私は以前、世界最高のピアニストの一人であり、「ピアノの女王」とも称される、マルタ・アルゲリッチのコンサートに行ったことがある。

このコンサートでは、同じく世界のヴァイオリン界を牽引する、ギドン・クレーメルも参加しており、およそ90分ほどの演奏は、まさに至高のひとときであった。

 

その時の感情をうまく表現する術を私は知らない。いや、正確に言えば、できなくはないのかもしれない。たしかに、言葉に変えてその感情を記すことはできるのだろうが、それではこの美しさを完璧に表現するにはあまりにも不十分すぎる。

 

というわけで、ここでは私の感想を記すことを控えることにする。もしそれが気になる方がいらっしゃるのならば、ぜひ彼女と彼が共演するコンサートに足を運んでいただきたい。

 

結局、感情とは言語化できないものなのだろうか。あなたは、果たして自身の感情が強烈に突き動かされたことを、綺麗に他の手段に転換し、表現することができるのだろうか。

 

先の話で言うと、感情は音楽という「芸術」によって引き起こされている。

 

そして、人間は常に言葉で思考するものであり、その言葉を経由しないものは「感情」と呼ばれる。「感情」とは、心が刺激を受けて何かしらの反応を起こした結果、と言えるだろう。

 

つまり、芸術は直に心に触れてくるものである。

そして、その芸術と心の間には、何一つ隔てるものは存在しないのである。

 

 

 

言わずもがなだが、私は言葉を軽視しているわけではまったくない。文学も然り。

 

感動を与えるものと、それを受け取る心との間に存在するいかなるものも、感動を「純度100%」では伝えられないのである。換言すれば、文字にしようが、音にしようが、どの形にしようが不完全になってしまうということである。

 

言葉もそれ自体が芸術の一つである。

 

それは間に何も介在せずに直に心に訴えてくる。

それから私達はしばらく無言のまま、丘の上に佇みながら、いつのまにか西の方から中空にずんずん拡がり出した無数の鱗のような雲をじっと見上げていた。

 

これは堀辰雄の『風立ちぬ』からの一文ですが、ここまで綺麗に読者の心の中に情景を思い浮かばせ、感動を与えるのは、まさに芸術以外の何者でもありません。彼はまさに文字で絵を描いているのです。

 

ちなみに、私の描くドラえもんは下手すぎて人々を笑顔にするため、これもまた芸術と言えるでしょう。

 

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