正治二年、西暦一二〇〇年の正月である。男は如意ケ嶽頂上に立っていた。標高四六五メートル。京の都が一望できる。

西暦一二〇〇年といえば、世の中が大きく変貌を遂げた時期である。武士同士の争いを納めて鎌倉幕府を開いた源頼朝は1年前に死んだ。しかし、跡を継いだ頼家は執権の北条氏の評判がよろしくない。何か不穏な動きがある。京の方でも、佞姦の後白河院が亡くなったのち、今は二十一歳となった後鳥羽上皇が帝の世を復興しようと権力を徐々に集中していた。

芸能の方では、和歌や大和絵など独自の日本文化が最盛期を迎えたものの、形式主義やマンネリリズムに陥っていた。詩歌では連歌などの新しい形式が模索され始めており、仏像の方では京のおおらかで瞑想的な定朝様式から奈良の康慶、運慶親子を中心としたリアリズムの力強い様式が主流となってきていた。

宗教の方では、奈良や比叡山による貴族中心の仏教からの脱皮が進み、空也や教信たちの出現によって一般大衆の間にも信仰熱が高まってきていた。九年前に宋から帰国した栄西が臨済宗を伝え、五年前に博多に日本最初の禅道場である聖福寺を建立した。また、京の吉水に庵を構え口称念仏を唱える法然のもとには、都はもちろん、地方からも、比叡山や奈良からも、多くの僧や俗衆が集まってきていた。親鸞はまだ比叡山の横川で修行中だが、その修行に疑念をもち、そろそろ山を下りようかと考えているところだ。

目を海外に向けると、近く朝鮮半島では新羅を滅ぼした高麗の支配が三百年近く続いている。中国では唐のあと統一を果たした宋だが、七十年前に北方の金に攻められ、都を杭州に移していた。金の北方モンゴルでは三十九歳のチンギス・カンがモンゴル帝国の樹立を目前にしていた。ヨーロッパでは、キリスト教徒によるエルサレム奪還のための十字軍が三回の遠征を終え、ローマ教皇の呼びかけで四回目の遠征の準備をしている。さらに遠くイギリスでは、三十三年前にオックスフォード大学が創立され、ケンブリッジでも大学創設の動きがあった。

 ヨーロッパはキリスト教が浸透し封建制社会が確立して久しい。そのため文化が停滞し、いわゆる「中世」のまっただ中にあった。イタリアでルネサンス文化が起こり、ドイツやイギリスで宗教革命が起こり、スペインやポルトガルが新世界目指して大航海をするまでにはまだまだ三百年ほどある。この物語は、このような時代の京の都の話である。

             *

男は山を下りて、紫雲山頂法寺の近くの町屋になっている自宅に帰ってきた。家は二階建てで、一階では薬草やお茶を売っていた。二階が男の仕事場である。六畳と三畳の板の間があり、六畳間に畳一枚を敷き、そこで患者に横になってもらいお灸の治療をしている。男は名を玄斉といい、若いころ亀岡の医家丹波氏のところで修行し、二十歳で独立した。二十八歳の今、京でも最も人気のあるお灸所となっている。施術は午前中のみで、午後は裏庭の薬園の手入れや漢籍の書写などにあてていた。

 京の冬は寒さが厳しい。今朝も盥に井戸水を汲み、顔を洗って、手拭いで拭くと、その湿った手拭いが、バチバチと音を立ててあっという間に凍った。底冷えのする寒さである。山から下りるころに、如意ケ嶽の方から朝日が差してきた。正月の空気はすがすがしい。玄斉はおせちを食べてから、近所のあいさつ回りに出かけた。

 夕方、あいさつ回りから帰ると、大変なことになっていた。御所の近くの久我家のお屋敷に住む内大臣通親様の奥様がにわかに産気付かれたのだが、なかなか生まれず、産婆もお手上げ状態だという。使いの者が来て、玄斉のお灸でお産を早めてもらえないかと請うた。

 実は、玄斉、ひと月ほど前に久我家を訪問し、奥様のお産が順調に行くよう、両脚の三陰交というツボに七壮ずつお灸をすえていた。そのとき、お腹の様子を手掌で窺ったのだが、違和感を覚えた。念のため、耳を近づけて胎児の様子を探ると、心臓の鼓動の聞こえて来る位置が正常でない。玄斉は逆子ではないかとの疑いをもった。しかし、そのことは奥様には告げず、もぐさを入れた腰巻を渡し、これを常時着用し、くれぐれもお腹を冷やさぬようにと申し上げ、退席したのである。妊娠七カ月頃までであれば、足の小指の爪の外側にある至陰というツボにお灸をすえることで、大半は正常位に戻る。奥様の場合はもう臨月に近かったのでお灸では無理だった。

 久我家に駆けつけると、産婆が弱り切っていた。やはり逆子なのだ。逆子の場合、取り出せる確率は半分ほどしかない。取り出せても、その後母子ともに死んでしまうことが多い。玄斉は出産を誘導するために奥様の両足の至陰と三陰交に三壮ずつお灸をすえた。が、胎児は真夜中を過ぎても生まれて来なかった。

 逆子の場合、子宮の中を探って、腕が曲がっていて肘が見えている場合は手でそれを押し戻し、産婦の枕を高くして股を開かせ仰臥位にしたのち、左手を子宮に入れ、露出している手指か肘頭を揉みほぐし、右手を産婦の左下腹に置いて、児をつかんで力を入れて押し上げ、正しい位置に戻してあげれば、児は生きたまま出産できることもある。が、久我家の奥様の場合は、うまくいかなかった。玄斉は途方に暮れた。

 ああ、あれしかない。玄斉は覚悟した。最近手に入れた宋の医学書で見たことのある鈎型の鉄具による取り出し法を試みたらどうかと考えた。さっそく家に帰り、囲炉裏のそばに置いていた先の曲がった鉄の棒をもって久我家に戻った。

 久我家の奥様の出産は難産であったが、玄斉の工夫により、二日の未明に無事元気な男児が取り出された。母親の方は相当衰弱していて、ひと月ほど床の中から出ることができなかったが、その後回復した。この元気な赤子は十四歳のときに比叡山で剃髪し、のちに曹洞宗の道場を開くことになるあの道元禅師である。

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玄斉は後年、この道元禅師とともに渡宋することになる。二人の目的は異なったが、お互い満足のいく収穫を得て帰国した。さらに、どういう縁か、道元禅師の最期をみとったのもこの玄斉という灸師であった。しかし、この話はもっと後のことである。きょうのところはここまで。

 

男は、学生時代、応援団に所属していた。

あさま山荘事件の翌年、1973年4月に大学に入学し、5月には応援団の一員となっていた。経緯は簡単。クラスの親睦会に応援団が乗り込んできて、その一人から「只でお酒が飲めるよ」と言われ、一緒に飲みに行ったのが運の尽き、男はそのまま応援団員にされてしまったのである。

応援団員は、野球やアメラグなど運動部の応援に行くのが本来の活動。そのため、彼らに負けず劣らぬ厳しい練習を課される。放課後、市内の路上を近所迷惑の大声を張り上げながら駆け回った後、近くの山に登り、誰にも邪魔されずに、四股を踏みながらの発声練習を繰り返す。ボックスに戻れば、下駄鍋(いわゆる具材の沢山入った鍋なのだが、どういうわけか使い古しの下駄も入っているのである)が待っており、大酒を食らう。

そんな中、新人団員は情宣活動をやらされる。キャンパスの中をハンドマイク片手に、試合の応援にいく学生を募るのだ。

「君知る、僕知る、みんな知る、知らない人も何故か知る。こちらはご存じ応援団。さてさて皆さん、土曜日は、都の南のグラウンドで我が野球部の・・・」

なんて、大声を張り上げて歩いて回るのである。

ときには、授業中を襲撃することもある。応援団員3、4人が、授業の始まる直前に教室に入り、壇上に上がり、「押忍」と一礼し、応援歌をぶっぱなすのだ。授業を受講しようとしている学生も慣れたもので、応援歌に合わせて手拍子をくれたりもする。ときには、革マルや中核の連中と鉢合わせすることもある。そんなときは、彼らに譲る。彼らは、「授業を討論会に切り替えよう」と提起し、学生も先生も同意し、討論会になってしまうこともある。そんな少々おっかなくも、おおらかな良き時代だった。

応援団はリーダー部とバトン部からなる。大きな試合には吹奏楽部が参加することもある。幹部は、団長、副団長、リーダー部長、バトン部長の四名で、彼らの就任式は、晩秋、西山の古刹の寺で行われる。この儀式は徹宵コンパと呼ばれ、団員は寝ることを許されず、夕方から翌朝までお酒を飲み続けなければならない。湯飲みの酒をがぶがぶ飲んでいくのだが、一時間ぐらいで大半の部員がへたってしまう。男も湯飲みで十杯ほど飲んでダウンした。ところが、夜中の一時ごろに先輩にたたき起こされ、それから朝までチビリチビリとやらされた。この日は、バトン部の女の子たちも大酒をくらう。ゲーゲー吐く子や泣き出す子も出る。リーダー部長は得意のストリップを披露して彼女らの顰蹙を買った。五時になると、全員たたき起こされて、新団長の指揮のもと、学歌を歌う。これでやっと解散だ。

応援団の活動費は三月の渉外活動に負うところが大きい。渉外活動は、東京と大阪の二地域で行う。活動にあたるのは2年生と1年生の二人一組で、この各ペアが応援団のOBが就職している大手企業を訪問し、団誌を手渡し、賛助金を募るのである。たいては、OBの方から賛助金以外にその日の昼食、または夜の食事をごちそうになる。

 

それでは、男の日記から応援団の生活をちょっと覗いてみよう。

 

・・・

1973年6月16日

午後の練習の後、応援団OBのおごりでビールが出た。最初は、練習直後でのどが渇いていたのでおいしく飲めた。しかし、先輩たちがついでくれるのは断れず、どんどん飲まされ、歌も歌わされ、踊りも踊らされる。やっと宴会が終わったと思いきや、リーダー部長に誘われて夢二へ飲みに行った。まったく飲む気がないのに飲まされる。夜、リーダー部長の下宿に泊まったが、実に非現代的なところだ。壁には大きな日の丸がかかっている。蒲団はもちろんセンベーぶとん、飲み水はバケツに汲んであり、蒲団の周りには薄汚れたフンドシがごろごろ転がっていた。

 

6月19日

雨で夜が明けた。午後までこの雨が続けと思ったが、ダメだった。すっかり晴れ上がった空の下で、きょうも練習があった。腹筋と腕立て伏せ、とくにリーダー体操がつらかった。肩が痛くなって来るため、手が思うように上がらない。腕立て伏せは連続60回なのだが、40回が限度だった。皆よくやると思う。きょうも寝ながら、いつ応援団をやめようか、どんな理由で止めようかと考えながら、眠れぬ夜を過ごした。

 

9月27日

きょうも朝飯は生協ラーメン。10時にボックスへ行くと、リーダー部長たちがいて近くの山に登ることになった。意外に疲れない。午後から練習があったが、最近はリーダー体操も楽に元気よく行える。調子がいい。夏合宿の写真代の徴収に看護学校へ行ったら、握飯をいただいた。バトン部はいい。ボックスでビールを飲んだのち、M先輩とミックへ行ってウィスキーを飲む。

 

1974年4月28日

11時半、ボックス集合。宇治でサッカーの応援。久しぶりにチーフをやる。実に気分がいい。試合は2対2の引き分け。試合後、バトン部のTさんの友達二人に付き合って万福寺を見学。

 

5月1日

夕方5時半、ボックス集合。M先輩、O先輩、Y先輩と僕で、三高会館で行われた「紀念祭」に参加。朝永振一郎の旧友の方もおられた。ビールと酒と寿司で満腹。三高時代の素晴らしい歌を聞けて最高。帰りには三高の桜章旗とモナリザのポスターをもらって帰る。

 

5月3日

10時、西大寺駅で待ち合わせ。前団長の紹介してくれた女の子と2対2のデート。奈良公園で一日中いっしょ。ぐったり。

 

5月4日

昨日の4人で日活ロマンポルノを見る。そのあと、E子が前団長と会うというので付いて行った。僕らがついて来たので前団長はビックリされた。しかも、E子からポルノを見たことを聞き、一喝された。「女の子の好奇心を満たすような付き合いは男の恥だ。馬鹿たれ!」

 

5月15日

雨。葵祭のバイト。夕方、N先輩、Y先輩と浅川マキのコンサートに行く。ミックでバイトしているSさんとKさんに会う。

 

5月21日

1コマ電気力学、2コマ倫理、3コマ哲学、4コマはエスケープ。4時半より練習。8時より家庭教師のバイト(中二の女の子の英語)。夕食は円居。ビール1本にハンバーグ定食。

 

5月25日

午前中の授業、すべてエスケープ。1時より宇治のグラウンドへ陸上ホッケーの応援。応援中バトン部のTさんが足を滑らして転倒。試合後、Y先輩と喫茶店へ。そのあと、バイクで上賀茂神社に行き、女の子を物色。夜、吹奏楽部の土曜コンを聴く。ハープのナツミさん、なんて素敵なんだ。

 

5月26日

午後、ボンで久しぶりの麻雀。半チャンのみ。かみ家でコーヒーを飲んで、Y先輩と女の子を求めてD女子大まで行く。そのあと鴨川を物色。なにやってるんだこの俺は?!

 

5月29日

D女子大と合コン。D女からは5人、こちらからも5人。女性軍は5人とも陽気で、河原町での1次会もかなり盛り上がり、2次会は祇園のスナックに繰り出した。ところが、彼女らの一人がかなり泥酔し、限界を超えたので、そこでお開きとなった。興奮冷めやらぬ僕は、Y先輩の下宿に上がりこんだ。Y先輩も興奮冷めやらずで、ついに、こんな事を言いだした。「彼女らのところへ今から行こう」「え~」と思ったが、僕も、「押忍!」と相槌を打った。すぐにY先輩のバイクで市街のはるか南にある彼女らの学生寮に向かった。学生寮に着くと近くの高台にバイクを止め、草の斜面に座り込んだ。真夜中にもかかわらず、いくつかの窓には明かりがついていた。Y先輩は、「あの部屋はXちゃん、あの部屋はYちゃん、あの部屋は・・・」と、妄想を語りだした。

 

7月20日

M先輩に連れられて小さなスナックに入る。二人とも素足に下駄に学ラン。入り口近くで二人で飲んでいると、奥の方で、「生意気だ」と声が上がり、チンピラ風の男が男子学生に殴りかかった。それを見た先輩が、すぐに席を立って仲裁に入った。喧嘩はおさまり、チンピラは店を出ていった。しばらくして、学生は勘定を払い、先輩のところに近寄り、「私は剣道をやっています。あんなチンピラはわけないのですが、私が手を出せば凶器になりますので、がまんしました」と語り、店を出た。スナックのママが独り言を言った。「暑さのせいよ。暑いとみんなおかしくなるのよ」

 

7月23日

ミックから吹奏楽部のナツミさんに電話。日曜日に映画に誘うも断られる。が、しばらくして、ナツミさんから電話あり。翌週の日曜なら会える、とのこと。ヒデキ感激!

・・・

 

男とナツミさんは、最初のデートから波長が合った。映画を観て、それから寿司屋に行った。男と同じ下宿館の住人U君からは、「最悪のデートパターンだね」とひやかされたが、二人には関係なかった。すごく順調にいった。

ところで、このU君が、十月ごろ、下宿館からいなくなった。誰にも挨拶をせずに去っていった。九月に、ブルバキ数学原論を全巻読破したと言っていたのだが、そのころから、もともと変人だった彼の奇行がさらに凄みを増していった。不眠が続いているらしく、目は幕が張っているようにおぼろで、ときどき薄気味悪い笑いを浮かべた。彼の部屋からは嬌声が聞こえて来ることもあった。U君は弱冠二十歳にして、デカルトのように数学による宇宙認識を達成してしまい、世の中のむなしさを悟ってしまったのだろう。後年、彼が大阪のクラブでホストをやっている、といううわさが流れた。

十一月下旬、男の大学で学園祭が行われた。その前夜祭では、応援団が模擬店出店の場所割りや、お酒の調達と販売、祭りの警備などを行なう。

当日、夜も深まり、運動場の周りの模擬店では、あと片付けを始めている店もあり、見物客もまばらになっていた。酔って千鳥足の人たちも見受けられた。そして、中央に組み立てられた丸太の山にガソリンがかけられ炎が燃え上がった。みんなファイヤーの周りに集まって来た。学生と一般見物客がいっしょになって応援歌や寮歌を歌い出した。指揮をとっているのは、男ら応援団の連中である。団員たちは観客の間に入って、肩を組んで歌っていた。男の隣にはナツミさんがいた。

そのとき、男は非情な決意をしていた。そのころの男の学業成績ははなはだかんばしくなかった。もう、やばい。男の、お茶の水博士になるんだ、という夢がしぼみだしたのである。男は、ナツミさんと別れる決心をしていた。

ファイヤーの火が消され、祭りが終わると、男は、ナツミさんの住む鴨川近くの看護学校の寮まで、自転車に乗っけて送って行った。そして、別れ際に言った。

「ナツミさん、僕、勉強に集中したいと思う」

「それで?」

「来年の三月まで、会うのは止めようと思うんだけど」

「いやよ」

「ちょっと、やばいんだ。成績が」

「会う時間を短くすればいいわ」

「だめなんだ。どうしても、ナツミさんのことが気になって勉強が手につかなくなるんだ」

「じゃ、手紙くらいいいでしょう」

「手紙も止めよう」

「そう、そこまで言うならよすわ」

「ありがとう」

「どういたしまして。だけど、どうなってもしらないから」

「どうなって、て?」

「わかんないけど」

それで、二人の会話は終わった。

結局、その後、男は応援団をやめ、勉学に励んだ。ナツミさんと会うことはなかった。ナツミさんは、翌年、看護学校を卒業し、地元山口県のA市に戻り、病院勤めを始めた。

今から四十年ほど昔の話である。男の研究室は明治時代に出来たという煉瓦造りの古い校舎の二階にあった。男は修士課程の一年生で、同室には同じ一年生のセッちゃんがいた。男の研究室の隣が修士課程二年生用の研究室で四人の院生が利用していた。男の研究室も四人用のスペースがあるから、セッちゃんと二人では十分すぎるほどの広さがある。大きい机も四台あり、セッちゃんと男が一台ずつ利用していたから、二台余っている。一台には手動式コーヒーミルとサイフォンが置いてある。もう一台にはセッちゃんが焼いたクッキーやスーパーで買ってきた果物、どこかでいただいたお土産品などが雑然と置かれていた。結局、ほかの部屋の学生や事務員さんや先生たちまでやってきてディスカッションをする場となる。早い話が、男の研究室は古い校舎の住人たちの井戸端会議の場になっていたのである。

 

男は田舎の大学の大学院で勉学にいそしんでいるわけだ。しかし、何といっても田舎の大学だからのんびりしている。一週間くらい研究を休んでも、それほど影響はない。世界の研究者に後れを取るのではないかという、切羽詰まった状況には全くない。がんらい世界など相手にしてない。もう十分に世界に後れを取っているのだから、世界で見捨てられたような分野の研究を興味の赴くままマイペースで行っているのである。

 

男が所属しているのはこの田舎大学の理学研究科、すなわち理学部の大学院である。大学院といっても修士課程までしかない。だから、二年間勉強したら、ほかの大学の博士課程に進学するか、就職するかである。が、ほとんどが就職することになる。世界に遅れをとっている分野を研究している学生だから、なかなかほかの大学の博士課程で受け入れてくれないのだ。男を指導している教授は理学部長も兼任していて、理学部に博士課程を新設するよう積極的に文部省に働きかけている。文部省を動かすには実績が必要なのだが、なにせ学生の意欲が乏しい。大学院に入ってくるのは就職先が決まらなかった要領の悪い学生か他の大学の院入試に落ちた学生たちが多いから、モチベーションも低い。なかなか実績があがらないということになる。

 

男はこの理学研究科の天体物理学講座を専攻している。宇宙の歴史や星の一生を理論的に研究している講座だ。教授一名、准教授一名に、修士の学生が六名の小さな所帯である。修士の一年生は、秋になるとそろそろ修士論文のテーマを決めなければならない。セッちゃんは赤色巨星、男は宇宙背景輻射をテーマにした。セッちゃんは准教授の指導を受け、男は教授の指導を受けることになっていた。だが、教授は忙しいから、結局、男の指導も、実質、准教授の手を煩わすことになった。

 

 

男が研究室の机に座って論文の解読をやっていると、セッちゃんが入ってきた。

 

「おはよう」

「おはよう。きのうは大変だったね」

「とりあえず、下宿でお通夜になったんだけど、きょう午後三時からお葬式だから、また出かけなければならないの」

「そう、大変だね」

「ご家族の方は結局みなさんホテルに泊まられたから、私とNさんと二人だけでお通夜したのよ」

 

実は、セッちゃんの下宿の大家さんが昨日の朝突然亡くなられたのだ。セッちゃんの下宿はセッちゃんと大家さんだけだから、ご家族の方が駆けつけて来られるまで、救急車や警察の手配などセッちゃんが一人で対応しなければならなかった。しかし、面倒見のいいN先輩がすぐに駆けつけて、セッちゃんを助けてくれたらしい。それにしても、見ず知らずのセッちゃんたちだけにお通夜をまかせるとは、のんきなご家族だ。

 

「きょうのゼミだけど、お願いできるかな」

「今、やっているところだよ。大丈夫。君は出席するだけでいいよ」

「サンキュー。来週は、私やるね」

「OK」

 

セッちゃんが珍しくコーヒーを淹れてくれる。コーヒーは男の係りだった。豆の購入からお金の集金まで男が担当していた。この研究室では、学生であろうが、先生であろうが、来客者であろうが、一杯あたり五十円を徴収する。コーヒーにうるさい男が、結局みな面倒見ることになってしまっていた。ところが、きょうは珍しくセッちゃんが淹れてくれている。コーヒーでも淹れて、胸に迫りくる感情を紛らわしたいのかもしれない。セッちゃんの目のまわりはさすがに赤くはれ上がっていた。

 

今朝のゼミは、毎週水曜日に行われる定例の論文講読会である。教授、准教授、院生全員が参加し、ほかに市内の別の大学の先生二人も参加する。その先生たちと院生の計八名が毎週交代で、海外の天体物理関係の論文を紹介する。およそ二か月に一回、自分の番が回ってくる。一つの論文を紹介するには何冊か参考文献も読破する必要があるから、授業や雑務をかかえている先生や院生には結構、準備が大変なのだ。しかし、このゼミが院生には大変役立っている。論文をしっかり理解していないと、このゼミでみんなから質問の集中砲火をあびることになるからだ。完璧に準備できたと思っていても、ちょっと気づいていなかった点を質問されると、たちまち答えに窮してしまう。

 

この論文講読会には一般の人も参加できる。たまに、きれいなお姉さんが参加して、ゼミが異様に盛り上がることもあるが、必ずと言っていいほど翌週のゼミにはそのきれいなお姉さんは姿を見せない。今、参加しているのは大学から五十キロも離れた山里で豆腐屋を経営しているK君ひとりである。彼は、春からずっと参加している。毎朝三時に起きて豆腐を作り、お客様宅に届け、そして、十時から始まるこのゼミに駆けつけるのだ。そのとき出来立ての豆腐をもって来てくれるから、ゼミが終わると、みなで新鮮な豆腐をいただく。この豆腐は絶品で、醤油など一切の薬味は不要。そのまま食べても美味しい。彼の家の自然の地下水と彼が開発したニガリが味の決め手だという。

 

セッちゃんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、男はきょう発表する論文と格闘していた。そして、そこにK君が来た。そろそろゼミが始まるのだ。男とセッちゃんとK君は廊下を隔てた斜め向かいのゼミ室に向かった。

 

 

夕方、男が研究室でN先輩と世間話をしていると、セッちゃんが葬式から帰ってきた。まだ喪服のドレスを着たままだった。セッちゃんは今日も下宿に一人だから、N先輩に一緒に泊まってもらうことになっていた。N先輩は男だが、決してセッちゃんと過ちを犯すようなタイプではない。本当に人のいい面倒見のいい先輩なのだ。もしも、N先輩がセッちゃんを襲ったとしても、セッちゃんの負けん気も相当だから、N先輩が尻をまいて逃げるのは目に見えている。

 

翌日、男が研究室に来てしばらくすると、セッちゃんとN先輩が現れた。二人の顔を見ると、昨夜何もなかったことは明らかだ。N先輩はすぐに男の研究室を出て自分の研究室へ行った。男はセッちゃんと二人きりになった。

 

ここでセッちゃんについて紹介しておこう。セッちゃんは、実は、二年前に「素粒子論の実験的研究」でノーベル物理学賞を受賞されたあの鬼塚宗平教授の一人娘なのだ。母親も同じ物理学の研究をしておられる方だから、セッちゃんは最優等のDNAをもった女史というわけだ。顔は御世辞にも美人とは言えないが、笑顔は素敵だ。院の入試試験の成績も男とあまり差のない二番目の成績だった。今回の院入試では男とセッちゃんの成績だけが飛びぬけていて、しかも大学の歴史始まって以来の高い得点であったという。相当に頭のいいセッちゃんだが、計算だけは苦手のようだ。計算のような単純作業が嫌いで、幼いころから父上の開発された万能計算機を使用していたというから、自然、計算が不得手になったのだろう。一方、男の方は小学五年生のとき、算数オリンピックの日本代表で渡仏したほどの秀才である。物理と数学だけは飛びぬけた才能に恵まれている。ただし、国語や英語や経済など文科系の科目や暗記科目はからきし駄目である。そういう訳だから、男が帰国子女でもあるバイリンガルのセッちゃんと相補い、二人の知力を合わせれば、もう日本に敵なしとなる。

 

しばらくして、セッちゃんが例のものを取り出した。ここしばらくセッちゃんの方が忙しかったから、久しぶりの出現である。SZTベータと呼ばれる三十センチほどの短いステッキである。手前にデジタル式のダイヤルがついていて、そのダイヤルの設定によって、ミクロからマクロのいずれの世界にも自由に行ける仕組みになっている。ノーベル物理学賞を受賞されたセッちゃんの父上ご自慢の試作品である。時間を飛行するのがタイムマシンとすれば、これは空間を飛行できるからスペースマシンと呼んでいいだろう。

 

セッちゃんがダイヤルを「マイナス15」に合わせた。「マイナス15」は10のマイナス15乗メートルを意味する。この大きさまで小さくなると水素や酸素などの原子一個一個の中心部にある原子核を直に見ることができるのだ。これまで二人は二度スペースマシンで空間を飛行している。初回はダイヤルを「プラス20」に合わせて、地球から二百万光年の距離にあるアンドロメダ星雲を見学した。二回目はダイヤルを「マイナス7」に合わせて、セッちゃんの眼球から入り込んで脳細胞を見学した。今度が三回目である。今回はセッちゃんの脳細胞を作っている一つ一つの原子の中に鎮座まします原子核の世界まで行くのである。

 

二回目の飛行のとき、男とセッちゃんは面白い経験をした。二人は、セッちゃんの眼球から網膜にある視神経に入り込み、視交叉を過ぎ、しばらくして、外側膝状体に到達した。そこは視神経の末端部で、シナプスという空隙がある。二人は視神経を飛び出し、シナプス空隙に出た。そこから、手に手を取って脳内のさらに奥まで分け入った。二人は、大脳基底核にある側坐核というところで一休みすることにした。周りは靄がかかっているようで、二人の目の前には淡く蒼い光を放つ物体を確認できた。しかし、形状ははっきりしない。今まで見たこともないような幻想的な景色だった。男は思わず、セッちゃんの左手をぎゅっと掴んだ。そのときだ、二人の頭上から無数の小さな粒が降りそそいできた。そして、急に周りの視界が開け、はっきりと見えるようになった。多様な色の光線が飛び交い、周りの物体がうごめく。決して一定のリズムではないが、心地よいハーモニーを奏でている。ああ、これがセッちゃんの脳みその中なのだ。何と美しく、そして活動的なのだろうと、男はひとりごちた。

 

が、しばらくすると、徐々に色彩がなくなり、光線も見えなくなり、やがて薄蒼い靄のかかった世界となった。セッちゃんが言うには、男がセッちゃんの手を強く掴んだときに、お腹の中がキュンとしたのだそうだ。そのとき、急に頭の中が真っ白になり、次の瞬間、何もかもが見渡せる崖の上に立ったような爽快な気分になった、という。が、しばらくすると、雲が広がり、周りの景色もぼやけてしまったそうだ。これはどうも、手の触覚刺激によって内臓の内受容器に何らかの信号が伝わり、そして、今度は内臓から脳の方に何らかの信号が送り届けられ、その信号をキャッチした神経中枢が何らかの反応を起こしたのであろう、と男は推量した。

 

男は、もう一度、セッちゃんの手を強く掴んでみた。すると、再び目の前の視界が開け、きらめくばかりの光の世界が眼前に広がった。あの世にも美しい世界の再現だ。男は、感動のあまり、おもわず手を放して、セッちゃんに抱きついてしまった。すると、突然闇に包まれ、今まで感じなかった重力を感じ、そして現実の世界に戻ってしまった。二人の手が離れると、このスペースマシンによる飛行が終了するのを、男は失念していたのである。

 

このときの感動は、セッちゃんも同じだったようで、いつかまたセッちゃんの脳細胞を旅行しようね、あの小さな粒や飛び交う光線の秘密を調べようね、と約束したことである。そして、きょうを迎えた。

 

セッちゃんがSZTベータを右手にもち高く掲げた。ちょっと恥ずかしかったが、男は右手でセッちゃんの左手を握った。それが決まりなのだ。何度やっても、この儀式は照れ臭い。セッちゃんが呪文を唱える。「南無大師不動、南無大師不動、南無大師不動・・・」突然目の前が真っ暗になった。重力が消えた。そしてしばらくすると、遠くに点滅する薄明るいものが見えてきた。が、その周りには広大な闇が広がっていた。

(了)