余白やの余談


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今年も半分経過!

なんと2ヶ月半も駄ブログからご無沙汰していました。別に深いワケがあったのでもなく、相変わらずのぐうたらな日々であったのですが。このふた月半で聴きに行ったライヴ15回(主にジャズ系)、読んだ本30冊、観た映画3本、芝居1本……、んー、と、まぁそんなものです。特に変わりはありません。ではありますが、世の中はどんどん変わっているような気もするのですね。どこが、何が、どう変わっているのかというと、これがうまく言えない……。とはいえ「いいのか、これで?」感が、いつの間にか加速しているようにも思えてしまう私は、もしかしたら鬱なのか? いや、そんなこともなさそうです。で、何が言いたいのかというと、言葉を発するということの意義とか、他人の言葉を見聞きすることの意義とか、そんな発想のステージが昔と違ってきたように思えたり、いやいやそんなことは全くなくて、それは錯覚だよ、と思えたり。以下続く、かもしれなくもない。

渋谷でライヴ。

昨夜はNoriko Suzuki's Be Spell(高田ひろ子、岡部洋一、類家心平)のライヴでした(at 渋谷・クラシックス)。ギタリスト前原孝紀が亡くなって以来初めての「存在の耐えられない軽さ」ライヴです。「存在の……」はミラン・クンデラの小説に触発されて作詞・作曲されたオリジナルの組曲(?)で、これまでも何度か聴いたことはあるのですが、やはり何だか難しい音楽というかなんというか……。実は今回はちょっと予習した(といっても、少し前に出た当該CDを聞いただけのこと)のだけれど、ライヴの現場で言葉が十分に聞き取れないと、どうもね、ちょっと取り残されるような感じがするわけです。こういった作品を演奏する時には、聴き手に歌詞を配った方がいいんじゃないかな、などと思いました。それにしてもクォリティの高い演奏で、休憩なしのぶっ通し1時間半はあっという間でした。ミラン・クンデラについてはまたいずれ、続く、かもしれない。

ぐうたらな時間。

表現行為って何よ、てなことを記して早半月が経ちました。以下多分続く、かも、とも書いていますが、なんだかなぁ。『限界芸術論』も『ロックへの視点』も未確認のまま、というか特に探したわけではない……。要するに相変わらずのぐうたらな時間がだらだら流れていったのだ、ということです。いいのか、これで? って、ま、仕方ないですね。

 しかし最近は(というのは、ここ20年ほど😅)気になる人の訃報に触れることが増えてきて、これもこちらが年取ったということなのでしょう。私と同じ年代(とここでいうのはプラス10歳マイナス7、8歳くらいを想定しているようです、団塊世代から東京オリンピックあたりまで)の人たちが多感な年頃だった頃(1960年代後半から70年代)、刺激的な表現者(!)だった人たちが天寿を全うされるような時期になっているのです。私の年代プラス5歳から20歳ほどの人たち。彼らの表現はどういったものなのかといえば、ファインとポピュラーとフォークが複雑に入り混じっているのですが、この辺りのことは案外看過されているようです(って、とんでもなく大雑把でいい加減な言い方ですが)。以下続く、かもしれない(か?)。

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