもたちがたくさんの物事に触れるために、できるだけスポーツや催し物はオープンな形で放送してほしい、というのが今回言いたいことです。

 

また、金儲けのために放映権を釣り上げる各界の一連の行動にも釘を刺したい、という一個人としての願望もあります。

 

結論、Abema TVの藤田晋社長を神と崇めます。

 

 

 

私は以前、世界最高のピアニストの一人であり、「ピアノの女王」とも称される、マルタ・アルゲリッチのコンサートに行ったことがある。

このコンサートでは、同じく世界のヴァイオリン界を牽引する、ギドン・クレーメルも参加しており、およそ90分ほどの演奏は、まさに至高のひとときであった。

 

その時の感情をうまく表現する術を私は知らない。いや、正確に言えば、できなくはないのかもしれない。たしかに、言葉に変えてその感情を記すことはできるのだろうが、それではこの美しさを完璧に表現するにはあまりにも不十分すぎる。

 

というわけで、ここでは私の感想を記すことを控えることにする。もしそれが気になる方がいらっしゃるのならば、ぜひ彼女と彼が共演するコンサートに足を運んでいただきたい。

 

結局、感情とは言語化できないものなのだろうか。あなたは、果たして自身の感情が強烈に突き動かされたことを、綺麗に他の手段に転換し、表現することができるのだろうか。

 

先の話で言うと、感情は音楽という「芸術」によって引き起こされている。

 

そして、人間は常に言葉で思考するものであり、その言葉を経由しないものは「感情」と呼ばれる。「感情」とは、心が刺激を受けて何かしらの反応を起こした結果、と言えるだろう。

 

つまり、芸術は直に心に触れてくるものである。

そして、その芸術と心の間には、何一つ隔てるものは存在しないのである。

 

 

 

言わずもがなだが、私は言葉を軽視しているわけではまったくない。文学も然り。

 

感動を与えるものと、それを受け取る心との間に存在するいかなるものも、感動を「純度100%」では伝えられないのである。換言すれば、文字にしようが、音にしようが、どの形にしようが不完全になってしまうということである。

 

言葉もそれ自体が芸術の一つである。

 

それは間に何も介在せずに直に心に訴えてくる。

それから私達はしばらく無言のまま、丘の上に佇みながら、いつのまにか西の方から中空にずんずん拡がり出した無数の鱗のような雲をじっと見上げていた。

 

これは堀辰雄の『風立ちぬ』からの一文ですが、ここまで綺麗に読者の心の中に情景を思い浮かばせ、感動を与えるのは、まさに芸術以外の何者でもありません。彼はまさに文字で絵を描いているのです。

 

ちなみに、私の描くドラえもんは下手すぎて人々を笑顔にするため、これもまた芸術と言えるでしょう。

 

(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)

※青空文庫版の堀辰雄『風立ちぬ』は、Kindle、web上で無料で読むこともできます。

 

あなたは今幸せですか?

 

一体に何に対して、そしてどんな時に幸せを感じますか?

 

ここで少し昔話をしようと思います。以前、私は浪人をしていた時期がありました。

 

一般的に浪人といえば、王手予備校に自宅から通う、または進学校なら高校側の支援を受けながら自宅で勉強するというパターンがあると思います。

 

しかし、私は少し特殊な例で、自宅から離れた予備校に、寮に入寮して通っていました。その予備校、特に寮に関しては、知る人ぞ知る「監獄」という名の異名を持ち、大きな志をもった浪人生が集う、なかなかに過酷な環境でした。

 

今回は当時の地獄について語る回ではないので軽くお話しする程度にとどめますが、基本的に勉強しない日はなく、まず6:50起床、7:40くらいから予備校で勉強を始め、ギリギリまで続けて門限18:00に間に合うように帰寮する。それから今度は23:00過ぎまで勉強して、23:30に消灯というサイクルを延々と繰り返すという日々でした。

そんな地獄のスケジュールの中でも、流石にお盆くらいになると一度休みが与えられます。私もご多分に洩れず、その時期に仮釈放されました。地獄のサイクルを日々繰り返していると、本当に発狂したくなるし、精神的にもかなり疲弊していました。

 

仮釈放されたとて、全ての娯楽を奪われ、勉強マシーンと化している私には特にすることなどありませんでした。そんな手持ち無沙汰感と仮釈放の大きな開放感を持った私は夏の川沿いを散歩ただ歩いていました。

その時の感動を私は今でも鮮明に覚えています。

高い空に眩しい太陽。それが川面に反射してキラキラと輝いている。周りを見渡せば木々や草々が風に靡いている。そして子どもたちの声と蝉の鳴き声も明るくこだまする。

私は世界がこんなに美しく、そして楽しいものだと知らなかった。旅行に行くこと、ブランド物を揃えること、友人がいること、それらが必ずしも幸せなことではなかった。

仕事、勉強、日々のストレス、周りからの目、スマホ、SNS...。そのようなものが幸せに大きなベールをかけがちである。しかし、そのベールを外して視点を広げ、ひとつひとつを丁寧に見てみると、大切なことに気づくことができる。

そう、幸せは私たちひとりひとりの身の回りに...

 

そんな些細な、しかし人生における至高の発見をした私は、現在は無双状態です。だって、散歩してるだけで幸せを感じるようになったのですから(まあ、あの一年の地獄を抜け出した時点で、残りの人生はご褒美みたいなものですが)。

 

晴れてても幸せ。雨が降っても、それはそれでよし。あとどれだけこの美しい朝日を見ることができるのか。そして、月明かりに照らされるのか。

 

夜にクラシックと共に紅茶を飲む。美味しいご飯を食べる。読書をする。それら全てが、私に幸せを与えます。

 

あなたは今幸せですか?

 

一体に何に対して、そしてどんな時に幸せを感じますか?

 

もう一度、あなたの身の回りを注意深く見てみてください。何気ないこと、当たり前だと思っていること、そんなことに幸せの秘訣が隠されているはずです。

 

そして、それに気がついたらそれを大切にしてあげてください。

 

人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、また、ますます運命に左右されることが少なくなる(p.176)。


今の私は、炊飯器の中で米が発酵を初めても好奇心と幸せでいっぱいです。
 

 

(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)

 

ある朝、カラスがアパートのゴミ置き場を漁る。食べ残しやらなんやらが路上に散乱する。

 

きたねーよ!と心の中で叫ぶのと同じくらい、器用に食べ物を漁り、そして適度に人間に対して警戒することを怠らないカラスに感心する。

 

 

ある昼、YouTubeのshortsを見る。激辛ペヤングを放置して、カラスに意図的に食べさせようとする動画が拡散されている。コメント欄を要約すると以下の通り

 

:撮影者よりカラスの方が頭良さそうで草

 

 

ある夜、椅子に座って考え事をする。今夜は紅茶と一緒に。はたして動物に理性はあるのか?

哲学者ルネ・デカルトはこう書いている。

人間:バカでも考えを伝えられる

動物:全動物の中で頭の良い種でさえ、考えを伝えることはできない

 

つまり、動物には理性(=真偽を判断する能力)がないらしい(pp.76-77)。

 

しかし、本当にそうなのだろうか?

 

まず、考えを伝えるというのは話したり、文字を書いたりすることだけではない。例えば、イルカは超音波で会話しているらしい。それから、鳥は鳴き声を変えて危険を知らせているらしい。

それに、理性とは要するに、「これやったらヤバいかも・・・」みたいなことを言っているので、理性がなければ動物たちは現代まで生き残ることはできなかっただろう。

 

紅茶を飲み切ると同時に、私はこう叫ぶ。

 

動物に理性はある!


ある深夜、布団の中で考え事をする。はたして動物と人間に理性の差はあるのか?

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリはこう書いている。

 

人間:二足歩行になって視野が広がり、手も使えるようになった。しかし、その分女性の産道が狭くなり、子どもがかなり未熟な(小さい)状態で産まれるようになった。それによって、子どもを守るために、みんなで協力しあうようになる。加えて、子どもは未成熟ゆえに成長が無限大であると言える(pp.20-24)。

そういえばさっき、椅子に座って考えていた時には、動物に理性はあるということになった。

人間は理性を活かしつつ、定住し、そして文明を築き上げてきた。その文明が発展する中で一つ起こる出来事としては、ルールがちゃんと紙に書かれる(明文化される)ということが挙げられるだろう。その明文化されたルールが、いわゆる法律といわれるものだ。

例えば、コンビニで万引きしてバレたら、とりあえず逮捕される。なぜ逮捕されるかといえば、万引きはしてはダメだ、と法律に書いてあるから。そしてみんな逮捕されるのが嫌だから、法律を守る。
 

つまり、法律が強い拘束力を持ち人間の理性に影響している。今回の例で言うと、人間が理性を働かせたのは単に、法律があったから。でも、もともと法律は単なるルールだ。ルールは動物にも存在し、群れの秩序を乱すような個体は仲間からはぶられたり、攻撃されたりする。
 

つまり法律は、ただ人間に理性を働かせる機会を増やしているだけに過ぎず、根本的に人間の理性が優れていることを指し示すものではないように思えてくる。
 

翌朝、起きた私はこう叫ぶ。

動物と人間の理性に差はない!

この物語はフィクションです。

 

 

(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)

※サピエンス全史は文庫版の方がはるかにお手頃価格です。

 

 

 

 

 

大学のとある授業の一コマ。私の近くに、いわゆる”ウェイ系”の男子たちが座ってきた。他の人と一緒に授業を受けたり、グループディスカッションに参加することが好きではない私は、基本的に一人で席に座る。


そのウェイ系男子たちは、日々の生活をウェイウェイして(ダジャレではありません)楽しんでいるのかな、と勝手な思い込みをしていた。しかし、こっそりその人たちの会話を盗み聞きしていたら、どうやらそうではないらしい。口を開けば、他の人の悪口を話しているようだ。これだから人間関係は面倒臭いのです。

そんなに気に食わないのなら、もう関わるなよ、と突っ込みたくなります。人生生きていれば合う人もいるが、合わない人もいる。もちろん、どうしても関わって生きていかない時もあるのかもしれないが、少なくとも学生時代は友人を選べるのだから、そんな悪口を言うくらいなら、そっと離れるのがお互いのためだと感じてならない。

いや、そもそも合う人なんているのか?恋人や家族との間ですら、すれ違いが起こるのに、まして友人関係ではもっと合いそうもなさそうだ。ならいっそのこと孤独に、つまりできるだけ人と関わらずに生きていった方が、無駄なコストもかからずにコスパが良さそうだ。

あなたは、どれくらい孤独でいられますか。

 

孤独とは何なのか、という定義づけは非常に難しいだろう。なぜなら、哲学、医学など様々な分野からの解釈が可能だからである。ただ、ざっくりと物理的なものと、精神的なものに二分できるだろう。

 

まず、物理的な観点から見れば、どれくらい人と会っていないか、または、どれくらい人と会話をしていないか、という観点から考えられるだろう。

 

次に、精神的な観点から見れば、どれくらい信頼できる人がいるのか、と言う観点から考えられるだろう。

 

ちなみに、私の記憶にある限りでは、生身の人間に合わなかった最長の記録は、4日間で、会話をしなかった期間は、約1ヶ月ほどである。生身の人間に合わない記録はもう少し伸ばせそうだが、それでもおそらく一週間が限度だろう。4日間でさえ、周りに動く生命体がいないことが原因なのか、得体の知れない不安な気持ちが押し寄せてくる。また、1ヶ月も人と話さないと、さらに外で人に話しかけられた時にすごくオドオドするし、第一、言葉がうまく出てこなくなって、なんだか人間じゃないみたいだった。

 

やはり、寂しいのだろう。

 

結局、どんなに人間関係が面倒くさくて孤独なまま生きたいといっても、やはりに一人じゃ生きていけないのかもしれない。

あっちを立てる気もないし

こっちを立てる気だってまるでない

人間関係 面倒で及び腰

話を聞けば巻き込まれる

いいことなんか あるわけないじゃない

それでも誰かがいなけりゃダメなんだ

https://lyricstranslate.com

 

これは、欅坂46の『アンビバレント』という歌の歌詞の一部です。人間の本質をうまく突き、なおかつそれを言語化した良い歌詞、そして歌だと思います。

ちなみに、最も聴くジャンルはクラシックです。

 

 

(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)

 

先週はブログを更新することができず、失礼いたしました。三日坊主ならぬ、三週間坊主をかましました。

実は黄金週間に目撃情報が多発する、リア充並びにキラキラ家族連れ達から逃避するために、3,4日間家に籠っていました(嘘です)。普通に風邪をひいて寝込んでいたところ、気づけば日曜20時を回っておりました。

 

私は基本的に年に2回の半年周期で体調を崩すため、いい加減その悪いサイクルを治したいと思っています。別に何をするというわけではありませんが、今回は何事もなく4月を乗り越えたので、今回こそは健康に過ごしていけると思っていました。しかし残念ながら、野菜一日これ一本の効果も虚しく、無事体調を崩しました。多分、夜中に海辺の砂浜で黄昏ていたのが原因でしょう。

言い訳はこの辺にしておいて、そろそろ本題に入っていきたいと思います。今回のテーマはずばり、風邪も普通にキツくないか!?(だから休ませろ!)ということです。

私が小中高校生だったころ、朝起きて体調が悪いと感じても、熱が高くなければ休ませてもらえませんでした。そして、学校で体調が悪くなったとしても、同様に熱がなければ、保健室で少し休んでまた授業に戻らされるのが常でした。

大学生になると、そのあたりは完全に自己責任になります。今回私は、出席点と体調を天秤にかけて、後者を選択しました。しかしながら社会人になると、再び風邪程度では休めなくなると聞き、絶望しております。

 

ではそもそも、なぜ風邪では休ませてもらえないのでしょうか。私が考えるその理由は、主に二つあります。一つ目の理由は、「悪貨は良貨を駆逐する」と同じ原理が働いているからかもしれません。つまり、仮病を使っている人々が、本当に体調が悪い人の症状の信憑性を低下させ、結果としてみんな多少の体調不良では休ませてもらえなくなる、ということです。

 

例えば、前述した学校の例で言うと、時々、体調が悪くないのにもかかわらず、仮病を使って休もうとする人がいます。咳やだるさなどはうまく演技をすることができるので、本当に体調が悪いのかを判断しかねます。そこで、熱、つまり体温という客観的な証拠に頼ることによってのみ、体調が悪いか、否かということを先生や、親などはしようとします。もし仮病を使う人がいなければ、咳やだるさなどでも判断してもらえるようになるかもしれません。

二つ目の理由は、風邪でも一応は動けるので、完全に休ませるよりかはマシだろうと考えているのかもしれません。会社の例で言うと、社員が1日休むと、8時間分の労働量が得られなくなります。しかし、たとえ風邪であっても働いてくれたら、4時間分くらいの労働量は得られるでしょう。その場合、一応出社させて働かせた方が、会社にとっては多少の利益を得られるということになります。

 

以上の二つが、風邪でも休ませてもらえない理由と言えるでしょう。しかしながら、風邪をひいているのに無理に頑張ることによって得られる利益は、所詮先生、親、会社から見た短期的なメリットでしかなく、長期的には、体調が悪い本人も含めた、全体に悪影響を及ぼすと考えられます。

 

まず、体調が悪い人が無理に学校や会社に行き続けると、治りが遅くなってしまい、最悪の場合にはそれが悪化してしまう恐れがあります。そして、長期間にわたる体調悪下は、健康時に比べてパフォーマンスが落ちているため、生産の総量は間違いなく低下するでしょう。

 

ごちゃごちゃ書きましたが、結局言いたいのは、

 

風邪は普通に辛いです。

 

そして、その状態で学校や会社に行ったところで、あまり動けないので、ならばしっかり休ませて、すぐに回復させた方があんたたちにも得だよ。
 

だから休ませろ!

 

と言う感じです。

謎に、机に座っている時間が長い方が偉いみたいな風潮はあまり良くないと思います(当然、忍耐が必要な時があるということは認めます)。要するに、目的と手段を履き違えるべきではないということです。時間絶対主義、皆勤賞主義にさよならするべきです。

本当は、できるだけ時間をかけずに、より多くの成果を上げたほうがいいわけで、時間と成果を比例関係で捉えていること自体が間違っているんじゃないか。僕はそう思いますね(p.94)。

 

そういえば、私はよく課題が終わっていなかったので、仮病使って休んでいました。


(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)

 

陽キャ、陰キャという言葉が使われて久しい。特にその言葉が使われ始めた時から、学校という階級システムに身を置いていた私からすれば、ある意味、馴染み深い言葉である。では、そもそも陽キャと陰キャとはなんなのか。デジタル大辞泉(小学館)によると、以下の通りである。

よう‐キャ〔ヤウ‐〕【陽キャ】 の解説

《「陽気なキャラクター」の意》性格が明るく、人づきあいが得意活発な人。陽キャラ。⇔陰 (いん) キャ

 

いん‐キャ【陰キャ】 の解説

《「陰気なキャラクター」の意》引っ込み思案内気な人。陰キャラ。⇔陽 (よう) キャ

要するに、人付き合いが得意か、否かで陰陽が分かれているのだろう。そして、この人付き合いが得意か、否かという部分は、コミュニケーション能力が高いか、否かとも言い換えることができるだろう。なぜなら、話し上手であればあるほど、それだけ他人とも交流することが得意なはずだからである。まあ、ざっくりと言えばコミュ力おばけ=陽キャで異論はないだろう。

しかし、私はここに一石を投じたい。真のコミュニケーション能力の高さは、「聴く力」にも大きく依存するのではないだろうか。つまり、話し上手であったり、初対面の相手にも堂々と話すことができたりといったことが、必ずしもコミュニケーション能力が高いとは言えないのではないか、ということである。

では、そもそも「聴く力」とは何か。それは、相手の発言にしっかりと耳を傾け、その内容を多角的に解釈することである、と考える。そして、「コミュ力」が高いとは、「聴く力」で得た情報をもとに質問を返したりして、相手とのコミュニケーションを活発化させることである、と考える。

 

以前、誰とでも仲良くなれるような人と食事を一緒にしたことがある。その人は、一人で食事を取ろうとしていた私に気軽に声をかけてくれた。その人はたくさんのことを話してくれ、内容もとても面白く、食事は非常に有意義なものとなった。

一方、一見静かめな人とも食事をしたことがある。この人も同様に声をかけてくれて一緒に食事をとることになった。しかし結論を先に述べると、この人との食事のほうが、より有意義なものとなった。この人は、質問を多く投げかけ、私のことを知ろうとしてくれ、私の反応をもとに柔軟に会話を広げてくれた。そうすると、今度は私もこの人に興味を持つので、たくさん聞きたいことが出てきて、こちらも質問を投げかける。このように、質問という刺激を適度に加えつつ、相手の話を「聴く」ことによって、コミュニケーションが円滑に回る、正のサイクルが生まれたのである。

おそらく、この文章を読まれている皆様も、聞き上手の方にあったことがあるのではないだろうか。その方のことを思い出していただきたい。自分自身の気持ちがスッキリしたとともに、相手のことも知ることができたのではないだろうか。まさに、そのような人が、「聴く力」をもった、真にコミュニケーション能力が高い人だと感じる。

もちろん、多少なりとも質問をする必要があるため、最低限の受け答えができるほどに、人との会話に慣れている必要もある。そして、今回は誰とでも仲良くなれるような、話し上手な方々を批判するつもりは毛頭ない。むしろ、そのような人は好奇心旺盛なので、こちらから話をふれば、しっかりと相談にものって丁寧に答えてくれる。

そして、今回私が言いたいのは、これまでの、真のコミュ力は「聴く力」にも依存する、ということに加え、話し下手で、うまく自分の考えていることを言語化できない人も、実はコミュ力高いんだよ、ということである。俗にいう、コミュ力お化けが跳梁跋扈し、目立つこの現代社会、一人でも多くの「静かなるコミュ力おばけ」が自信をもって会話の中へ飛び込んでいくことに期待します。

「相手が欲しがっているものは何なのか?」「相手が妥協してもいいと思っているものはなんなのか?」-それらを正確に見極めて、分析することが大切です。つまり、「どれだけ相手の主張を聞けるか」の勝負となるのです(p.121)。


これは、瀧本哲史の交渉術についての本からの引用です。少し長くなりましたが、皆様がコミュ力に対して考えるための一機会となれば幸いです。

残念ながら、私は持論展開マシーンなのでコミュ力は低いです。


(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)

 

4月某日、交通量の多い国道沿いをACAねの歌声とともに歩いていると、ひとりの男性から声を掛けられた。

「〇〇へ行くにはどうすればいいですか。」

その男性に行き方を伝えたものの、私は正直驚いていた。なぜなら、人通りも、街灯もほとんどないこの場所で声を掛けられることなど、初めてだったからだ。しかし次の瞬間、この驚きは大きな疑念へと変わった。

 

「今は何時ですか。」

「今は9時40分くらいですね。」

「ああ、そうですか。てっきり夜中の2、3時くらいかと思ってました。」

明らかにおかしい。日没からまだ3時間弱しかたっていないのに、そんなに遅いはずがない。そして疑念はさらに膨らむ。なんとその男性は、日が登ってから行き先とは真反対の方向に歩き続けていたのだ。

 

私は、真っ先に行方不明者の情報が載っていないかネットを確認したが、その情報はなかった。いずれにせよ、認知症により徘徊している可能性は極めて高い。そのため、とりあえず近くにある駅に向かい、そこからバスに乗って男性の自宅まで送り届けることにした(警察にお世話になりすぎて、もうパトカーで送ってもらえなくなったらしい)。

 

パンと懐中電灯を持ったその男性の所持金は、165円だった。身寄りはなく、わずかな年金のみで生活しているため、家賃等を除いて月15,000円でやりくりしなければならないらしい。

そして、今日は自動販売機のホットコーヒーを買いに家を出たものの、途中で道に迷ってしまったらしい。その自販機までは自宅からわずか200メートルほどだったが、私がその男性と会った場所は、その場所から2キロほど離れた場所であった。

 

その男性の思い出話を聞きながら、やっとのことで家に着いた。築数十年かと思われるそのアパートの外には洗濯機が備え付けられているが、もう使えないらしい。玄関の扉を開けると、異様な匂いとともに、捨てられていないゴミが散乱しているのが目に映る。そして、ただ街灯の光だけが長旅を終えた男性の顔を映し出していた。

無事男性を送り届け帰路についた私の心を覆ったのは、ただ、どんよりとした気持ちだけだった。これが現実なのか、と。就職には興味がない。だけど大学院に行くほど勉強したいとも思わない。フリーターで独身貴族を貫けば、ある程度は食いっぱぐれることはないのかな?だけど、もし病気になって長期間働けなくなったら、そしてもし思った以上に長生きしたら...

そんなことを考えていると、意外と人生大変だなと感じるとともに、いままで人生舐めすぎていたか?とも感じる。なんだか軽く病み始めたところに、セネカが2000年の時を経て私に追い討ちをかけてくる。

われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる(p.12)。

 

ぐぬぬ。傷口に塩を塗られた気分である。しかし私はそっと本を閉じ、静かにセネカに対抗する。浪費や無駄を愛せる人間になりたいと。

ところで、Googleアカウントの誕生日を1900年生まれに変えたのですが、いまだにインターンの広告が流れてくる理由を知っている方いますか。

 

 

(広告: 下記の商品リンクを通じての購入は、私を支援します。)