2011年11月22日、日本人宇宙飛行士・古川聡さんが167日間の宇宙滞在を経て無事帰還された。その間、毎日、地上の約半年分に相当する放射能を浴びての帰還であるから、総被爆量は地上の放射能の100年分にも相当するという。しかも、単一ミッションにおいて宇宙船の事故で亡くなる確率は70分の1だから、宇宙飛行士も因果な仕事である。

 

長期滞在後はすぐに独りで歩くことは不可能。無重力の影響で筋肉も骨もかなり脆弱になっているからである。相当期間のリハビリが必要となる。リハビリで筋肉はほぼ元通りに回復するが、スカスカになった骨はなかなか元通りにはならない。

 

酒井大阿闍梨の講話で伺った話だが、千日回峰行で700日を終えた時に9日間の堂入りというのがある。9日間、断食、断水、断眠、不臥して、ひたすらお経を唱え続ける荒行である。普通の人なら死んでしまう。なぜ修行僧が死なないかは、それまでの700日間の回峰行にその秘密があると考えられる。強靭な体力の持ち主の酒井さんでも、9日間の堂入りを終えたときは、栄養不足、とくにCa不足で歯がぼろぼろになってぐらぐらしていたそうだ。おそらく、体内の骨も全てスカスカになっていたはずである。長期滞在の宇宙飛行士と似たような状況だ。

 

なぜ、このような危険を冒してまで、宇宙飛行士は長期間滞在し、お坊さんは千日回峰行に挑むのだろうか。昔、危険な山登りに挑む登山家が、「なぜそんな危険を冒してまで山に登るのか」と質問されて、「そこに山があるから」と答えたそうであるが、全く答えになっていない。宇宙飛行士も、千日回峰行者も、登山家も、こう答えればいいのだ。

 

「そこにロマンがあるから」

 

1979年に私は大学院に進み、宇宙論の研究を始めた。そこにロマンがあったからである。

 

私の研究テーマは3Kの宇宙背景輻射の理論的研究だった。前年の1978年にはペンジャスとウィルソンが、その3K輻射の発見でノーベル賞を受賞しており、またその前前年にはワインバーグが『宇宙創成はじめの三分間』という一般向けの本で、ビッグバン初期の元素生成過程を見事に語ってくれていた。私の研究の焦点は、はじめの三分間のずっとあとで銀河団が形成される頃の宇宙空間の光のスペクトルの歪みにあったが、同じく宇宙の歴史がテーマだったので、ワインバーグの本は非常に面白く読んだ。

 

私は、著者ワインバーグが解明した弱い相互作用と電磁相互作用の統一理論にも興味をもっていた。それで、研究室の仲間に、今年のノーベル賞はワインバーグだね、と話していたのであるが、なんと、その年のノーベル物理学賞は、この電弱理論が評価され、サラムとグラショーとともにワインバーグが受賞したのである。

 

S.ワインバーグ(1933-2021年)は物理学の基礎理論の研究家で、マクロの宇宙論からミクロの素粒子論まで幅広くかかわっている。彼の目指すものは、自然界に存在する4つの力である強い力、弱い力、電磁力、重力を統一的に説明する究極理論である。その思いを吐露したのが、1992年に一般向けに書き表した『究極理論への夢』である。究極ということは、そこに神の存在を仮定しなくても世界が説明できるということである。

 

今、強い力には量子色力学、弱い力と電磁力にはワインバーグ・サラム理論、そして重力にはアインシュタインの一般相対性理論がある。究極理論はこれらの理論を統一的に説明できるものでなければならない。それは夢に終わると考える科学者の方が多いのだが、ワインバーグは夢が現実になると考えていた。この著書には、一切、数式がない。究極理論は美しい数式で表現されるはずなのだが、その数式を一切省いて、一般読者にその理論の可能性を語っていた。

 

私は、大学に入って原子核物理学を専攻した。やはり、そこにロマンがあったからである。

 

大学4回生のとき、いろいろな原子核に高速の酸素イオンをぶつけて、そこから出て来る光のスペクトルを測定して、ぶつけられた原子核の構造を解析するという実験に参加した。そのころは、当然、原子核が陽子と中性子からできていることは分かっていたのであるが、その陽子と中性子ももっと小さな素粒子というものからできているようだということで、いろいろな説が出回っていた。紐とか匂いとか色とかストレンジネスとか、不可解な専門用語が飛び交い、物理の世界も魑魅魍魎となっていた。

 

この混沌としたミクロの世界観をすっきり整理してくれたのが、2008年にノーベル物理学賞を受賞された益川さんと小林さんだった。素粒子の世界は、大きくクォークとレプトンという2つのカテゴリーに分けられ、それぞれに12種類あり、合計24種類の素粒子から構成されていることを突き止められたのである。

 

クォークは、陽子や中性子や中間子などの重たい粒子をつくっている素粒子で、アップ(u)、ダウン(d)、ストレンジ(s)、チャーム(c)、ボトム(b)、トップ(t)の6種類があり、それぞれに反粒子があるから合計で12種類。クォークどうしのあいだで働く力は強い相互作用と呼ばれている。

 

レプトンは、強い相互作用をしない軽い粒子の総称で、電子(e)、ミューオン(μ)、タウオン(τ)、電子ニュートリノ(νe)、ミューニュートリノ(νμ)、タウニュートリノ(ντ)の6種類があり、それぞれに反粒子があるから合計で12種類。

 

しかし、ここまで来ると、やはり、人間の欲は際限がなく、今度は素粒子がどういう構造をしているのか、もっと小さな粒子から構成されているのではないか、と考え始める。このように考察を進めていくと、行きつく先には、どんな世界が待っているのだろうか? 結局、陰陽から太極へと収斂してしまうのだろうか? 気が充満しているのだろろか? 神がいて、光あれと言っているのだろうか? それとも言葉が神とともにあるのだろうか? う~む、窮極のロマンの世界である。

古事記には天照大御神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に八尺の勾(やさかのまがたま)と鏡と草薙の剣を神代として授けたと記されている。現在では、鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に神体として奉斎され、勾玉は皇居の御所に安置されている。勾玉は、古くは祭祀で使用されたようだが、庶民の装飾具でもあったようである。

 

2012年7月5日、私は宍道湖のほとりにある玉造温泉に泊まった。出雲風土記には、

 

川の辺に出湯あり・・・一たび濯(すす)げばすなわち形容(かたち)端正(きらきら)しく、再び沐(ゆあみ)すればすなはち万(よろづ)の病(やまひ)除(い)ゆ。古(いにしへ)より今に至るまで、験(しるし)を得ずといふことなし。故(か)れ、俗人(くにひと)神の湯と白(い)ふ。

 

と、ある。この神の湯が玉造温泉である。昔は、近くの山でメノウが採掘されていて、そのメノウで天皇に献上する勾玉を作っており、それが「玉造」という名の由来だという。

 

私も、そのメノウで作られた勾玉が欲しくなり、旅館の売店で尋ねたところ、「今はメノウは採れなくなっているので勾玉は造られておりません。売られているのは台湾産のメノウで造られたものがほとんどですよ」とのつれない返事であった。

 

翌日、私は出雲大社に詣でた。その門前の土産物売り場で、売り子さんが「これは当地産のメノウの勾玉で、緑の濃い方がパワーがありますよ」と、小ぶりの美しい勾玉を選んでくれた。私は、産地が出雲であれ台湾であれメノウには違いないだろうと思い、つい買ってしまった。

 

わが家には、50年ほど前に父の会社の人がくれた浪人の護身用の木刀があり、また30年ほど前に出張先のイスラマバードで購入したアラベスク模様の手鏡があるので、これで三種の神器が全て出揃ったことになった。

 

ところで、玉造温泉の中を流れる川沿いを歩いていると、ところどころに鋳鉄製の像を見かけた。「せんとくん」で有名な彫刻家、藪内佐斗司さんが手掛けたものだそうである。ヤマタノオロチや因幡の白兎などの神話を題材としたオブジェで、街並みが青空美術館と化していた。

 

【閑話休題】

お賽銭の額をいくらにするかは庶民の悩むところである。私の母は、四国の88カ所や高野山にお参りに行く前になると、買い物のお釣りの中の1円玉を貯金箱に集め、集まった1円玉を持って参詣して、お賽銭にしていた。このように何百ヶ所という場所を回る場合はお賽銭もバカにならないのである。

 

私が訪れた出雲大社では団体客を前に中年の女性ガイドがこう説明していた。

 

ガイド:拝殿にお賽銭を上げてから、二礼四拍手一礼でお参りしてください

客A:お賽銭は10円でいいじゃろか

ガイド:10円はトオエンといいますので、あまりお勧めできません

客B:じゃご縁があるように、5円にするっぺ

ガイド:お賽銭は多いほどご利益があるようです

客C:じゃ、100円でいいかな

ガイド:神様は多ければ多いほど喜ばれます

一同(笑い)

 

私は、7月10日、それまで鍼灸院を開業していた宇治の地を離れ、関が原を越え、名古屋に転居した。それまでの鍼灸修業の履歴を記すと、以下のとおり。

 

2005年04月から3年間 京都仏眼鍼灸理療専門学校に学ぶ

2006年01月から2年間 六合会診療所でアルバイト

2007年04月から半年間 wkey長野式研究会に参加

2008年04月から3年間 石井内科医院でアルバイト

2008年04月から2年間 大阪医科大学麻酔科鍼灸部に勤務

2010年04月から2年間 平成経絡治療臨床研修会(上野塾)に参加

2010年10月から1年半 一橋アシラム(寺子屋お産塾)で修業

2011年12月から半年間 イシクラ鍼灸院で修業

 

以上の他に、臨床鍼灸懇話会、北辰会、良導絡、東洋はり医学会等の研修会、西条一止先生、岡田明三先生などの実演会にも参加した。また、中京区の杉山先生、右京区の斎藤先生、左京区の江田先生、四日市の張先生、寝屋川市の池田先生などの鍼灸院を見学したこともある。

 

宇治で過ごした7年間に鍼灸学校の教科書以外に読了した書籍は以下のとおり。

 

・素問

・霊枢

・難経

・鍼灸聚英

・名家灸選

・鍼道秘訣集

・鍼灸重宝記

・産論

 

以上の古典の他、澤田流、長野式、トリガーポイント、経絡治療、入江式FTなど多数の臨床書、解説書も読破した。望聞問切の四診、特に脈診、さらに証の決定、補瀉の選択、予後の判断と、鍼灸の妙技へ至る道はなかなか大変な茨の道であるのだ。

 

名古屋市の東区に大きな美術館があり、そこの葵の門を入ると大きな銀杏の木があり、その右側の森の中の二階建ての鉄筋の屋敷がある。そこが私の新居となった。

 

敷地内には多くの美術品を所蔵する蔵があり、その周りをさまざまな庭木が囲み、茶室二軒に芝生の庭と枯山水の庭がある。午前中は蔵や庭木や茶室のメンテナンスに追われ、ひと汗かいた午後には私の「気の研究」や翻訳作業にゆっくりと時間を割くことができた。

 

茶室では月に数回茶会や聞香が催される。そういうときは数日前から準備が始まる。雨戸の開閉、害虫駆除、屋根や雨樋、つくばいの清掃、樹木の剪定、植栽への散水、枯山水の庭の整備など。当日になると炭興し、お湯沸し、お花の準備などで大忙しであった。

 

葵の門を出て自転車で行くと、ナゴヤドームまで7分、名古屋城まで12分、そして矢田川沿いにある別邸(娘の棲み家)までが15分と、比較的便利な環境にあった。朝は鳥のさえずりで目覚め、昼は庭の森の木漏れ日の下で読書し、夜は障子に映る月影を肴に少々のお酒を口にしてから床に就いていた。

 

侘び住いではあったが、無一物中の無尽蔵であったのである。私は、そこで7年間管理人として働き、その後、再び鍼灸の道に入った。

2011年4月15日、生涯21回目となる引越しをした。宇治市の同じグリーンタウン槇島の団地内で、208棟404号から2棟102号へ越した。「お灸とハリの洋漢堂」を訪ねて来られる患者さんで、4階まで上がるのはつらい、1階であれば来られる人もいらっしゃるだろう、との忖度を働かし、挙行した次第である。

 

当時、いまだ遅々として進まぬ新居の整理で、リビングに一人、うずたかく積まれたダンボール箱の中でキーボードを叩いていた。ざっと、我が家の蔵書の数を勘定してみたところ、文庫本約2000冊、新書本約500冊、単行本約1500冊。どう整理しようかと、気の遠くなるような数であった。

 

やっと、診療室とリビングの整理が終わり、蔵書も本棚に収まった。収まりきれない本も多数あって、それらは押入れの中のダンボール箱20箱にしまっいこんだ。

 

今、一息ついたところで、リビングでベートヴェンのレコードを聴いた。このレコードは、1970年の大阪万博に友とふたりで訪れて、ドイツ館にて500円で購入したものである。その中の、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」が、とくに気に入っている。

 

本棚の整理をしながら、この本読んだっけ、というような本があり、それを取り出して拾い読みをすると、たいてい、ちゃんと本の最後のページに読了の日付が記入されている。その日の朝、取り出してみた柳宗悦(やなぎむねよし)の「南無阿弥陀仏」もそのひとつで、本の最後に赤ペンで「2002 4/25」と記入されている。なんだ、最近読んだじゃないかと、なる。40年の前のことは鮮明に覚えているのに、ここ10年のことは誠に覚束ない訳である。 

 

この本の付録に「心偈(こころうた)」が掲載されている。庶民の日常生活品である「下手もの」の中に美しさを発見し、それを民芸と呼び、広く世に知らしめた柳であるが、その晩年に、自身の長い心の遍歴(宗教的真理への思索)の覚え書として、短い詩の形で記したものだそうで、全部で69句ある。「凡てに東洋的色彩が濃いのは東洋の心を輝かすことこそ、我々の悦ばしい任務だ」と言い切っている。

 

1、今日もあり なほけなくも

2、御仏いづち 汝れは いづこ

3、都いづち 問ひの さ中

4、指すや都 見しや茲を

5、指すや 西を どことて 西なる

6、開かれつるに 叩くとは

7、追ふや 仏を 追はれつるに

8、想へ誰ぞ 御仏の まらうどと

9、見初むとな 弥陀 この吾れを

10、弥陀も 六字の 捨草や

11、とまれ 六字

12、嬉し 悲しの 六字かな

13、六字六字の 捨場かな

14、六字とな 無字なるに

15、どことて 御手の 真中なる

16、真向けよと 云ひ給ふ

17、南無阿弥陀仏 いとしづか

18、聖云ひつる 捨てよと

19、便りあり 仏いと忙しと

20、仏とな 名なきものの 御名なるに

21、沙門法蔵 捨て身なる

22、あなふしぎ 御仏 吾がよはひ

23、持つや ひねもす おろがむ幸を

24、一ふくめせ 茶衣 めさで

25、一ふく いかが 茶も忘れて

26、茶にてあれ 茶にてなかれ

27、茶のみ 茶かは

28、茶も道 棄つる道

29、点つや茶を 様なき様に

30、さばくや心 袱紗さばきつ

31、如何なるか 是れ茶 陀羅尼

32、今より なきに

33、な 云ひそ 明日と

34、捨て身なれ 悔いじ よも

35、幸いとど むくい 待たねば

36、文えがけ 文なきまでに

37、文ありて 文なき 之なん文

38、何をか払ふ 払ふが塵 払わぬが塵

39、急げど 水は 流れじ 月は

40、月は映りき 水を染めで

41、魚は游げど 水に跡なき

42、今 見よ いつ 見るも

43、見て 知りそ 知りて な見そ

44、な たじろぎそ 一人 ひとりかは

45、などてゆたけし 貧しさ なくば

46、到り得ば 事もなし

47、糸の道 法の道

48、色そめつ 心そめつ

49、行きなん 行くへ知らでも

50、打てや もろ手を

51、母よとな 声を待たじな 汝が母は

52、歩きなん 大道を

53、扉あり 入るや 出づるや

54、今日空 晴れぬ

55、古し泉は 新し 水は

56、泉たばしる とはに 新に

57、冬なくば 春なきに

58、冬 きびし 春を含みて

59、かをるや 梅け香 雪を えにして

60、雪 いとど深し 花 いよよ近し

61、蕗のとう ほほえむ 雪にもめげで

62、吉野山 ころびても亦 花の中

63、秋さぶ 夏を経て

64、月一つ 水面に宿り 百千月

65、春 花にえみ 夏 日をあほぎ 秋 月にすみ 冬 雪とやすむ

66、松 根強し 竹 幹直し 陰清し 梅 香りみつ 雪ふるも

67、花 見事に咲きぬ 誇りもせで やがて うつろひぬ つぶやきもせで

68、見るや君 問ひも 答へも 絶ゆる世の 輝きを

69、之も亦 之も さんげの 仕事かな

 

ところで、「旅の人」として寂聴さんが挙げている人物の中に、西行、一遍、芭蕉などに混じって、後深草院二条なる人物があった。「とはずがたり」の著者である。後深草院に仕えながら、院のほかにも様々な男性と関係をもち、数人の子どもを授かるも、31歳で出家し、32歳から15年間、全国を修行、行脚した女性だ。その自然人としての気質は、西行法師を凌ぐとさえ言われている。

 

ダンボールの箱からこの本を取り出してつまみ読みをしていたら、その朝届いた京都新聞に金大中氏の記事が出ているのが目に止まった。韓国の情報機関によって日本で拉致され、殺されかかったり、軍法会議で死刑宣告を受けたり、4度大統領に挑戦して4度目で当選するなど、暗と明が交錯し、生前は毀誉褒貶も絶えなかった人物であるが、こうして氏の生涯を振り返ると、女性の後深草院二条の生涯とは異質ではあるものの、苦難の道を強靭な自然体で生き抜いたところは、「旅の人」という範疇に入れてもよろしいのではと、思ったことだ。

 

扨、

往療で治療をするようになってから、車中でラジオをよく聴くようになっていた。ラジオではテレビやインターネットと違った種類の情報も入る。とある日、某放送局のインタビュー番組で、出席されている芸能人たちに「我が師」を語ってもらっていた。さすがに、芸能人たちの師であるから、それぞれにすごい生き様の師である。

 

「古くて新しい人間はいいけど、新しくて古いやつはダメだよ」、「やたらに褒める人は避けたがいいよ」、「若い才能は褒めて育てなさい」など、さりげない一言をくれる師、いついかなるときでも歓迎して飲ましてくれる師、博覧強記で、あらゆる難問に答えてくれる師、一芸に専心し、他事には一切関与せぬ頑固一徹の師など、さすがである。

 

振り返って、私の「我が師」を思い浮かべると、絵心を植えつけてくださった小学校のH先生を皮切りに、大江健三郎をこよなく愛されていた高校のN先生、予備校で数学と英語のロマンを伝授してくださったN先生とH先生、自説に対する信念の尊さを教えてくださった大学院のK先生、それに現在師事している経絡治療家のU先生と不妊治療家のT先生など、先の芸能人たちの師に負けずと劣らぬ異能の人たちだ。

 

ところで、私自身だが、人生訓は語れず、宵越しの金をもたぬ程のきっぷのよさもなく、蔵書だけが多く記憶力には乏しく(博覧弱記?)、いかなる質問にもうまく答えられず、多芸に浮遊し、鍼灸道では日々模索を続け、煩悩の海をさまよい、山中を歩き回るだけである。私を「我が師」と仰ぐ弟子がひとりもいないのも、がえんずる所であった。

 

2021年11月、私は、名古屋市から福岡市に引っ越してきたわけだが、私の生まれてからの引越し歴は以下の通り。

 

0回 1954年2月(0歳) 熊本県鏡町 ←畳の上で産婆さんによる出産

1回 1956年(2歳) 熊本県有佐町 ←隣の映画館の火事により焼き出される

2回 1961年4月(7歳) 熊本県人吉市 ←親の転勤

3回 1962年1月(8歳) 熊本県八代市八幡町 ←親の転勤

4回 1966年4月(12歳) 熊本県熊本市健軍町茨木寮 ←中学入学

5回 1969年4月(15歳) 熊本県熊本市健軍町小崎寮 ←高校入学

6回 1971年4月(17歳) 熊本県熊本市健軍町守屋宅 ←寮を追い出されて下宿

7回 1972年4月(18歳) 京都府京都市左京区島貫宅 ←浪人

8回 1973年4月(19歳) 京都府京都市北区木村宅 ←大学入学

9回 1976年4月(22歳) 京都府京都市左京区三船宅 ←学部の近くに引越し

10回 1979年4月(25歳) 熊本県八代市築添町 ←大学院入学

11回 1979年8月(25歳) 熊本県熊本市黒髪町学生下宿←大学院の近くに引越し

12回 1981年4月(27歳) 福岡県福岡市中央区黒門の某マンション ←就職

13回 1981年8月(27歳) 福岡県福岡市城南区茶山の暁マンション ←妹同居

14回 1982年10月(28歳) 福岡県福岡市城南区友泉亭の福島宅 ←結婚

15回 1985年3月(31歳) 福岡県福岡市南区の桧原団地 ←第二子出産後

16回 1989年10月(35歳) 千葉県千葉市検見川のサニーホームズ ←転勤

17回 1991年(37歳) 千葉県我孫子市新木の一軒家 ←家庭菜園をしたい

18回 1992年(38歳) 千葉県千葉市稲毛の高洲団地 ←一軒家の塀が壊れた

19回 1996年(42歳) 千葉県習志野市の大久保団地 ←広い部屋を求めて

20回 1999年4月(45歳) 福岡県福岡市のダイヤパレレス輝国 ←転勤

21回 2005年4月(51歳) 京都府宇治市のグリーンタウン槇島4階 ←専門学校入学

22回 2011年4月(57歳) 京都府宇治市のグリーンタウン槇島1階 ←開業

23回 2012年7月(58歳) 愛知県名古屋市東区徳川町の社宅 ←転職

24回 2019年4月(65歳) 愛知県名古屋市東区砂田橋の大幸東団地6階 ←転職

25回 2021年11月(67歳) 福岡県福岡市中央区六本松1丁目 ←妻の実家で開業

 

よくよく数えると、25回目の引越しであった。ずいぶん多いと思うが、葛飾北斎は生涯93回引越したそうだから、上には上がいる。