陽キャ、陰キャという言葉が使われて久しい。特にその言葉が使われ始めた時から、学校という階級システムに身を置いていた私からすれば、ある意味、馴染み深い言葉である。では、そもそも陽キャと陰キャとはなんなのか。デジタル大辞泉(小学館)によると、以下の通りである。

よう‐キャ〔ヤウ‐〕【陽キャ】 の解説

《「陽気なキャラクター」の意》性格が明るく、人づきあいが得意活発な人。陽キャラ。⇔陰 (いん) キャ

 

いん‐キャ【陰キャ】 の解説

《「陰気なキャラクター」の意》引っ込み思案内気な人。陰キャラ。⇔陽 (よう) キャ

要するに、人付き合いが得意か、否かで陰陽が分かれているのだろう。そして、この人付き合いが得意か、否かという部分は、コミュニケーション能力が高いか、否かとも言い換えることができるだろう。なぜなら、話し上手であればあるほど、それだけ他人とも交流することが得意なはずだからである。まあ、ざっくりと言えばコミュ力おばけ=陽キャで異論はないだろう。

しかし、私はここに一石を投じたい。真のコミュニケーション能力の高さは、「聴く力」にも大きく依存するのではないだろうか。つまり、話し上手であったり、初対面の相手にも堂々と話すことができたりといったことが、必ずしもコミュニケーション能力が高いとは言えないのではないか、ということである。

では、そもそも「聴く力」とは何か。それは、相手の発言にしっかりと耳を傾け、その内容を多角的に解釈することである、と考える。そして、「コミュ力」が高いとは、「聴く力」で得た情報をもとに質問を返したりして、相手とのコミュニケーションを活発化させることである、と考える。

 

以前、誰とでも仲良くなれるような人と食事を一緒にしたことがある。その人は、一人で食事を取ろうとしていた私に気軽に声をかけてくれた。その人はたくさんのことを話してくれ、内容もとても面白く、食事は非常に有意義なものとなった。

一方、一見静かめな人とも食事をしたことがある。この人も同様に声をかけてくれて一緒に食事をとることになった。しかし結論を先に述べると、この人との食事のほうが、より有意義なものとなった。この人は、質問を多く投げかけ、私のことを知ろうとしてくれ、私の反応をもとに柔軟に会話を広げてくれた。そうすると、今度は私もこの人に興味を持つので、たくさん聞きたいことが出てきて、こちらも質問を投げかける。このように、質問という刺激を適度に加えつつ、相手の話を「聴く」ことによって、コミュニケーションが円滑に回る、正のサイクルが生まれたのである。

おそらく、この文章を読まれている皆様も、聞き上手の方にあったことがあるのではないだろうか。その方のことを思い出していただきたい。自分自身の気持ちがスッキリしたとともに、相手のことも知ることができたのではないだろうか。まさに、そのような人が、「聴く力」をもった、真にコミュニケーション能力が高い人だと感じる。

もちろん、多少なりとも質問をする必要があるため、最低限の受け答えができるほどに、人との会話に慣れている必要もある。そして、今回は誰とでも仲良くなれるような、話し上手な方々を批判するつもりは毛頭ない。むしろ、そのような人は好奇心旺盛なので、こちらから話をふれば、しっかりと相談にものって丁寧に答えてくれる。

そして、今回私が言いたいのは、これまでの、真のコミュ力は「聴く力」にも依存する、ということに加え、話し下手で、うまく自分の考えていることを言語化できない人も、実はコミュ力高いんだよ、ということである。俗にいう、コミュ力お化けが跳梁跋扈し、目立つこの現代社会、一人でも多くの「静かなるコミュ力おばけ」が自信をもって会話の中へ飛び込んでいくことに期待します。

「相手が欲しがっているものは何なのか?」「相手が妥協してもいいと思っているものはなんなのか?」-それらを正確に見極めて、分析することが大切です。つまり、「どれだけ相手の主張を聞けるか」の勝負となるのです(p.121)。


これは、瀧本哲史の交渉術についての本からの引用です。少し長くなりましたが、皆様がコミュ力に対して考えるための一機会となれば幸いです。

残念ながら、私は持論展開マシーンなのでコミュ力は低いです。


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