まずは20時に投稿できなかったことをお詫び申し上げます。今回はいつも以上に言いたいことが多かったのと、こだわりが行き過ぎたため、気づいたら時間を過ぎていました(まあ、時間通りに出さなくても見る人が少ないので、あまり関係ないと思いますが笑)。

 

結局字数も多くなり過ぎたため、記事自体を前後半の2回に分けようと思います。断言しますが、後半の方がきっと皆様を満足させる内容となっておりますので、ぜひご期待ください(次は20時ぴったりです!)。

 

 

 

学歴問題は定期的にネットを騒がせる。そして学歴問題あらため、そこから生じる階級・格差問題まで含めると、この問題は人類永遠の未解決問題として、後世に語り継がれていくだろう。

 

そんな完全密室事件のような問題を、今回は取り扱っていこうと思う。

 

まず前提&持論として、いわゆる「高学歴」の人は、ふつうにすごいと思っている。

 

(今回は、「高学歴」を旧帝大、早慶上理、およびその近辺のレベルとみなされる大学のことを指す。一般的に見れば、大卒の時点ですでに上位50%なので、それを高学歴とみなすこともできるのだが。)

 

前にも述べたことがあるが、私は以前、寮生活を送りながら浪人をしていたことがある。その寮には、医学部を目指していた生徒が多くいて、なかには東大を受ける生徒もいたが、控えめに言って、彼らは引くぐらい勉強していた。

 

なので、医者がお医者様と呼ばれていたり、世間で東大生が憧れの存在であることにも、個人的には納得がいく。そして、高学歴である彼ら自身の多くも、自分の実績にプライドを持っていることだろう。

 

しかし、高学歴という名のプラチナチケットは、手に入れるのが非常に難しい。裏を返せば、手に入れられなかった人たちも大多数いるということである。そういった競争に敗れ、「低学歴」となってしまった人たちの中には、コンプレックスを抱く人もいるだろう。

 

このように、みんなが羨む高学歴は、競争倍率高めで落選者も大量に出てくる。そしてその中には、過度に学歴を気にする人も含まれていて、その人たちが、世間でいう「学歴プライド」を持つ人、「学歴コンプレックス」を持つ人と呼ばれるのである。

 

しかしながら、”過度に”「学歴プライド」を持つ人、そして”過度に”「学歴コンプレックス」を持つ人は、それぞれ大きな問題を抱えていると言えるだろう。以下に概要を記すが、詳述は次回に持ち越すことにする。

 

まず、過度に学歴プライドを持つ人の問題とは何か。それは、学歴こそが1番の人の判断基準だと思っている点、そして学歴とらわれ過ぎたために、その成功の大半は自分の努力のおかげであると考えている点である。

 

そして、過度に学歴コンプレックスを持つ人の問題とは何か。それは、学歴は人の評価の一基準でしかないのにも拘らず、それをあたかも全てであるかのように捉えている点である。

 

補足として、これは双方に相通ずるものかもしれないが、それらの問題の究極の源泉は、「行き過ぎた所属感の渇望」とも言えるだろう。言い換えれば、「学歴を過度にありがたがってる」ところに源泉があると考える。

 

次回は、それぞれの抱える問題の深掘りと、どうすればその問題を超越できるのかということに関して考察していく。

 

ちなみに、M.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、次回のその2で紹介する本を理解する上で役立つかもしれませんので、ご参考までに。

 

 

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