2020年の11月ごろか、ホームセンターの園芸コーナーに売っていたシャコバサボテン(カニサボテン)を買った。これから咲いてもらうために、花が咲いているものより、蕾が一杯あるものを選んで買った。リビングに置いて、咲くのを楽しみにしていたのだが、花が1つ、2つ、咲いただけで、蕾が腐ったようにどんどん落ちてしまった。水をやりすぎではないし、置いたままだったのに、なぜ落ちてしまったのか不思議だった。以前に買ったシャコバサボテンは、水のやり過ぎで枯らしてしまったので、また枯してしまうのか、と心配になった。

 後日、園芸コーナーに行ったときに、園芸コーナーの人に、蕾のままで花が咲かなかった、といったら、「来年は、○○○○」とか言っていたような気がした。何を言ったか、忘れてしまった。家の中に置いておいてもしょうがないので、諦め7割で、庭に出したままにしておいた。

 2021年、他の鉢植えと一緒に水だけは欠かさないように上げていた。10月ごろから葉っぱの先から芽がでてきた。葉っぱが伸びてきたのかと思っていたら、蕾のようだった。11月に入ると蕾が一杯出来てきた。また咲かないで蕾のまま落ちてしまうのか、と疑心暗鬼でいた。

 11月下旬になって、明らかに花が咲きそうになってきた。嬉しくなってリビングに入れる。12月になって3分咲き、5分咲きとなり、6日には満開になった。嬉しくて写真を撮り、ブログにアップした。来年はどうなるのだろうか、ともう心配になる。

 今年の日本シリーズは、ヤクルトとオリックスの実力が拮抗していて、本当に面白かった。ヤクルトが3勝2敗で迎えた第6戦は1対1のまま8回になった時に寝てしまった。次の日の28日の日曜日、朝起きてすぐ新聞を広げた。10ページ目には「絶対的エース 山本の141球」と書いてあったので、オリックスが勝ったのかと思ったが、スコアーは延長10回、1:1という記事だった。引き分け再試合かと思った。今日も日本シリーズが見れる、と喜んで、妻に「引き分けで、今日も試合がある」といったら、妻は「ヤクルトが優勝したよ!」と言う。朝のニュースで知っていた。

 当然、次の日の29日の朝刊に、ヤクルト優勝の記事が載っていると思ったが、ヤクルト、優勝の1文字もない。何故、どうして優勝の記事がないのだろうか?試合が延長戦になり、20時、21時になって新聞の締め切りに間に合わず、翌日にその記事がでることは、よくあることだ。しかし今回は、28日が延長10回まで、29日は1行の野球記事が無く、延長戦の詳報、優勝の記事が載っていないのはおかしいと思った。

 不思議に思ったので、朝日新聞の1面の天声人語の下に「紙面へのご意見、・ご質問--電話番号」に、電話する。女性がでたので、「28日の朝刊は延長戦まで、そして29日の朝刊には一行もヤクルトの優勝がないのでどうなっているのか?」と質問するが、「13ページに載っている、載っていないはずはない」と言って、こちらの説明を理解できないようだ。「なぜそうなったのか、調べて連絡してくれ」といっても、「それはできません」と言う。暖簾に腕押しで、埒が明かなかった。何のためのご意見、ご質問なのだろうか?

 12月1日、横浜の友人から、「28日の横浜の朝日新聞朝刊には、優勝の記事がでている」との連絡がある。それでまた朝日新聞に電話をする。今度は男性のHさんがでたが、こちらの言い分を、クレーマー言いがかりに対するかのような対応で、けんもほろろ、一方的、高圧的な対応だった。対応が余りにも酷かったので、これ以上話してもしょうがない、と思い、電話を切る。

 お役所的、見下す態度に割り切れないものがあったので、今度はネットに朝日新聞の質問コーナーがあったので、そこに「28日にも、29日にもヤクルトの優勝の記事がありませんが、どうしてですか?」との質問をメールで送る。

 2時間後、「山口さまのお住いの地域は、延長10回までしか掲載できませんでした。ヤクルト優勝記事は、翌29日の朝刊10ページ「ツバメ接戦を制し、20年ぶり日本一」の見出しで掲載しました。確認下さい」との返信があった。

 子供じゃないのだから、29日の朝刊は隅々までみて、調べて質問しているのに、この返信はこちら質問を少しも理解していない。何を考えているのか、と思った。

 なのでまたお客様係に「掲載されていると書かれていますが、指摘された29日の朝刊の10ページには掲載されていません。何度も何度も確認しています。優勝の記事があれば子供でも気がつきます。ないから質問したのです。」と送信した。

 12月2日、玄関のインターフォンがなる。妻がでて、「お父さん」と呼ぶ。朝日新聞の地元の販売店の人がいた。本社からの指示できたという。29日の新聞を示し、「記事が出ています」と言う。確かに「ツバメ20年ぶり日本一」の記事はでていた。私は家に入り、29日の新聞を取ってくる。29日のスポーツ欄を示して、「掲載されてないでしょう」と言う。彼は「本当だ、不思議だ」と驚く。そして彼はこの地域の朝日新聞の配達は3つの地区が統合されて1つになり、とか言い出す。そんなことはどうでもよくて何故そうなったのか、説明してくれ」といっても「分からない」と言う。「この新聞をもっていって、本社に報告してくれ」と言う。彼は持ち帰ったが、その後の事は分からない。

 後で考えると、記事には東京版と地方版があり、横須賀は、2つの版が混在しているのかも知れない。28日は地方版がきて、29日は東京版がきたため、一貫性がなくなったのではないかと考えた。29日も横須賀版がくれば「ツバメ接戦を制し、日本一」との記事がみられたので問題はなかった。だが、東京版がきたため、すでに28日に優勝の報をだしているので、記事は無し、と言うことになったと推測した。何故、この横須賀に2つの版が配られているのか、不思議だ。

 10月20日のゴルフコンペの翌日、左臀部に違和感があったが、次の日に仲間との定例会があるので、練習場に行き、300球ほど打った。最初はちょっと痛かったが、身体が温まってきたせいか、痛みは気にならなくなった。だが家に帰ってから、身体を捻るとお尻の違和感が強くなってきた。風呂を上がってから湿布を貼ったり、低周波治療器をかけたりした。

 翌日のゴルフの日は雨の予報があった。19時のNHKの天気予報をみて、皆で相談し、ゴルフは中止にすることになった。お尻のことを考えたら良かった、というのが本音だった。

 雨の22日は大事をとって、練習は休んだ。

 22日~24日と3日間、練習を休んだので、お尻の痛みは良くなったような気がして、25日、練習場にいった。数級うっただけで、お尻に痛みがでて、庇う打ち方になり、飛距離がでなかった。40球ほど打って、諦めることにした。

 翌週の11月4日に定例コンペがあるのだが、この痛みで、これから練習できるのか、それまでに治るのか、間に合うのか、と心配になってきた。

 なので26日に近くの整形外科に行くことにした。混んでいるかと思ったが、リハビリをする高齢者が4~5人いたが、診察を受ける患者は私だけだった。 

 9時に診察が始まりすぐ呼ばれた。30歳すぎの若い医者だった。21日からお尻の下の方が痛い、と一連の経過を言う。医者は下肢進展挙上テスト、側弯テスト、前屈テストなどをして、お尻のちょっと上の方なので、坐骨神経痛ではないかな、と言い、一応、レントゲンを撮りましょう、と。

 レントゲン写真をみて、脊椎の異常はない、ちょっと脊柱が真っすぐなのが気にかかる、という。脊椎に異常がなければと、安心する。痛み止め,消炎剤、胃薬、湿布が処方される。

 薬を飲んで翌日、症状が良くなるかと思ったが、座っていればいいのだが、歩くと痛くなったし、とても練習もできないので、「定例コンペは欠席する」と幹事さんに連絡する。スーパーでの買い物は、妻について歩ることができず、車で待つことになった。それから3日間薬を飲んだが、少し歩くと痛くなった。

 痛みがなくならないので、ネットで色々調べてみた。どうやら坐骨神経痛ではなく、脊柱管狭窄症の症状のようだ。50mも歩くと左脚・臀部が重く痛くなる。座って休むと、症状がなくなり、また歩くと痛くなった。

 脊柱管狭窄症は加齢に伴っておきることがあり、保存療法と手術の選択があり、酷くなると手術のようだ。週明けにMRIのある他の整形外科に行くか、もう1週間は様子をみるか、迷う。

 10月5日に初孫が誕生した。

 和歌山にいる娘が妊娠して、出産予定日が、10月の15日頃だった。

 9月の下旬に入って胎児が大きくなりすぎたので、9月30日に入院して経過をみることになった。10月3日から陣痛誘発剤が投与された。誘発剤は以前に事故があったため、徐々に強くするらしい。

 その効果がでたのか、10月5日の夜に陣痛が始まった。それから妻と婿殿とのラインのやり取りが始まった。私は翌日にゴルフがあるので、9時30分ごろには布団に入っていた。だが、経過が気になり、ウトウトして眠りが浅い。

 結局、10時過ぎに帝王切開になって、赤ちゃんは無事に誕生した。ただ娘は麻酔から覚めず、11時過ぎに婿殿から娘の無事との連絡があり、妻は就寝した、というのを3時過ぎにトイレに起きた時にラインでみた。

 娘はそれから1週間入院し、11日に退院となった。退院したので、12日に夫婦で和歌山にいくことになった。2日前まで、男が行ってもしょうがないので、行くことに躊躇したが、それも大人げないので、私は1泊、妻は1週間ほどいくことになった。JR横須賀駅に切符を買いにいく。往復で8万円弱だった。

 12日、家を8時40分にでる。荷物も少ないので歩いてJR田浦駅に行く。20分はかかる。9時11分発に乗り、新横浜から10時40分発の「のぞみ」に乗る。新大阪には13時に着き、黒潮に乗り換え14時20分に和歌山に着いた。約5時間30分の旅路だった。

 娘のアパートには昨年に行ったので、大体の道順はわかっていたが、妻がスマホを使い15分ぐらい歩いてアパートに着く。

 赤ちゃんを見た瞬間は、可愛いというより、何と小さく、壊れそう、というのが印象だ。抱いてみて、と言われたが、怖くて躊躇するぐらいだ。おくるみに包んでもらって、やっと抱いた。自分たちが子供を育てた時、こんな怖さ、小ささを感じなかったように思った。赤ちゃんは、泣いたり、おしっこをしたり、おっぱいを飲んだり、おむつ交換したり、風呂に入ったり、と忙しい。

 翌日、妻を残して1人で帰ることになった。1人で旅行するのは、仕事をしていた時以来だろうか?何となく不安で、スマホの乗り換えアプリを何回もみた。9時50分発の黒潮に乗り和歌山を出発。20分過ぎた頃、前の駅で電車に異常音があり点検のため20分遅れとなります、とのアナウンスがあったが、新幹線は自由席なので、心配もなく、新大阪に着く。新幹線はガラガラに空いていた。3人掛けに座り、何時混むのだろうか、と思ったが、まったく混むことがなかった。まだコロナの影響があるのだろうか、3割ぐらいの客だった。

 逗子からのJRの乗り次が悪いので、横浜から京急に変え、16時頃の帰宅となった。小雨が降っていた。

 8月13日から3日間、お盆で勝浦に行く。昨年のお盆の時は、4月~5月に出された緊急事態宣言が功を奏して、新型コロナの流行は沈静化に向かって行ったのだが、今年はオリンピックがあったことに加え、緊急事態宣言慣れして、感染拡大が広まり爆発的に感染者が増えている。テレビでは菅総理、東京の小池知事、神奈川の黒岩知事も、不要不急の外出は控えて、お盆の帰省も我慢して、と喧しく言っていた。

 こんな時期に恐れ多いのだが、隣家に13日から15日まで勝浦に行きますとメモを書き、9時に家を出る。弱い雨が降っていた。九州に線状降水帯があり、関東地方も雨の日が続くとの予報が出ていた。

 アクアラインは、毎年、抜けるのに1時間以上はかかるので、今年も渋滞があると予想して、渋滞の時間を込みで、出発した。ところが、アクアラインは全く混んでいない。混んでいないどころではない、これまで経験したことがないほど、車が少ないのだ。政府の宣言が効いているようだ。すいすいとアクアを抜け、市原鶴舞ICを抜けてしまった。

 先日の台風の時に勝浦で土砂崩れがあった場所が気にかかった。ネットで通行止めはなく、交互通行になっているということは知っていたが、場所が気にかかった。場所は国際武道大学の野球グランドの近くだった。山側が50mぐらいの長さで崩れていた。10数人でが土砂をどける作業をしていた。

 昼食と夜のビール、Kazuちゃんへのお酒を買うためにベイシアに寄る。駐車場は10時にかかわらず、かなり混んでいた。こんな時間に、こんなにも車が、と驚いた。お盆休みで帰ってきた人がいるせいなのだろうか?

 玄関のドアは、清水さんが開けてくれていた。兄貴達はまだ来てなかった。昼食を食べ、テレビを見ていたら、早苗さんから、いま着いた、お寺に寄ると言うので、私達もお寺に行く。お花を供え、墓の周囲を掃除する。夜はレトルトのカレーを食べる。風呂に入り、11時に就寝。

 

 翌日の朝食後、兄たちは親戚の家に行くというので、私達はベイシアに食料を買い出しに行く。買い出しから帰ってから、清水さんが管理しているという同じ新官にある民泊の「しんがしんが」がどこにあるのか、探しにいく。「しんがしんが」は江澤自動車の近くにあった。自動車が入らない細い道を少し入ったらあった。庭にトランポリンが置いてあった。庭は広かったが、海が見えず、海に出るまでは7分程度はかかりそうだった。

 カズちゃんの家に行き30分ほど談笑し、それからきゅすとんに挨拶に行く。Mikio君、Miekoちゃんもいた。相変わらずMikio君は威勢が良かった。Miekoちゃんは、実家の隣に家を建てると言っていた。

 お昼は、家から持参した「つけ麵の達人」を4人で食べる。これの定価は2食で260円はするのだが、安売りで200円で売っている時に買ったものだ。つけ麺の汁が、有名店の汁と変わらない美味しさで、私たちのお気に入りだ。週1回は食べている。

 お昼過ぎに詔iちゃんから10分ぐらいで着くとの電話があった。詔iちゃんには、一昨年の夏に会った、かと思ったのだが、詔ちゃんは「昨年だ」という。そのへんは詔ちゃんの方が頭がクリアなので、私の記憶違いだ。

 詔ちゃんからBlogを最近書いてないですね、と言われた。「えぇ!読んでくれていたのだ、とビックリ。最近の、といっても5月に書いた「富士山と油壷」を読んでくれていた。書いていない理由として、ゴルフのBlogと、ゴルフコンペのホームページの更新が忙しいので、といったのだが、実際の理由は書くテーマがなくなったのだ。母は亡くなったし、妻との旅行もしなくなったし、というところだ。

 詔ちゃんとは仕事の話、趣味の話、親戚の話、兄弟の話など、1年ぶりで話は尽きない。趣味の話になって、ギターを弾いているというので、「Dire Straitsを知っている?」と聞いてみたら、「知っている」と言うので、びっくりした。Dire Straitsは1970年代に流行ったイギリスのグループだ。私は昨年の暮れにYouTubeをたまたま見て、初めて知ったのだが、このグループの名も曲も、今まで聞いたこともなかったし、日本では有名ではないと思ったからだ。今はちょっと私のお気に入りだ。

 詔ちゃんはビールを飲んだが、私は飲めなかった。というのは、15日に帰ろうと思っていたのだが、15日は早朝から大雨との予報だったので、14日に帰ることにしたため、飲めなかったのだ。

 詔ちゃんを勝浦駅に送り、16時に帰路につく。雨に時々降られたが、強い雨ではなかったので、助かった。2時間30分ほどかかって帰宅した。翌日は、やはり強い雨が朝から降っていた。

 5月2日、妻のアッシー君で三浦半島の油壷の介護施設に行く。連休中なので余裕をみて、8時30分に家を出る。逸見から阿部倉トンネルを出て、横須賀のゴミ焼却施設「エコミル」、芦名、武山の自衛隊駐屯地、三崎口、三崎警察を右折して、シーボニア、油壷から目的地の諸磯湾に到着。片道25㎞はあった。まだ早いせいか渋滞はなく、スムーズに着く。施設の駐車場で時間を調整。10分ほどして、妻は施設に行く。妻が戻るまで1時間はあるので、私はこれまでどおり、近辺を散歩する。

 諸磯湾に油壷京急マリーナがあり、50艇以上は係留していた。湾の上を少し上ると高級住宅地がある。この景気で、建物はポツポツで、分譲地はかなり空いている。

 諸磯湾から歩いて5分ほどに油壷湾があり、油壷ヨットクラブ、三崎マリンがある。ヨットがここにもかなりの艇が係留している。ここは湾が深く入っているので、台風のときなどに、漁船の避難場所になっているそうだ。

          油壷のヨットハーバー

 湾を上から眺めるていると、傍に案内板があって、油壷の名前の由来が書かれていた。北条早雲が三浦一族を滅ぼした時に、湾一面が血で染まって、油を流したようだった、と。これまで4~5回は、ここを散歩しているのだが、初めて気がついた。そこから10分ほど歩いて小網代湾にあるシーボニアに行く。シーボニアは、5年ほど前だかに、妻の友人の旦那さんのブラインドヨットの国際大会の観戦をし、食事をした。また1年前に散歩の途中でトイレをかりたことがあったので、急な坂を恐れて、下まで降りずに周りを眺めるだけにした。30分ほど経過したのでそろそろ時間かと思い、戻ることにした。

 諸磯湾に戻ってきたら、若い人が海に向かって写真を撮っていた。ヨットでも撮っているのかと思って湾の方をみたら、湾の真正面に富士山がいた。こんな場所で富士山に会えるとは想像もしていなかったので、びっくりして写真をとった。スマホではぼやけてしまい、がっかりするほど富士山の姿を撮ることができない。

            富士山が真ん中に

 帰りの反対側は、やはり買い物や観光の車で渋滞していて、ナビは赤い線が長くつながっていた。昼食は、レストランと言う手もあったが、カインズにあるコメダ珈琲でサンドイッチを食べる。ボリュームがあって、残したいほどだった。そこからすぐ近くにあり、今日の一つの目的でもあるパン屋「充麦」で食パンを6斤買う。3斤は家用、3斤は知り合いに配った。

 我が家の駐車場の庭には、植木鉢にミカンの木が植わっている。植えてから10年は経つだろうか?6年前ぐらいかに、初めてミカンがなったので、嬉しくて母が生きている時に、お土産として2、3個ほどもっていったことがある。それから2,3回ほどなっただろうか
 この数年は、肥料不足、虫がついたり、手入れの悪さから、実はならなくなった。そして昨年はカミキリムシの幼虫、葉の裏にカイガラムシがついて木の上部が枯れてきたので、半分ぐらい途中から切ってしまった。ほぼ枯れてしまうと諦めていた。
 ところが今年は、病巣が除かれたせいなのか、切ったところから勢いよく枝や葉が生えてきた。こちらも勢いを得て、殺菌剤をまき、化成肥料を与えて毎日、虫がついているかどうか葉の裏を観察もしていた。春ごろにたくさんの花が咲いたが、あだ花で、実はならないだろうと、思っていた。摘花もせず自然のままにしておいた。その後に実がついたが、ちゃんと成長するのか、腐らないで食べられるのかどうか、期待はしていなかった。
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                           鉢植えのミカンの木            普通のミカンと比べると大きい
 スーパーにミカンが出始めたころ、夏みかんのように大きくしっかりとしたミカンが10個ほど成長してきた。それでも食べられるのどうか、疑い半分であった。
 枝が折れるように先端に2つなっていたので、まだ皮は青かったが、その1つを味見のため、収穫してみた。実にしっかりと皮がついていて、皮をむくと、ミカンらしい匂いがしてきた。妻と早速、試食。美味しい。ミカンらしい酸っぱさもあり、それでいて甘さもあり、甘さだけのミカンより存在感がはっきりしていた。妻も「おいしい」とびっくりしたようであった。
 その後、10個ほどの大きなミカンが収穫ができた。1つのミカンを妻と半分づつに分け、5日ほど楽しみながら味わった。来年はどうなるであろうか?

 9月に誕生日を迎え76歳となった。80歳まであと4年しかない。この4年も、「あっ!」と言う間だったので、これからはもっと、もっと「あっ!」と言う間だろう。
 4年後の80歳の私から、76歳になったばかりの私にメッセージを送るとしたら、こんな感じだろうか?

 76歳の時はまだまだ動けましたね。ゴルフの練習はほぼ毎日、週1回はレインボーに行ってました。車の運転もできたし、旅行も行けました。頻尿とコレステロール値が高かったぐらいでどこも悪くなかったですよね。76歳の時に、身体が動かない、頻尿だ、疲れやすい、とそれなりに、愚痴を言ってましたが、80歳の私から見れば、本当に羨ましい限りです。
 この頃の私は足も腰もすっかり弱り、30分の散歩がせいぜいです。前立腺の手術をして、軽い脳梗塞になり病院通いになりました。リハビリのためデイサービスにも行っています。運転は脳梗塞になった期に止めました。なので買い物が大変です。ゴルフの練習は、免許を返納して運転ができないので殆ど行きませんが、妻が暇な時にお願いして行くぐらいです。距離が全くでなくなり、ドライバーで130ydぐらいです。スコアーは100以上も叩き、すっかり健康のためのゴルフになってしまいました。一水会は77歳で辞め、星野さん達とは、近況報告のように、月1回ほどプレーしていますが、星野さんも高橋さんも80歳ですので、後1年続くかどうか?76歳の時、小林さん達が88歳過ぎても、車で来て、ラウンドしてたなんて、今思うと信じられない思いです。
 豊子はまだ67歳ですので、病気もせず元気で飛び回っています。私が身体のことでボヤいたり、愚痴をいったり、あれもできない、これも出来ないというので、介護施設に入れるよ、と脅かします。先日もトイレが間に合わず、漏らしてしまい、散々怒られました。
 80歳になれば、もう十分生きたのですが、これからますます友達もいなくなり、趣味もなくなり、身体も動かなくなり、ないないづくしになります。いつまでこの地に、家に住んでいられるのかも不安になります。ただ80歳になってつくづく思うのですが、76歳ならまだまだ若造、80歳までは動けます。勝手に落ち込まず、まだ4年もある、との気持ちで頑張ってください。

2020/7/29

 帰りの白浜発大阪行きの黒潮は12時25分発なので、朝食を済ませても、たっぷり時間があったので、白浜の名勝である千畳敷、三段壁洞窟に行くことになった。ホテルを9時頃に出て、歩いてバス停に行く。バスは海岸沿いを走り、15分ほどで、千畳敷に着いた。
 千畳敷は、三段壁、円月島と並び白浜の景勝地だった。夕日が美しいと書かれていたが、午前中なので、それは望むべくもなかった。観光客は少なく、パラパラといた。千畳敷というと、駒ヶ岳の千畳敷カール、そして東北に行ったときに千畳敷海岸を思い出した。畳を千畳敷いた広さということだが、万畳敷や百畳敷は聞いたことがないので、広さを表すのにゴロがいいのだろう。
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 三段壁洞窟は熊野水軍の船隠しの洞窟だった、と言われているようだ。洞窟に行く建物は、土産物も売っていたがお客は私達と数人だけと寂しい。洞窟に入るにはチケットを買わなければならない。チケット売り場があり、エレベーターがあった。入場料は1300円とびっくりするほど高かったが、洞窟を見たかったのでチケットを買う。地下36mをエレベーターで下がる。湿気のある暗い洞窟は、波が打ち寄せている場所、水軍の船、弁財天が置かれている場所を、10分ほど見学をして、上に出た。やはりツアー客が列を作って、がやがやと見学しているのと、5、6人だけが見ているのとでは、迫力も有難みも違う。「枯れ木も山の賑わい」である。それにしても1300円は高かった。
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      三段壁
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      村上水軍の船
 土産物を買うために、バスで白浜町地域産物展示販売場に行く。駐車場はだだっ広く、大掛かりな物産の販売場であった。近所への土産として、また私のゴルフ仲間への土産として南高梅を買う。昼食は、販売所の外にあるテントの店で摂る。暑かったのでソフトクリームを食べる。
 娘夫婦はもう一泊、白浜に泊まるというのでバス停で別れ、私たちはバスで白浜駅に向かう。娘夫婦が仲良く生活しているのが、私たちの大きなお土産になった。12時25分発の電車に乗り、2時間ほど乗って大阪に着く。大阪発は15時9分だった。新横浜についたのは17時を過ぎていた。
 出かける前日に大雨がふり、この1週間も不安定な予報がでていたし、和歌山も雨の予報があって、天候を心配したが、3日間とも夏日となり、恵まれた旅行になった。

2020/7/28

朝食を食べてから、目的の1つである、パンダで有名な南紀白浜のアドベンチャーワールドに行く。パンダの絵でデコレーションされた10時発の特急に乗る。白浜駅まで1時間近くかかっただろうか?白浜駅からバスに乗り、10分ほどでアドベンチャーワールドに着く。
 アドベンチャーワールドは動物園、水族館、遊園地が一体となったテーマパークだ。何と言ってもパンダが有名で、ここで双子のパンダが生まれたり、これまで20頭近くのパンダが育てられたそうだ。現在、6頭が飼育されていた。
 広い広い場所に、パンダの他、イルカやペンギン、鹿、ライオン、キリンなどの動物がいる。

 平日のせいもあったが、コロナがここでも深刻なダメージを与えているようで、観光客が信じられないほど少なかった。想像だが、混雑時の10分の1か、20分の1ぐらいではなかろうか。パンダエリアは大混雑を予定して、並ぶための区切りが幾重にも作られていたが、それは用なしで、並ぶことも待つことなく、すぐパンダを見ることができた。コロナ禍がなければ、きっと押すな押すなの人、人、人で、見る時間も限られていた思うが、今は飽きるほど見れた。パンダは2頭が1つのエリアに入れられ、1頭づつ部屋が区切られていた。そのエリアが2つあった。その姿は愛らしいのだが、食事をしているか、昼寝をしていて、動き、遊ぶ動作を見ることができなかったのは残念。
 時間を合わせて、マリンライブでのイルカのショウを見学する。人とイルカの一体感、イルカの芸達者には、感心させられる。ライオンやクマの猛獣ゾーンのサファリワールドには、バスに乗って身近に見ることができた。

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  パンダ

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         イルカのショウ
 子供連れには、1日楽しめるテーマパークだが、75歳の年寄りには、テーマパークをすべて見るのは、体力が持たない。それなりに見学したが、疲れた。
 宿泊は、大西君が選んだ古賀の井リゾート&スパだ。ホテル全体に敷きつけられた絨毯からして、高級感が溢れていた。2人部屋は広さもあり、窓からみるオーシャンビューがすばらしかった。
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     部屋からみたオーシャンビュー
 夕食はバイキングだった。コロナ禍にもかかわらず、満席状態だった。受付で手の消毒、体温の検温、それから手袋をはめされられたのにはびっくりした。トングは10分ほどで交換するし、料理の並べ方、料理を取るにもコロナ対策が徹底していた。各テーブルにはビニール手袋の箱が置かれていて、料理を取りに行くたびに新しい手袋をはめていくことになる。流石にやりすぎのように感じた。料理は和洋中と多彩で種類も多く、味もAランクだった。バイキングの部屋は何故か冷房が凄く効いていて寒くなったので、料理はそこそこにして部屋に退散した。
 温泉に入る前に、4人で卓球をした。卓球をするのは何十年ぶりだろうか?負けるはずのない妻と対戦したが、全敗だった。大西君は180㎝超の細身の体からは想像ができなかったが、高校時代は卓球部だったというのには驚かされた。
 大浴場は窓がなく、オープンで夜景がもろに見え、解放感が溢れていた。露天風呂も清潔感があり、広さもあり気分が良かった。大浴場は窓がなくオープンで、湯気が籠らず、景色も眺められ、良いのだが、虫が入ってこないだろうか、と勝手に気になった。