私の母は、戦時中、北九州八幡の和紙を作っている所にかりだされて働いており、終戦間近になって実家のある熊本の鏡町に汽車で帰っていたそうだ。鳥栖という駅で停車していたときに、長崎方面から来た人たちが乗ってきたそうで、みな衣服はぼろぼろで、肌は焼けただれていたという。あとで、その人たちが原爆で被曝していたことを知ったというのだが、その人たちに接した母は、そのとき間接的ではあるが被曝したと考えられる。そのとき壊れた可能性のある母の遺伝子が、のちに生まれた私の遺伝子にあるかもしれない。
私は大学4年生のとき、卒論で、いろいろな物質に超高速の酸素イオンをぶつけて、その物質の原子核の構造を調べるという研究をしいた。大学の構内に超高速の酸素イオンを作るためのサイクロトロンがあり、その建屋内で実験を重ねていた。当然、サイクロトロンが動いているときは、酸素イオンが放射される所には入れない訳で、稼動中には赤い電球が点灯するのであるが、あるとき、赤い電球が点灯しているのを知らずに入ってしまった。指導されていた先生にえらく叱られたが、そのとき私は超高速の酸素イオンを浴びた訳だから確実に被曝しているのである。
私は、大学院で修士論文を書いていたころ、気象関係の会社に就職が決まったが、学生運動をしていた後輩が、「先輩、原子力発電所の仕事があったらやるのですか」と質問してきたことがある。私は即座に「そんな仕事がきたらすぐに会社を辞めるよ」と答えたものだ。しかし、いざ会社に入ってみると、原子力発電所の環境調査の仕事が多く、発電所予定敷地内での気象観測やら、発電所の気象観測施設の点検などをやるはめになってしまった。そのたびに後輩に申し訳が立たないな、と忸怩たる思いでいた。そして、後年、原子力発電を推進する会社への出向が決まったときに、さすがに観念し、会社を辞めて、鍼灸の道に入ったのだ。
被曝といえば、もう小学校のころから胸のレントゲンで毎年0.1ミリシーベルト、会社に入ってからは海外出張で毎回0.2ミリシーベルト、40歳以降は人間ドックの胃透視で毎年5ミリシーベルト、会社を辞めてからは胃透視は受けなくなったが、ときどき、尿路結石のCT検査で20ミリシーベルトを浴びることがある。
昔、高木仁三郎の『プルトニウムの恐怖』や広瀬隆の『東京に原発を!』などを読んでいた頃は、都会の中心に発電所を作れないのはやはり原子力発電が危険な証拠であり、たとえ電力がなくてもローソクで暮らせばいいじゃないかと、思っていて、その思いは今も変わっていないが、あの東北での大地震のとき、福島原発で、爆発の危険の中で、多量の放射能(最大250ミリシーベルトまで)を浴びながら作業を続けられていた東京電力の人、下請けの人、自衛隊、消防署などの人たちのことを思うと、原子力発電は悪だと思いつつも、命を張っての作業がむなしい結末に終わらぬことを祈らずにはおれなかった。
祈るだけではものごとは解決しないから、少し考えてみた。燃料棒冷却のための作業と並行して、放射能を計測するモニターを原発の周囲に適宜設置し、冷却のための作業が困難となり制御不能となった場合には、施設内の作業員全員を安全なところまで退避させ、周辺住民も全員避難させて、核爆発という最悪の事態に備え、どういった事象が起こるのか分からないが、その事象のあとで核物質が崩壊または拡散して放射能レベルが下がるのを待ち、どのくらいの期間退避が必要なのかは分からないが、先のモニターを監視しながら、安全な値に下がった時点で徐々に退避を解除していったらどうか、など、当時、愚案をめぐらしていた。
ところで、余談だが、東北の大地震があった頃、私は宇治に住んでいて、近くのお寺の座禅の会に、ほぼ毎週参加していた。その日は、東北関東大地震の犠牲者の冥福を祈り、坐禅を始める前に般若心経をあげ、お焼香をした。坐禅のあとの茶話会では、やはり話題は大地震の話になった。その日の坐禅会には、目の見えない耳の聞こえない人たちの通訳をしている青年も参加していた。
この青年は、通訳のボランティアで世界中を駆け巡っており、スリーマイル島にも出かけ、放射能で汚染された土壌で異常に成長した菜の花やニンジンを実際に見てきたという。そして、前の週には東北の被災地へ出かけ、テレビ等の映像では見られない凄惨な現場を歩いてきたそうだ。現地の人たちの話では、犠牲者の数は5万人ぐらいになるとのことだった(まだ、情報が錯綜していた)。
この青年は、チェルノブイリで放射線の被曝を受けた患者の診療にあたった医師にも会っていて、その医師によると、放射能による甲状腺ガンなどの発病を抑えるのには、あの「磯じまん」が最も効果があるということである。毎日少しずつ「磯じまん」を摂取すると、放射線に対する耐性ができてくるというのだ。科学的根拠は分からないが、他の海苔の佃煮ではなく、「磯じまん」が最良であるそうだ。