アドラー心理学と子育て(4) | ★こころノート★心の問題(心の悩み・心の傷・心の病)をいろいろな角度から考えるネットカウンセラーのブログ

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「アドラー心理学と子育て」の4回目です。

前回から「親が子どもに行うべき適切なコミュニケーション」をテーマに話をしています。

前回は、親子であっても、対等な関係をつくる「横の関係」をもつことと「課題の分離」が大切であることをお話ししました。


【「課題の分離」=見守りつつ放任する】


アドラー心理学では、「課題の分離」は重要な考え方ですが、これはなかなかできるものではありません。

親から見ていて、子どもに任せていたのでは解決できそうにない課題があった場合は、どうしても親が介入したくなります。


例えば「子どもが宿題をしない」という課題などがそうですね。

(今回は宿題を例にお話ししますが、子どもの様々な課題に置き換えて考えることができます。)


アドラー心理学では、宿題は子どもの責任の範囲内にあると考えますから、宿題に関して親がやかましく介入することは勧めません。

子どもが宿題をやらないからと言って、親が子どもに対して「宿題をしろ」と強制することは考えものです。

こういうことが積み重なると、「自分は自主的に宿題をやる能力がないから親から言われないとできない」という無意識の考えを心に蓄積する子ども(Aとします)になっていくかも知れません。

Aはやがて、「誰かに強制されないと勉強できない」「誰かに指示されないと動けない」という傾向をつくってしまうでしょう。

このようにして形成されるのが、アドラー心理学で言う「ライフスタイル」です。

ライフスタイルとは、人生における思考や行動の傾向のことです。

世界観・人生観や性格と言っても良いでしょう。

アドラーは「最初のライフスタイルができるのは10歳ぐらいのとき」と言っています。

ただし、「子どものライフスタイルは親がつくってしまう」と考えるのは誤りです。

ライフスタイルは子どもが「選択」してつくりあげていくものです。

この「選択」というのは、ほとんど意識されない次元のものです。

例えば、先の例で、親が子どもに「宿題をしろ」と強制したとき、Aは「指示待ち人間」の傾向をライフスタイルとして選択していることになりますが、同じように親から強制されたAの弟Bは、「親には何でも反抗する」というライフスタイルを選択するかも知れません。

こういうことってよくありますよね。

親が同じような指導をしていても、子どもによって受け取り方が違う・・・これがライフスタイルは子どもが「選択」してつくっていくということの証です。

そして、「自らが選択してつくるライフスタイル」という考え方は、「選択を変えればライフスタイルは変えられる」すなわち「人生観や性格を変えられる」という「自由」を保障してくれるのです。

問題は、「無自覚的につくられていくライフスタイルを、いかに意識してつくっていくか」ということです。


それでは、子どもに自分のライフスタイルを自覚させながら、幸福な人生を歩ませるためにはどうすれば良いのでしょう。

基本的には放任しておくことです。

「放任」は「自由に任せておく」という意味で、「放っておく(ほったらかしにする)」とは違いますよ。

もう少し言えば、「見守りつつ放任する」というのが、課題の分離をした後に親がとるべき姿勢だと思います。


宿題の例で言えば、宿題を全然やっていない子どもに気づいていながら、それを見て見ぬふりをします。

そして、いつか「宿題をやらない理由」を子どもに語らせるタイミングを計るのです。

その時の質問も用意しましょう。

例えば「最近、宿題をやってないみたいだけど、何かできない理由があるの?」

といった具合です。


だいたいの親は、ここで「怒る言葉」を探してしまいますね。

「怒る言葉」ではなく、子どもに「何かを気づかせる質問」が必要です。

その「何か」というのは親が決めるのではありません。

子どもが「自分自身の答」として見つけるものです。

それは、「宿題ばかりやっていたのでは、友達と遊べないので、友達ができなくなる」という答えかも知れませんし、「宿題をやっても全然分からないからつまらない」という愚痴かも知れません。


宿題をやらない子どもは、たいてい「やらない理由」を自覚することはありません。

その「分からない理由」を「やり気が起こらないから」という言葉に置き換えて正当化しようとします。

それを聞いた親は、「やる気が起きるまで待とうか」という気になります。

これは、親が子どもの「やり気が起こらない」という「逃げの理由」にうまく騙されているのですね。


「やる気を待つ」ことが「逃げの理由」になってしまうのは、大人の経験からも分かるのではないでしょうか?

一体、世の中に、やる気がない事がらについて、「やる気が出たのでやり始めた」という事例がいくつあるでしょう?

あまり無いのではないでしょうか?

「半分やる気はないけれど、しぶしぶやり始めたらしだいにやる気が出てきた」というのが大概ではないかと思います。


「宿題はやらなくてはいけない」と分かっているけれど宿題をやらない子どもに関しては、今言ったような体験ができるようになれば、「何事も、やる気が起きるのを待つのではなく、まず行動」といった教訓を自ら学ぶかもしれません。

その教訓を学ぶような体験をもたらすためには、やはり親の関わりが必要となります。

課題の分離をした後に、親が子どもを「見守りつつ放任する」というのは、課題に行き詰まっている子どもに「何か教訓になるものを引きだして欲しい」という願いを持つということでもあります。

ですから、放任しつつも見守り、時に子どもが自ら答えを引き出す関りを持つという姿勢が必要なのです。


それでは、子どもが最初の一歩を踏み出すにはどうしたら良いのでしょうか?

先に「やる気がない」は「逃げの理由」と言いました。

そんな理由ではなくて、宿題をやらない「本当の理由」を子どもに見つけさせることです。


ここで、注意すべきは、「親がいちいち勉強に干渉してくるから宿題にやる気が出ない」とか、「自分は意志薄弱なので、宿題をやろうと思ってもすぐに嫌になる」といった理由は、何の解決にもならないということです。

理由を「過去的な原因」に求めないことが大切です。

「過去的な原因」とは、「過去に築いた他人との関係」とか「過去に形づくられた性格」などのことです。

アドラー心理学では、「過去的な原因によって結果が生じた(原因論)」という考え方をとりません。

「原因論」ではなくて「目的論」をとります。

「目的論」とは、「何を目的にしてそんな行動をとっているのか?」という視点から物事を捉える考え方です。

これは、アドラー心理学の大きな特徴です。


【「何のために」という質問と課題の分離】


宿題をやらない「本当の理由」とは、「宿題をやらない“目的”は何か」ということです。

子どもに「宿題をどうしてやらないのか?」と訊くと、子どもはたいてい「やる気がでない」といった原因論的な理由を答えます。

その時は、「できない原因が何かではなくて、何のために宿題をやらないのか自分で考えてみると良いと思うよ」と子どもに伝えてみましょう。

「目的は何か」という言葉は使わない方が良いでしょう。

「目的」という難しい言葉を使うと、子どもは考えるのがめんどくさくなります。

「何のために宿題をやらないのか」と言うと、子どもには新鮮で驚きの質問となるでしょう。

なぜなら、子どもは、宿題ができない原因を自分以外の多くのものに求める思考には慣れていますが、「何のために」という思考はほとんどしたことがないからです。

そして、「何のために」は、完全に自分自身がつくり出しているものですから、宿題をやらない理由を自分以外のものに求める分けにはいきません。

「何のためにできないのか」を問われるということは、「できない理由」ではなく「やらない理由」が問われているということです。

子どもは「できない理由」を探して言い訳することが難しくなり、「やらない理由」を求めて自分と向き合うことを強いられます。


この「何のために」という問いかけで目的論的な思考を展開できるのですが、これを「意味づけ」と言います。

アドラーは「意味づけ」について次のように言っています。

「人間は客観的な現象に対して、人それぞれ違う意味づけを行って主観的に見ているのであり、出来事に対する自分なりの意味づけが、自分の性格や生き方を決めている」

同じ宿題を出されても、ある子ども(C)はその宿題をさっさと済ませ、ある子ども(D)はその宿題をいっこうにやろうとしないというのは、CとDで宿題に対する「意味づけ」が違うからです。

「何のために」という問いかけは、その「意味づけ」を子どもに悟らせる言葉とも言えますね。

「たかが宿題」でしょうが、もしかすると、その宿題に対する子どもの「意味づけ」によっては、その子の性格や生き方を暗示するものがあるかも知れないのです。


アドラー心理学が「意味づけ」を重視する大きな理由は、「“意味づけ”を変えれば性格や生き方を変えることができる」と考えるからです。

アドラーはこう言っています。

「人は経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自分を決めている」

これを言い換えれば、「経験に与えた意味のを変えることによって、自分を変えることができる」となるでしょう。


「何のために宿題をやらないのか」の理由として、子どもが、「宿題ばかりやっていたのでは、友達と遊べないので、友達ができなくなる」という答えを出したとしましょう。

親が子どもと会話をしながら次に出す質問を、「それでは宿題があると友達ができないということかな?」とするとどうでしょう?

おそらく子どもは少し考えると思います。

ある子どもは、「“友達ができない”というのは宿題をしない言い訳にしか過ぎない」と悟り、新たな「宿題をしない意味」を探すようになるかも知れません。

また、ある子どもは、「“友達ができない”ことが深刻な悩みであって、“宿題をしない”ことはその言い訳にしか過ぎない」ことに気づくかも知れません。


子どもが課題に行き詰まっている時、原因論的な理由(言い訳)は排除しながら、「何のために」に絞った質問をして、子どもの自発的回答を引き出すことが肝心です。


子どもへの対応の最悪なケースとして、ある父親の子どもへの対応を一例に挙げてみます。

母親は、子どもが宿題をやって来ないことを学校の先生から指摘されました。

それまで、母親は時々宿題をやらないことを子どもに注意していて、それを父親にも相談していましたが、父親は全く無関心でした。

父親は仕事の忙しさにかまけて、子どものことは母親に任せきりだったのです。

しかし、学校の先生から宿題をして来ないことを注意されたと聞いた父親は、子どもを厳しく怒りました。

この時、子どもは父親に対して激しい拒否感を抱きました。

それ以来、子どもと父親は険悪な関係となっていきました。


なぜ子どもが激しい拒否感を抱くようになったか分かるでしょうか?

それまで何の関りも持とうとしなかった父親が、学校の先生に注意されたからと言って、急に父親面して干渉してくる・・・こういうやり方は当事者の子どもでなくても納得いくものではないですよね。

父親からすれば、確かに形の上では課題の分離を行っていると言えるかもしれません。

しかし、子どもはその課題の分離が受け入れられなかったのです。


こういうケースに限らず、一般的に「課題の分離が受け入れられない」ということにも目的があります。

その目的とは、「“所属感を感じたい”という目的」です。

そもそも「課題の分離ができていない」というのは、何らかの対人関係的環境に所属している状況から生まれます。

課題の分離とは、「相手は相手、自分は自分」と割り切ってしまうということですから、「相手から求められたい」「相手に求めたい」といった思いを断ち切ることになります。

課題の分離を極端に推し進めていくと、所属感を感じられなくなる可能性が出てくるのです。

親子関係で言えば、「家族的なつながり」を感じられなくなるということです。


ただ、そうなってしまうと、おそらく「課題を分離している」というより、「お互いに無関心になっている」と言った方が良いでしょう。

課題の分離が「課題の分離」として意識されるためには、互いに干渉はせずとも、相手の「課題」を認識し、それに関心を持っておく必要があります。

それによって、互いに依存的にならず、適度な距離を保った所属感を持つことができます。


先の父親は、完全に子どもに無関心であったに過ぎないのです。

それが急に関心を示して父親の威厳を示そうとしたのですから、子どもにとっては迷惑な話です。


所属感が感じられるというのは、アドラー心理学が目指す「共同体感覚」の獲得のために重要なことです。

親子関係では、課題の分離をしつつ、互いに所属感(家族的なつながり)を感じられるような関係づくりが必要となるのです。



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