「アドラー心理学と子育て」の3回目です。
前回は、「ライフスタイル」と「優越性の追求と劣等コンプレックス」について説明しました。
今回からは「親が子どもに行うべき適切なコミュニケーション」をテーマにしたいと思います。
その前に、アドラー心理学の概説として補足しておきたいことを先に述べておきます。
【劣等コンプレックスと縦と横の人間関係】
本来子どもは「優越性の追求」の欲求を本能的に持っていることから、自然と自らが着実に成長していく力を持っているものです。
その成長を支えるものが、本来の劣等感(健全な劣等感)なのですが、アドラー心理学では、本来の劣等感と劣等コンプレックスを明確に区別しています。
劣等感は前向きに頑張るエネルギーなのに対して、劣等コンプレックスは、心の中にある劣等感に触れないよう、心に蓋をするということです。
劣等コンプレックスには大きく分けて3つあります。
①攻撃・・・これは他者への攻撃はもちろんですが、自分自身にも向かう性質を持っています。
自分への攻撃であれば、過食拒食、リストカット、自己否定などがあります。
攻撃は、心の蓋で劣等感を無理やり押さえつけてしまった結果、劣等感がストレスとして肥大化してしまったケースです。
②自慢・・・これをアドラーは劣等コンプレックスに対し優越コンプレックスと呼んでいます。
他人の自慢は不愉快になるものですが、それは自慢を通して自分を周囲より上のように言ってくるからです。
本当に成功している人は自慢などしないものです。
それは、自慢をすることが「共同体感覚」から外れた行為で、不幸な人間関係を生みやすいからです。
自慢をしている人というのは劣等感の裏返しです。
「自分が高い地位を得たのは実力があるからだ」と自慢する人は、そう言うことで「高い地位が得られたのは実力ではない」という劣等感を抑えつけているのです。
③不幸のアピール・・・不幸をアピールすることで周りからの励ましを求めて、励まされることで一時的な劣等感からの解放を味わいます。
しかし、不幸アピールをし続けていると、ネガティブなセルフイメージが強固になって人間関係に良い結果をもたらすことにはなりません。
以上、3つの劣等コンプレックスから分かることは、劣等コンプレックスは他者との関係において生じているということです。
アドラー心理学では「人間の悩みは全て人間関係にある」と言います。
よく「人は一人では生きてはいけない」と言います。
ところが、対人関係の中で、または集団に属した人間関係の中で、人間は全ての悩みを生じます。
この相反する宿命の中で、「人はいかに幸福に生きていくか」を考えなくてはいけないのですが、アドラー心理学では、これには「共同体感覚」を持つことが大切だと言っています。
「共同体感覚」については、「アドラー心理学と子育て(1)」で述べていますので、そちらをご参照ください。
アドラーは、悩みの源泉となるなる人間関係には、「縦の関係」と「横の関係」があると言っています。
「縦の関係」は、一方を上に他方を下に位置づけたような関係です。
劣等コンプレックスの②自慢は、自分を上に位置づけて、周囲の者を下に見下したような態度です。
③不幸のアピールは、逆に自分を下に位置づけている態度となるでしょう。
①攻撃の場合は、状況に応じて、自分を上に位置づけたり、下に位置づけたりすることで出る行為でしょう。
これに対して、「横の関係」とは、「人に上下の差はなくみな対等な存在である」とする関係です。
これは、権利としての「人間はみんな平等である」を意味するものではありません。
「人間は1人ひとり違っていて当たり前であるが、人間関係においては対等であることが基本である」という意味です。
権利として目的とすべき「平等」と、状態として存在し得る「対等」を混同しないようにしましょう。
「状態として存在し得る」という意味は、「常にではないが、人間関係が対等になっている状態はいろんなところにある」ということです。
友達としての対等な関係、同僚としての対等な関係というのは確かに存在します。
時に、兄弟姉妹としての対等な関係も存在するでしょう。
ところで、親子においての対等な関係というのはどうでしょうか?
また、上司と部下における対等な関係というのはどうでしょう?
これは、立場上、「対等」というのを意識するのはなかなか難しいですよね。
しかし、アドラー心理学では、通常「縦の関係」が横行する日常において、「対等」をキーワードにした「横の関係」を意識することを強く勧めます。
【課題の分離】
では、「横の関係」が崩れるときとは、どういう時なのでしょうか?
それは、自分が「相手の領域」へ入り込むとき、または相手が「自分の領域」へ入り込んできたときに、上下的な関係性を持とうとする時です。
相手の領域や自分の領域に他者が入ってきても、「対等」な関係を持つことはできます。
しかし、人間は自分の領域内で自由に問題を解決したい欲求を持っていますので、自分の領域に他者が入って来ると、その他者を排除するか支配しようとします。
そこに自ずと「縦の関係」が生じるのです。
これは、日常ほとんどの場合がそうだと言えますが、なるべくこのような関係を減らすためには、「他者の領域には極力踏み込まない」ことが重要になってきます。
これが、アドラー心理学が提唱する「課題の分離」と言われるものになります。
ここで言う「課題」とは、「当面の問題」や「何かやろうとしている事」と言えるでしょう。
そして「課題の分離」とは、「自分の課題と相手の課題を分けて考える」ということです。
すなわち、自分でコントロールできるものは「自分の課題」とし、相手にしかコントロールできないものは「相手の課題」とする訳です。
教育の面で何らかの問題が生じているとき、そこには、課題の分離ができていない親子関係だったり、教師と生徒の関係が存在します。
例えば、「子どもが勉強しないことにイライラする親(自分)」はどこにもいると思いますが、このありきたりのことにも、「課題の分離」を適応してきちんと考えるべきことがあります。
「子どもが勉強しない」ことは「子どもの課題」です。
「イライラする親(自分)」は「自分の課題」です。
「親(自分)の課題」は自分で何とかする責任があります。
ところが、「子どもの課題」にも、何とかしなくてはいけない責任が子ども自身にあるというのがアドラー心理学の主張です。
「子どもに勉強させるのは親の責任」と思う人もいると思いますが、「勉強させる」と考えてしまうこと自体、「縦の関係」から来る発想です。
子どもを勉強でコントロールしようとしているのです。
勉強するかしないかは子どもが決めることであり、親が決めることはできません。
実際に勉強せずに迷惑を被るのは誰なのかを、子ども自身に考えさせることはできます。
仮に中卒になり、将来職に困ってしまって大変な思いをしても、それは子ども自身が選んだ道です。
その時に親は手助けをするかしないかも自由です。
人生の岐路に立ったとき、親が子どもにしてあげられることは、情報提供ぐらいなものなのです。
アドラー心理学の「課題の分離」の考え方を推し進めると、こんなところまで行きつきます。
しかし、この「課題の分離」がもたらす教育的効果には重要なものがあります。
課題を明確に分離することで、「人のせいにしない子供」に育つのです。
親から課題の分離をされて、親があまり自分の領域に入り込んでくることがない分、自分のことは全て自分で決めなくてはいけません。
その自由性があるがために、今度は他人に責任転嫁することができないのです。
幼い頃から、自分で意思決定している感覚をもたせることによって、責任転嫁しなくなり、成長を早め、独立志向が早くなることもあるでしょう。