正治二年、西暦一二〇〇年の正月である。男は如意ケ嶽頂上に立っていた。標高四六五メートル。京の都が一望できる。
西暦一二〇〇年といえば、世の中が大きく変貌を遂げた時期である。武士同士の争いを納めて鎌倉幕府を開いた源頼朝は1年前に死んだ。しかし、跡を継いだ頼家は執権の北条氏の評判がよろしくない。何か不穏な動きがある。京の方でも、佞姦の後白河院が亡くなったのち、今は二十一歳となった後鳥羽上皇が帝の世を復興しようと権力を徐々に集中していた。
芸能の方では、和歌や大和絵など独自の日本文化が最盛期を迎えたものの、形式主義やマンネリリズムに陥っていた。詩歌では連歌などの新しい形式が模索され始めており、仏像の方では京のおおらかで瞑想的な定朝様式から奈良の康慶、運慶親子を中心としたリアリズムの力強い様式が主流となってきていた。
宗教の方では、奈良や比叡山による貴族中心の仏教からの脱皮が進み、空也や教信たちの出現によって一般大衆の間にも信仰熱が高まってきていた。九年前に宋から帰国した栄西が臨済宗を伝え、五年前に博多に日本最初の禅道場である聖福寺を建立した。また、京の吉水に庵を構え口称念仏を唱える法然のもとには、都はもちろん、地方からも、比叡山や奈良からも、多くの僧や俗衆が集まってきていた。親鸞はまだ比叡山の横川で修行中だが、その修行に疑念をもち、そろそろ山を下りようかと考えているところだ。
目を海外に向けると、近く朝鮮半島では新羅を滅ぼした高麗の支配が三百年近く続いている。中国では唐のあと統一を果たした宋だが、七十年前に北方の金に攻められ、都を杭州に移していた。金の北方モンゴルでは三十九歳のチンギス・カンがモンゴル帝国の樹立を目前にしていた。ヨーロッパでは、キリスト教徒によるエルサレム奪還のための十字軍が三回の遠征を終え、ローマ教皇の呼びかけで四回目の遠征の準備をしている。さらに遠くイギリスでは、三十三年前にオックスフォード大学が創立され、ケンブリッジでも大学創設の動きがあった。
ヨーロッパはキリスト教が浸透し封建制社会が確立して久しい。そのため文化が停滞し、いわゆる「中世」のまっただ中にあった。イタリアでルネサンス文化が起こり、ドイツやイギリスで宗教革命が起こり、スペインやポルトガルが新世界目指して大航海をするまでにはまだまだ三百年ほどある。この物語は、このような時代の京の都の話である。
*
男は山を下りて、紫雲山頂法寺の近くの町屋になっている自宅に帰ってきた。家は二階建てで、一階では薬草やお茶を売っていた。二階が男の仕事場である。六畳と三畳の板の間があり、六畳間に畳一枚を敷き、そこで患者に横になってもらいお灸の治療をしている。男は名を玄斉といい、若いころ亀岡の医家丹波氏のところで修行し、二十歳で独立した。二十八歳の今、京でも最も人気のあるお灸所となっている。施術は午前中のみで、午後は裏庭の薬園の手入れや漢籍の書写などにあてていた。
京の冬は寒さが厳しい。今朝も盥に井戸水を汲み、顔を洗って、手拭いで拭くと、その湿った手拭いが、バチバチと音を立ててあっという間に凍った。底冷えのする寒さである。山から下りるころに、如意ケ嶽の方から朝日が差してきた。正月の空気はすがすがしい。玄斉はおせちを食べてから、近所のあいさつ回りに出かけた。
夕方、あいさつ回りから帰ると、大変なことになっていた。御所の近くの久我家のお屋敷に住む内大臣通親様の奥様がにわかに産気付かれたのだが、なかなか生まれず、産婆もお手上げ状態だという。使いの者が来て、玄斉のお灸でお産を早めてもらえないかと請うた。
実は、玄斉、ひと月ほど前に久我家を訪問し、奥様のお産が順調に行くよう、両脚の三陰交というツボに七壮ずつお灸をすえていた。そのとき、お腹の様子を手掌で窺ったのだが、違和感を覚えた。念のため、耳を近づけて胎児の様子を探ると、心臓の鼓動の聞こえて来る位置が正常でない。玄斉は逆子ではないかとの疑いをもった。しかし、そのことは奥様には告げず、もぐさを入れた腰巻を渡し、これを常時着用し、くれぐれもお腹を冷やさぬようにと申し上げ、退席したのである。妊娠七カ月頃までであれば、足の小指の爪の外側にある至陰というツボにお灸をすえることで、大半は正常位に戻る。奥様の場合はもう臨月に近かったのでお灸では無理だった。
久我家に駆けつけると、産婆が弱り切っていた。やはり逆子なのだ。逆子の場合、取り出せる確率は半分ほどしかない。取り出せても、その後母子ともに死んでしまうことが多い。玄斉は出産を誘導するために奥様の両足の至陰と三陰交に三壮ずつお灸をすえた。が、胎児は真夜中を過ぎても生まれて来なかった。
逆子の場合、子宮の中を探って、腕が曲がっていて肘が見えている場合は手でそれを押し戻し、産婦の枕を高くして股を開かせ仰臥位にしたのち、左手を子宮に入れ、露出している手指か肘頭を揉みほぐし、右手を産婦の左下腹に置いて、児をつかんで力を入れて押し上げ、正しい位置に戻してあげれば、児は生きたまま出産できることもある。が、久我家の奥様の場合は、うまくいかなかった。玄斉は途方に暮れた。
ああ、あれしかない。玄斉は覚悟した。最近手に入れた宋の医学書で見たことのある鈎型の鉄具による取り出し法を試みたらどうかと考えた。さっそく家に帰り、囲炉裏のそばに置いていた先の曲がった鉄の棒をもって久我家に戻った。
久我家の奥様の出産は難産であったが、玄斉の工夫により、二日の未明に無事元気な男児が取り出された。母親の方は相当衰弱していて、ひと月ほど床の中から出ることができなかったが、その後回復した。この元気な赤子は十四歳のときに比叡山で剃髪し、のちに曹洞宗の道場を開くことになるあの道元禅師である。
*
玄斉は後年、この道元禅師とともに渡宋することになる。二人の目的は異なったが、お互い満足のいく収穫を得て帰国した。さらに、どういう縁か、道元禅師の最期をみとったのもこの玄斉という灸師であった。しかし、この話はもっと後のことである。きょうのところはここまで。