私が思い出すことの出来る昔は五歳の頃である。

 

それまで、鏡町で生まれ、有佐町に引っ越し、引っ越し先のアパートが隣にあった映画館の火事で延焼してつぶれ、近くの一軒家に引っ越し、五歳を迎えるのであるが、それまでの記憶は一切残っていない。

 

五歳の頃の記憶は多い。

 

近くの畑で、正月、どんと焼に参加し、焼け跡からサツマイモを取り出して食べた。

 

町を歩いていて、お袋が道の反対側から手招きしたので、喜んで駆け出したら、三輪車が突っ込んできて、その下敷きになった。が、幸い軽症で、後日、三輪車の運転手がバナナを手土産にわが家を訪問した時、柱の陰からその様子を見ていた。

 

近所に住むカヨちゃんという独り身の女性の部屋に何人か集まり、丹前を着て炬燵に入って、花札を楽しんだ。

 

近所の同い年の友達と、近くのどぶ川に入り、大きなナマズを手づかみした。そのときのヌルっとした感触は今も覚えている。

 

私は、毎日、親父の経営する修理工場の従業員に、小型トラックで保育園まで送ってもらっていた。私は、極端な人見知りで、園に着き、トラックを下りると、迎えに来てくれたおなご先生のスカートをつかみ、一日中、その先生にくっついていた。

 

従業員の一人に、ススムちゃんという若者がいて、そのススムちゃんがバイクで営業に出るとき、いつもその後ろに乗っけてもらって、ついて行っていた。

加藤家の過去帳を紐解いてみた。以下の通り。

 

加藤照(加藤善次郎長女)

大正十五年一月十日出生

昭和四年八月七日死亡(享年四歳)

 

加藤善次郎(加藤善三郎六男)

明治二十八年八月十一日出生

昭和六年三月十四日死亡(享年三十七歳)

 

加藤イシ(中村熊次郎次女)

明治三十六年一月二十五日出生

昭和七年三月十三日死亡(享年三十歳)

 

加藤繁子(加藤善次郎次女)

昭和三年二月二十八日出生

昭和八年三月二十九日死亡(享年六歳)

 

加藤敏子(稲山庄太郎長女)

昭和四年三月三日出生

平成五年三月一日死亡(享年六十五歳)

 

加藤冨士(加藤善次郎三男)

昭和四年十月二十九日出生

平成二十七年六月二十三日死亡(享年八十七歳)

 

以上。

 

加藤冨士が私(加藤洋)の父であり、加藤敏子が私の母である。私の父は加藤善次郎の三男であり、上に二人の兄と二人の姉がいた。二人の姉(照と繁子)は幼くして亡くなった。二人の兄は比較的長く生き、次兄は父の十年ほど前、長兄は父の七年後に亡くなった。私には妹が一人いて、妹は二人の娘の母である。私には子供が二人(長女と長男)いて、今、令和四年九月現在、皆健在である。

 

これから、たどれるだけの過去まで引き返し、そのときのいにしえの記憶を呼び戻し、それらのことがらを記していきたと思う。何でもない男の半生だが、男にとってはかけがえのない人生であったのだから、残しておいても悪くないだろう。

85歳男性。60歳の時、両膝変形性関節症手術、半月板なし。平成30年、直腸GISTの手術、のち抗がん剤治療。令和3年春、大動脈解離発症。本人、あまりの痛みに悶絶し、そのまま意識を失ったとのこと。すぐに救急車が呼ばれ、病院に担ぎ込まれたが、その病院では処置不能で、別の病院に搬送された。ところが、その搬送先の病院に大動脈解離手術の専門家がおられ、ほぼ絶望的だったにもかかわらず、その医師の神の手によって一命をとりとめたとのこと。強運に恵まれた人だ。

 

ベッドに横になって施術をする。服を脱いでもらって、仰臥位で寝てもらう。手の陽池、合谷、曲池、足の三里、照海にお灸をすえたあと、お腹を拝見すると、GISTの手術痕と大動脈解離手術の痕が生々しい。手術後の回復途上で、まだまだ呼吸がしづらく、お話しするのが辛そうである。が、本人は元来が社交家であるためか、奇跡的な手術の経緯を詳しく話してくださる。私は、その話に相槌を打ちながら、お腹の臍の周りに、「よ~くなれ、よ~くなれ」と念じながらお灸を施していく。お腹のお灸が終わると、伏臥位になってもらい、腰背部の次髎、大腸兪、腎兪、脾兪、肝兪にお灸を施す。次は、ベッドの上に座って肩を出してもらう。この男性、学生時代は競輪選手だったそうで、肩幅広く、がっしりとしている。肩外兪、巨骨、膏肓にお灸を施し、最後は上肢伸展して終了。

 

ベッドからゆっくり降りて、少しおぼつかない足取りで、施術室を出て、フロアーの自分のテーブル席に戻られた。フロアーのテーブル席は4人掛けだが、コロナ蔓延中のため、二人席となっている。彼の席の相棒は、Q堂カルテNo.16の崎戸出身の男性。この男性も社交家だから、男同士でも会話が弾む。漏れ聞こえてくるのは、スタッフの女性の品定めっぽい噂話。二人とも高齢だが、まだまだ元気だ。うらやましい。