日々新面目あるへし

日々新面目あるへし

ブログを続ける指針に、会津八一の書「学規」に学びたい。
 一、この生を深く愛すへし
 一、かえりみて己を知るへし
 一、学藝を以って性を養うへし
 一、日々新面目あるへし

2024/01/09

 正月休暇に娘の長男(25歳)と次男(22歳)が帰省してきた。二人とも隔世遺伝の濃い母親の父親である自分の長所短所に似た性格が妙に愛しい。

 

 長男は昨春から美術大学を卒業、インテリアデザイナーの仕事に励んでいる。次男は今春で工業大学を卒業、建設会社に就職が決まって逞しくなっている、二人を育てた娘に感謝したい。

 

 長男は会社の寮が30歳までなのでそれ迄に結婚して私に曾孫を抱かせたいと嬉しい話をしてくれる。自分は今年83歳になるので88歳の節目に元気に曾孫の顔を見たいものである。

 

 二人への願いは早く結婚することで、家族と本人と社会の為に身体第一で思う存分励んで欲しい。自分はこれから五年後を楽しみに元気に過したい。

2024/01/08

 普通の人とは仏法で極端と顛倒と妄想が無い人と学んだ。それが普遍性という全てに共通する性質でいつの時代も変らない人、また遍在といういたるところに存在する、どこにでも広がっている人であろう。

 

 遺伝子の働きで云えば優性でも悪性でもない生存面や生活面で普通の生き方に従順な人であろう。何が言えるか人類は他の動物と違って普通でない遺伝子が働く面を覚える、つまり戦争の原因である悪性・劣性や極端・顛倒・妄想の遺伝子である。

 

 平和とは普通の人が優性良性の遺伝子の働きで指導者となって悪性良性の遺伝子の働きを抑える人であろう。何が言えるか平和とは普通の人の集いの力で成し遂げると思えてならない。昨今は人類の遺伝子が戦争を起している、悲哀を覚えてならない。

 

 

 

 

 

 

2024/01/07

 一般的に病気とは「身体の生理的な働きに異常が起こり、通常の生活が困難になる状態」、老化とは「成長期以降に起こる加齢に伴う進行性の身体機能の衰退現象」とある。

 

 人間誰しも老年期に入ると身体機能の低下を自覚することが出来る。そこで必然的に老化することは分かるが必然的に病む観方を考えさせられる。

 

 病気は成長期だけでなく老年期に入って身体機能が低下することで起こる現象と受けとめる。それは治癒不可能な病気と云えるがだろう。

 

 人間誰しも老年期を過ごして行くと様々な病気を経験することが出来る。それを必然現象と思うも思えないも人様々であろう。最近の自分の身体機能を眺めてふと前者と思える気がする。

2024/01/06

 三木清「人生論ノート」<希望について>にこう述べている。一切が必然であり一切が偶然なら希望というものはあり得ない。偶然が必然の必然が偶然の意味を持っている。生きることは希望を持っていることである。

 

 自論では「生きる事は全て必然であり、偶然も必然の一環に他ならない、無意識の働きと思える必然こそ希望を持っている」と受けとめたい。これは遺伝子の無意識の力を信じる思いにある。自分はきっとその無意識で生きているに違いない。

 

 何故そう思うかこれ迄の人生で切に感じた。自分が選んだ人生ではない、人生の方が自分を選んだ思いにある、これは宗教的のようだが自分には合理性と受けとめている。人生の希望は選ばれて生きていること自体にある、意識無用の思い込みであろう。

 

 

 

 

 

2024/01/05

 人間は基本的に人類の一環の動物であり他の動物と変らない。仏法の説く「生老病死」の通り必然的に生まれ、必然的に老い、必然的に病み、必然的に死んでゆく。必然性こそ遺伝子の働きに他ならない。

 

 人類は5種類の遺伝子(優性・良性・従順・劣性・悪性)に依るON/OFFで存在している。ここに人類の問題解決の新しい確実性の基準を覚える。今しも世界で止められない戦争は悪性・劣性・従順の遺伝子がONされた結果ふぇあろう。

 

 人類社会で何か悪いことが起こる原因は、優性や良性の遺伝子がOFFされ、悪性や劣性の遺伝子がONされている状態である。どうすれば良いのか解決策が無い時は、時間の経過を待つしかないなら何と不幸な時間であろう。

2024/01/04

 年の初めふと仏法の「諸行無常 無常迅速」を思ってしまう。未だに頭で分かっていても本当に分かっていない、分からないようになっている思いもある。結果論として分かってくるとしても明確ではない、それが今年83歳になる自分の実感である。

 

 人間はそれで良いのではなかろうか、そうありたい気持を重んじたい。これ迄までの経験による自分を消してしまうのではなく過去の経験の置き場所を新しく変えて、すべて白紙にして始めることである。

 

 無常迅速を「一瞬のイメージ」として受けとめる、それを出来る出来ないでなくこれまでの結果論を能力でなく自覚の在り方としたい。家訓に掲げた「日々新面目あるべし」を改めてこの無常迅速に重ねたい。

 

 白紙の在り方として思うに、若い頃は何も知らなかったが今も大したことはない、経験とは自分だけのいわゆる旧い個性の思い出に過ぎない、それで良いのではなかろうか。白紙で始めるとは新しい個性を出力する思いにある。

 

 

 

 

2024/01/03

 昨年学んだ<中動態>とは、行為の主体が自己の意志で行動を起こすと同時に、その行為の受け手でもあると説明されていた。能動は同時に受動ではなく中動である、つまり人間の行動は能動と同時に受けとめる中動である。

 

 人間はどのような心で行動するかによって、5種類の遺伝子がON/OFFの働きをしている。その心自体も遺伝子の働きに他ならない。大局的に云えば全て遺伝子の働きにある、あらためて学びたいことは無意識の遺伝子の働きである。

 

 これを某科学者が前述の「どのような心で行動するかによる」と説明している。心とは意識であり5種類の遺伝子のON/OFFの働き(優性・良性・従順・劣性・悪性)と受けとめる、5種類の遺伝子によって行動する心を眺めたい。

 

 俗に言えば何も考えず生きていれば遺伝子の働きで最も人間らしい遺伝子につながる、そして個性という遺伝子の働きで自分らしい生き方を見い出すだろう。人間は誰しもそんな遺伝子を有していると信じたい。

2024/01/02

 何年振りかで第九交響曲を聴いた。N響の新しい指揮者の演奏だった。かって年末は必ず大阪フィルの朝比奈隆の演奏会へ出かけたが氏が他界されてから聴いていない。その頃からバッハだけ聴きだしたような気がする。

 

 今でも朝比奈隆の演奏で印象深く感じたのは第九の第4楽章の合唱と演奏の全合奏の最高潮を一瞬にして切り裂いた指揮の凄さを思い出す。自分の感覚でこの一瞬の間を朝比奈隆ならでは取り出した思いが残っている。

 

 そんな他愛ないことを思い出しN饗を聴いたが残念ながらこの間隙の凄さを感じなかった。かって新しい人生の序章にこの感動をと思った若さかもしれない。その頃までベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲を何度も聴いていた事も思い出す。

 

 その弦楽四重奏曲とバッハの器楽曲を何度も聴いていた時に

ベートーヴェンとバッハの音楽との違いを、無意識に思い込んだのであろう。何れも人間のための音楽に違いないが結果論として両者ともに気付かない個性の違いを受けとめた気がする。

 

 個性とは結果論という観方を両者の音楽に感じたのは、自分の無意識の個性かもしれない。以後バッハ以外の音楽を聴かなくなった自分の性格を個性の一環と思えてならない、自分の自由さでバッハの個性を楽しんでいる自分を眺めている。

 

2024/01/01

 これまで自分は自分の自由さで生きてきたが今はそうではなく無意識で生きてきた思いがある。これからもこれまでと変らずに無意識の遺伝子の働きで生きて行くだろう。人類社会も大局的には遺伝子の働き然りと思えてならない。

 

 中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」という歌に

「旅はまだ終らない」という歌詞がある。これからもまだ終らない自分の生き方に遺伝子の働きを覚える。過ぎ行く時間の貴さを思えてならない。

 

 個性は結果論という観方に、行動する心の在り方が遺伝子のON/OFFの働きを思った。個性は無意識であろうと生きているだけで個性の遺伝子につながっている。無意識は心の在り方を問わない、さて元旦から何を考えているのだろう。

 

 

2023/12/31

   ウォーキング途中の路傍や民家前で美しい草花たちに出会う。そんな花々を撮ったメモリーをパソコンに移し自分の自由さで「路傍の草花たち」と題して時にバッハのBGMで眺めている。

 

 隣家の前庭に咲いていた美しいオオムラサキツユクサと可憐なミニバラが忘れられない。我が家の向えの家には季節毎に鉢植の草花が並んでいる。それを眺めるのも外出時の楽しみである。

 

 近くのカフェの窓の下には、見事な季節の草花が並んでいる。その通りを北へ向かうと住まいを飾るように草花の鉢植えが幾つも並んでいる。

 

 そんな草花たちに向うと何か話しかけてくれるようで老年の日々を楽しませてくれる。年末にそんな些細な楽しみをあらためて自分の自由さで貴重に感じている。