東京の由貴さんたちと上野動物園で遊んだあと(1枚目)、江戸川の『加代』で晩ごはんしました(2枚目日付入り)。先に書いちゃうと、2枚目で一緒に写ってるのは瑞江駅で合流した陽子さん。彼女はこの5年後に大阪に遊びに来てくださったので、ミナミをご案内しました↓
由貴さんはマイミクさん。姉御肌&10歳年上なんだけど、ずっと若く見えます。動物園でHちゃん(=主婦)と2人の女装さん(=今は2人とも女性)を紹介してくださって一緒に遊びました(彼女たちとは夕方までです)。由貴さん「動物園は童心に帰っていいでしょ?」
この日は動物たちの写真もたくさん撮ったから、金曜記事3日分にはなるはず(^^)。一番たくさんお話ししたのはHちゃん。彼女はこのあとずっと仲よくしてくださってるのよ(このブログにも彼女のことをくり返し書いています)
***** 上野動物園&加代&ミナミwith陽子さん *****
***** 中旅&晩ごはんとお酒=そのほか(インデックス) *****
***** 気まぐれミュージック *****
(27) 森繫久彌(戦友)
この歌は父方の祖父が毎晩歌ってくれた子守歌です(*1)。私は4つの時、事情があって滋賀県の長浜でひと月あまり祖父母と一緒に暮らしました。伊勢湾台風が来て、大嵐がすごく怖かったことをよく覚えています(長浜の家は今はもうありません)
(1番)ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の、赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下。(6番)むなしく冷えて魂はくにへ帰った、ポケットに時計ばかりがコチコチと、動いているのもなさけなや。
『戦友』が作られたのは1905年(明治38年)、日露戦争の頃です。メロディも歌詞も(軍歌には珍しく)勇ましさが全然なく、悲しみにあふれているので、第二次大戦中は禁歌になっていました。それでも歌う人がやまず、黙認されていたようなのね(*2)
鶴田浩二さん、美空ひばりさん、ドリフターズのカバーもあるけど、私は森繁久彌さんが一番胸と目にきて、聴いてるうちにいつも涙があふれます。祖父は第一次・第二次大戦のはざまの人だから軍隊には行かなかったけど、この歌はいつも心に響いていたのでしょうね。
母方の祖父はフィリピンで戦死しました。父方の祖父より16歳若いので赤紙=召集令状が来てしまいました(徴兵時は35歳でした)。彼のことは↓に少し詳しく書いています。『戦友』は私の2人の祖父の歌なのです。
(*1)メロディも歌詞も難しくなく、1番だけのくり返しだったので、4歳の私でもすぐに覚えてしまいました。そのあとも祖父の歌はこれしか聴いたことがありません。彼の歌はこれひとつきりだったのかも。
(*2)この歌は軍歌とされているけれど、じつは(20世紀前半の日本ではこれがせいいっぱいの)『反戦の歌(アンチ・ウォー・ソング)』または『抗議の歌(プロテスト・ソング)』だったような気がするのです。
***** 靖国神社(母方の祖父のこと) *****