男は三十七歳になっていた。中南米の一都市の空港に降り立った。男にとって初めての外国だった。タラップを降りるときから異国の空気を感じた。湿気と温度と風と日差しをブレンドしたこの地の空気が日本のどの地方とも違っていた。空港ターミナルに入ってからは独特の匂いが鼻をついた。この匂いがこの国の匂いなんだと思った。荷物を取り、税関を通ると、通訳のヘルナンデスが出迎えてくれた。ターミナルを出て仲間とともに彼の車に乗ると、子供たちがかけ寄ってきた。”Give me money.” ”Give me money.”と口々に叫んでいる。少女もやってきて、花束を差しだした。私は、胸ポケットの財布に手を伸ばした。木崎が「やめたほうがいいですよ」と言った。村松も「切りがないよ。この子らにあげたら、国中の子供たちにもあげなくちゃいけなくなるぜ」と言った。男は手を引っ込めた。子供らは、それでもしつこく後を追ってきた。
男の用向きは、国際無償資金援助の案件発掘調査である。政府関連機関の委託を受けた仕事で、メンバーは当該機関の木崎(三十二歳)、気象庁の村松(四十歳)と民間気象会社の男の三人である。男の会社と商社とで二、三年前に事前の調査は済んでいる。その調査結果をもとにした当該国気象事業支援の案件発掘調査の申請が男の会社から提出され、それが実を結び、今回の正式の案件発掘調査となったのだ。調査団長は一番若い当該機関の木崎であるが、実際にはアメリカ留学の経験があり、しかも気象レーダの専門家でもある気象庁の村松が現地でのイニシアチブをとることになっている。男も木崎もこれが初めての海外旅行で、出張前に数週間英会話学校でにわか勉強をしただけだから英会話は上手ではない。当該国はスペイン語圏だから、現地では西英通訳のヘルナンデスがついた。こちらが英語で話し、それをヘルナンデスがスペイン語で相手に伝え、相手がスペイン語で答えた内容を今度は英語でヘルナンデスが日本側に伝える。それを男たちは日本語に翻訳して解釈するのだ。回りくどいが、仕方ない。スペイン語の達者な日本人なんてほとんどいない。ヘルナンデスは、事前調査の時に商社が雇った通訳であるから、この案件には最適のパートナーだ。
ヘルナンデスの車で、男と木崎と村松は寄宿先のホテルに着いた。チェックイン後、ホテルのロビーでヘルナンデスと四人で明日の打ち合わせをしてから、各自の部屋に行った。明日はさっそくこの国の政府を表敬訪問し、財務大臣と気象局長官に面会し、今回の案件発掘調査の趣旨について説明することになっている。日本の成田からニューヨークに飛び、ニューヨークで一泊し、翌日マイアミ経由で当地に着いた。ここまでは、どちらかというと旅行気分で過ごせた。が、明日からはいよいよ仕事である。男は気を引きしめた。
今回の案件発掘調査では、事前調査を踏まえ、無償資金援助で当地のどこかに気象レーダを一基設置することが前提になっている。そのレーダ基地の最適な場所を決めることが、男たちのチームに課せられた任務なのだ。当地の気象予測のためにはレーダ一基ではもちろん不十分なのだが、とりあえず一基で実績を積むことによって、今後の支援を推進していくというストーリになっている。今回は地方の測候所視察を兼ねて、レーダ基地候補地三カ所を尋ねることになっている。ところが、当地の気象事業全体を見渡すと、レーダ設置以前に早急に手当を施す必要のある課題がたくさんある。ほとんどの測器がアナログデータで取得するため、ネット通信での情報交換ができていない。また、一番重要な高層観測にしてもゾンデの数が不足していて、メインの高層気象観測所でも一日二回はおろか、一日一回の観測しか行われていない。それも不定期だ。本来は、これらの基本的な気象測器や備品に対する資金援助が必要なのだが、これらの援助には継続支援が必要なため、無償資金援助の対象には不適だという。気象レーダ一基をさっと建設して、あとの運用を現地スタッフにお願いするという一回きりの資金援助が効率的で確実なのだ。この辺の事情は日本側のかってな都合だから、表立っては言えない。その辺のところをうまく当該国の政府や気象局に理解してもらうことも男たちの役目なのだ。
その日の夜、三人はホテルの近くのスペイン料理店に行った。
「セルベッサー・ポルファボール(ビールください)」
男のスペイン語は通じた。グラスと瓶ビールが来た。あとは、メニューを見ながら英語で注文した。イカ墨パスタとパエリアとガスパッチョを注文し、村松が赤よりも青い香辛料の方が辛いと言うからグリーンピクルスも注文した。まず一番にグリーンピクルスが来た。男が最初に試食した。本当にとんでもない辛さだった。タイのトムヤンクンや四川省の担担麺など比較にならない。男は、ボーイに言った。
「ドンデ・エスタ・セルビシオン(トイレはどこですか)」
これも通じたようだ。しかし、スペイン語の返事は理解できない。男は分ったふりをして、ボーイの視線の先に向かって歩いた。案の定、トイレがあった。男はすぐに便器に向かってピクルスを吐き出した。そして水道水でうがいを何度もした。が、舌のしびれはなかなかとれない。あきらめて席に戻った。すると、男の席に若い女が座っていた。日本人のようだ。少し日焼けしているが整った顔立ちだ。男がけげんそうな顔をすると、村松が言った。
「この方はきょう着かれたそうだ」
女が言った。
「初めまして。柏木と申します」
男は仕方なく隣のテーブルから椅子をもってきて女の隣に座った。女に聞いた。
「柏木さんは旅行ですか」
「そうです。アルゼンチンからヒッチハイクで来ました」
「えー。ヒッチハイクですか。一人で危なくないですか」
「危ないです。だから私はまず安全そうな男性ハイカーと仲良くすることにしています。その男性と二人で行動します。男性の目的地に着いたら、また別の男性を探します」
「そっちの方も危なそうですね」
「いいえ、みなさんとても親切ですよ」
男は女のたくましさに圧倒された。
料理が来た。女もセルベッサーを飲んだ。ここは赤道に近く、熱帯に属するのだが、標高が高いため一年中温暖な常春の町なのだ。だからセルベッサーはことのほか美味しい。食事中、村松は積極的に女に話しかけた。そしてメモ用紙に何か書いて女に渡したのを男は目撃した。男はボーイを呼び、スペイン語会話ガイドブックで覚えた三つのセリフのうち最後のセリフを言った。
「ラ・クェンタ・ポルファボール(お勘定お願いします)」
男のスペイン語は完璧だった。すぐにボーイが勘定書をもってきた。チームの会計を兼ねている男が支払った。女の分も支払った。女は「ありがとう」と言ったが、おごってもらうのは慣れているのか、当然といった顔をしていた。男は、女には甘いな、と思ったが、これがあとでとんでもないことになるのである。女とはレストランの出口で別れ、三人はホテルに戻った。
翌朝、三人は十時にロビーでヘルナンデスと待ち合わせをしていた。男がロビーに降りたときには木崎とヘルナンデスはソファーに座って何やら話していた。ところが、約束の十時を過ぎても村松が降りてこない。部屋に電話をかけても出ない。木崎が「村松さんは昨夜遅くホテルを出ていかれましたよ」と言う。ひょっとしたら、女のところへ行ったのかもしれない、と男は思った。困ったことになった。財務大臣との約束は十一時だ。早く出発しないと間に合わない。
すると、フロントのスタッフが来て「木崎様に村松様から電話がかかっている」と言う。木崎が急いでフロントに向かった。