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みんな別室に戻った。団交の行われている大会議室から階段を下りてそのまま進んだ一番奥の部屋が組合の控室であった。中執7名と各地本委員長6名の計13名である。部屋に入ってすぐ右手に電話がある。何か進展があると経営側の事務方からこの電話に連絡がある。今、団交が決裂したばかりだから、しばらく連絡はないはずだ。
組合の要求と経営側の思惑にはまだ大きな隔たりがある。しかし、もう夜の8時である。スト通告をしている零時まで4時間しか残っていない。スト解除の連絡を末端の組合員まで伝えるには2時間くらいの時間は欲しい。あと2時間で妥結できなかったらストライキに入らざるを得ない。ストに突入したら、いくつか放送事故が起こるだろう。道路や船舶向けの情報提供をストップさせたら、ユーザーのいくつかは契約を解消するだろう。今どき、組合のストに同情を寄せるようなおめでたい企業はない。しかし、今のままの回答では組合員は納得しない。まだ彼らの要求の十分の一にも達していない。
今年の春闘は例年にも増して厳しい闘いになることは覚悟していた。一昨年に始まった資格試験と並行して実施された当該事業の規制緩和で、多くの民間会社が誕生した。それまで、男の会社が独占していた当該事業が過酷な競争時代に突入したのだ。そのため、男の会社でも取引先の大半が随契から競争入札になった。当然契約額が落ちた。それだけではない。入札で落札できないものも多く出た。放送局向け番組も去年2局が他社に移った。今年はもっと多くの放送局が危なくなっている。全国展開している道路関連業務も、今年、一地方で試験的に他社に業務託された。来年以降どうなるか分かったものではない。去年の事業成績が前年の1割減程度ですんだのはいい方なのかもしれない。経費節減の努力の結果、去年もどうにか赤字を免れた。しかし、去年以上に厳しい今年は、何か抜本的な手を打たない限り黒字など到底望めない。組合の純ベア1・0、賞与5カ月の控えめな要求に対して、経営側がベアゼロ、賞与3カ月を回答してきたのももっともだと思われる。
これまでの交渉で、ベアゼロは変わらなかったが、賞与を3・25カ月まで上積みできた。しかし、これが経営側の限界という。一応、各地本に現回答で妥結するかどうか打診したが、全地本から「ノー」の返答。「言語道断」、「これでは家族が路頭に迷う」、「経営ビジョンを示せ」、「経営陣の退陣を」、「スト決行するぞ」など、怒りの声がほとんどだ。各地本の組合事務所で待機している一人一人の組合員の怒った顔が脳裏をよぎる。この回答のままではスト突入は必至だ。しかし、中執の経営分析担当者の冷静な分析によると、経営側の出している今の回答内容でも経営破たんの可能性が高いという。賞与ゼロとしてもベアが今のままでは今年の赤字は間違いないし、2、3年後には確実に退職給与引当金が底をつく。これは、経営陣の無策を前提とした分析だが、今の厳しい当業界の現状を考えると、そうそうに良策が打てるとは思われない。
2
委員長が口火を切った。
「みんなの率直な意見を聞きたい。経営側の答弁からは、これ以上の上積みは非常に厳しい。私としてはストライキは何としても避けたい。現回答で組合員に納得してもらいたいと思うが、どうだろう」
一瞬、みんなあっけにとられた。今まで、ストの影響を心配する組合員に対し、「こんな低額回答ではとうてい妥結できない」と言い、組合員を鼓舞し、先頭を突っ走ってきた委員長が初めて弱腰の発言をしたからだ。最古参の副委員長が続いた。
「今の委員長の発言は意外だが、私もこれ以上の回答はないと思う。今回ストに突入しても、その後の妥協点が見出しにくい。ここは、各地本の委員長にがんばってもらって組合員を説得してもらえないか」
しばらく沈黙が続いた。地本の各委員長は困惑していた。スト突入は避けられないと踏んでいたからである。まず、東京地本委員長が口を開いた。
「東京地本では、最初からストには反対する意見が多かったから、どうにか説得できると思うよ」
みんな大阪地本委員長の方を振り向いた。大阪地本がスト回避に踏み切れば過半数以上の組合員の支持がえられることになり、ストが避けられるからだ。大阪地本委員長が発言した。
「ちょっと待ってくれへんかな。今まで、ストするぞ、ストするぞ、と煽ってきたのに、急に方針変更するのは難しんちゃうかな。ううん、少し時間を呉れへん」と言って、携帯をもって部屋の外に出た。
すると、名古屋地本の委員長が発言した。
「うちの地本の説得は無理だ。回答が低いならば、その代りに経営陣の首が要る。しかし、それも無理だろう。うちの地本は反対させてくれないかなあ。うちが反対しても多数決には影響ないだろうし」
東北地本は紅一点の委員長である。彼女が発言した。
「私たちの地本ではほとんどの組合員が中執の方たちを信頼しています。中執の方がストを回避したいと言えば、それに従うと思います」
そのときだ。バチンと箸の折れる音がした。夕食の弁当に付いていた割り箸が折れた音だ。箸を折ったのは3番目に多い組合員を擁する北海道地本の委員長だった。
「おかしいじゃないですか。つい数時間前まで、要求貫徹、満額回答と言い続けていて、急に白旗あげるのは納得できません。私は、地本の事務所で待っている組合員に説明できません。正々堂々と闘いましょうよ。要求で一致するのが組合ですよね。この要求を捨てたら組合の団結なんてなくなります。自分らで決めた要求は貫き通しましょうよ」
再び沈黙が続いた。男は弱った。先の団交の前に委員長と副委員長と書記長である自分の3人で話しあったときには、スト回避のことなど二人ともおくびにも出さなかった。そのため男はスト突入後のシナリオを考えることで頭がいっぱいだったのだ。ところが、委員長と副委員長の二人は、今の企業内組合という状況では限界がある、と痛感しているのだ。ストを打って会社がつぶれたらどうしようもない。組合員はそれこそ路頭に迷う。男は、二人の判断は間違っていないと思った。しかし、あまりに突然の方向転換である。自分も驚いたし、地本の委員長もびっくりしている。ましてや末端の組合員は何が何だかわからないだろう。男が、沈黙を破って発言した。
「ストを回避したいのは委員長だけでなく組合員みんなが心の底では思っていることかもしれません。しかし、今、突然スト回避を組合員に図っても混乱を招くだけだと思います。残された時間は少ないかもしれませんが、ぎりぎりのところまで我々の要求を主張すべきじゃないでしょうか」
北海道地本に続く男の発言で流れが変わった。みんながスト回避に向けて準備を始めていた矢先にこの発言である。すかさず、一番規模の小さい九州地本の委員長が賛成した。
「私も、今の書記長の意見に賛成です。みんな、もうひと踏ん張り頑張ろうよ」
このとき、大阪地本の委員長が部屋に戻ってきた。ニッと笑って、大きく両手で丸のサインを出した。
「うちは大丈夫や。うちの副委員長がスト回避でまとめるって約束してくれはったわ」
何人かが苦笑した。大阪地本の委員長も部屋の雰囲気が先ほどと違うのを察して黙った。そのとき入口の電話が鳴った。男が出た。事務方からの連絡で、話がしたいという。時計を見るともうすぐ10時だ。これが最後の事務折衝になるだろう。中執の副委員長と書記長、それに大阪と北海道の地本委員長の4名が事務折衝を行うために部屋を出た。
3
事務折衝の行われる部屋は大会議室の階段を下りたすぐ左の小さな応接室である。4人が入ると、すでに事務方の総務部長と人事課長は着席していた。二人とも表情は暗かった。4人が着席すると、人事課長が総務部長の顔を見ながら組合に向かって話しだした。
「理事の方々、時間をかけて真剣に検討されました。一人の理事は少し上積みをしてもいいのではと発言されましたが、やはり理事会としてはこれ以上の上積みは危険だと判断されました。私たちも、何らかのお土産を出さないと組合は納得しないとお話したのですが・・・」
すかさず副委員長が言った。
「それじゃ、ストを打っても構わないということですか。今ストを打たれては会社はめちゃくちゃになりますよ。それでもいいのですか」
「もちろんストは絶対だめです。そんな事態になったらもう終わりです。何とか、みなさんで組合員の方々を説得してもらえませんか」
「この低額回答は理事さんたちの経営が悪かったからでしょう。その責任を棚上げにするのですか」
「理事の中の一人は春闘が終わったら辞職されると聞いています」
「それは誰だ」
「それは答えられません。ここだけの話ですから。組合員の方にもオフレコにしてください」
「上積みはない、経営責任はとらない、これじゃ、組合員にどう納得してもらうのですか」
しばらくやり取りが続いた。そして、男が言った。
「もう時間がありません。再度検討願います。私たちは会社の状況も十分把握しています。組合員を納得させるために一律10万円程度の賞与の上積みでもいいですから・・・」
このとき、総務部長が初めて口を挟んだ。
「一律10万円で組合員をまとめてくれるのですね」
男は、しまったと思った。北海道地本の委員長は憮然としていた。副委員長が言った。「まとめますよ、1万でも2万でもいいんだ。組合員を納得させるには上積みが必要なんだ」
男は、副委員長の発言を無視するかのように、
「早急にご検討願います」
と言って、さっと席を立った。他の3人も続き、部屋を出た。
組合の控室に戻って、男は事務折衝の内容を報告した。報告が終わらないうちに入口の電話が鳴った。人事課長からだ。賞与一律プラス10万円で理事の方には納得していただいたから、すぐに団交を再開してもらえないか、との連絡である。男は部屋のみんなに伝えた。みんなうなずいた。異論はないようだ。男は言った。
「もう時間がないので、各地本にはスト回避の準備をするよう連絡してください。全地本への連絡が終わり次第大会議室へ行きます」
各地本の委員長は、それぞれの携帯電話に手を伸ばした。