表現行為って何よ?
ファイン・アート、ポピュラー・アート、フォーク・アートの別は鶴見俊輔の『限界芸術論』(だったかな?)が出典で、用語はちょっと違っていたような気もするけれど、大体こんな感じでした。同じ頃カール・ベルツの『ロックへの視点』(だったかな?)という論考も読んでいて、これは中村とうようand/ or三井徹の翻訳で、その解説(これは中村とうようだったと思う)で、鶴見俊輔にも言及されていたように思います。以上、とんでもなく曖昧な記憶なので、いずれ確認しなければ、なのだけれど、なにしろ半世紀も前のことなのであります。ではあるけれど、諸々の表現行為を考えるときにこの3つの様相は結構基本だったのではないか、なんて。3つの間にくっきりと境界線がある訳ではないのだけれど、例えば「これは純粋芸術だっ」と思い込んで見つめているというのはかなり貧しい芸術体験だったりします。以下多分続く、かも。
素朴かもしれない疑問、かもしれない。
昨夜は酒井俊「来日」ツアー初日でした。新子安・しぇりる、ピアノは田中信正です。これまでの酒井俊ライヴで何度か聴いた曲が半分弱、新しい歌(といっても、酒井俊があまり歌ったことのない歌ということで、「スターダスト」のようなジャズの大スタンダードや、「君の友達」のような半世紀前のポップスとか)をたくさん聴くことができました。それで、例によって、歌うとは何か、音楽を聴くとはどういうことか、なんてことを考えたりするのです。前項のシーラ・ジョーダンみたいな人もそうですが、こういった素朴で、もしかすると根源的な疑問(でもないな、問いかけ?)に聴くものを誘う歌い手・音楽家はそんなにたくさんいないと思います。ま、人それぞれではあるのですが……。
ファイン・アートであれ、ポピュラー・アートであれ、フォーク・アートであれ、それが「アート」に触れている部分はずっと解けない疑問のままで、その疑問は表現者から鑑賞者に向けて差し出されるようなものではなくて、むしろ鑑賞する側に、その場に自ずと湧き上がってくるというか、気がつくとそういった空気の中で見たり聴いたり読んだりしている、そんな感じです。表現者のことをちょっと想像してみると、そういった問いかけを長期間にわたって常に新たに保ち続けている(のかな?)わけですよね。差異と反復! 以下続く、かもしれない。
歌う人。
今日はヴォーカルを聴いています。今聴いているのはシーラ・ジョーダンの『SHEILA JORDAN LIVE AT MEZZROW』。2021年10月のライヴ録音、シーラは92歳です。決して幸福とはいえないだろう少女時代を経て、デューク・ジョーダンと結婚、白人と黒人の双方からいわれのない差別を受けながら歌い続けたシーラ・ジョーダンにとって歌とは何なのか? 歌うということは何なのか? 35年ほど前、シーラが来日した際、縁あって彼女の宿舎のホテルで取材する機会がありました。その時、なぜか興が乗ったシーラはハーヴィー・シュオーツのベースと一緒に、ホテルの部屋で歌い始めたのです。聴いているのは私だけです。とてつもなく特別な体験であると思いはしたものの、その時のおバカな私には、先に記したような発想はありませんでした。以下続くかもしれない。