和歌山市歴史マップ 秀吉の紀州征伐6 太田城水攻め1 | ユーミーマン奮闘記

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JR和歌山駅東口 太田左近像

 

2週間にわたって太田城はどんなお城だったのかを掲載しました。

 

今回は秀吉の紀州征伐3で紹介した。天正13年3月25日

秀吉軍別働隊が南紀へ進軍しているすきに、宮郷の代表者などが

太田左近のいる太田城に集結蜂起したところからはじめたいと思い

ます。

 

惣光寺由来并太田城水責図  部分      惣光寺蔵

 

秀吉軍はすぐさま10万の兵を移動させ、太田城を取り囲みます。

大勢で囲んだ上で、和睦の使者として中村一氏、鈴木孫一を送りますが、太田左近は自治国(惣国そうこく)を認めないなら。

徹底抗戦すると告げました。

 

 

秀吉は取り囲んだまま放置し兵糧攻めにしようと考えましたが、この城は食料は十分で兵糧攻めをすると時間がかかりすぎます。

また、まともに攻撃すると岩橋川(田井ノ瀬)の時のように(秀吉の紀州征伐3参照)どんな戦法で攻めかかってくるかわかりません。

秀吉は急遽水攻めに作戦を切り替えました。

 

秀吉は本陣を太田城から北の月蔵院(北黒田推定)に陣をかまえます。

 

 

秀吉軍10万VS太田軍5千

これが当時の布陣図といわれているものです。

書かれたのが江戸時代になってから、優閑斎寛慶の作

根来焼討太田責細記     個人蔵

       

       秀吉軍

 

出水村          中村一氏、田中吉政(久兵衛)、

              佐藤隠岐守(秀方)

出水堤防付近      宇喜多秀家 

東黒田堤前       堀秀正 長谷川秀一 塩川長満

              青木一矩 杉原家次 生駒親正

黒田本陣前      ※筒井定次 高山右近 

              堀尾吉義(茂助) 

               中川秀政   浅野長政 細川忠興(長岡)

               蒲生賊秀 前野長秦

友田町          増田長盛 大谷吉継(刑部) 

              小西行長 蜂須賀正勝

その他          毛利水軍 鈴木孫一

 

本陣(北黒田)     豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次

 

他6万~10万の兵

※図では筒井順慶となっているが小牧長久手の戦いの後重い病にかかり紀州攻めに参加したのはおそらく息子の筒井定次の誤りか?

 

(根来焼討太田責細記布陣から推定)

秀吉軍は有名な武将たちが総がかりといった感じです。

 

 

       太田勢

 

城主            太田左近、 

副将                       亀井対馬守

       三十六将

 

左近の弟         太田源二郎、 

左近の大老        太田 太郎次郎

組頭                       太田 四郎左衛門

               太田 源十郎

               

黒田村           黒田喜内太夫

中ノ島            島田 孫太夫

吉田村           吉田 右平次

有家村           戸口 与惣

               有家 若右衛門

秋月村           村上 九郎祐

神前村           島村 掃部

岡崎村             西村 甚右衛門

他               戦闘員1,000名 

 

僧、尼、女、子供、逃げ込んできた村人たちあわせて4,000名

そのほとんどが武器を持たない非戦闘員でした。

 

   

秀吉は堤を作るために、早急に泉州や紀州で秀吉に寝返った地域の農民たちに呼びかけます。

集まった人夫は何と延べ46万9千人。(紀伊国名所図会・紀伊続風土記・太田城由来并郷士由緒之事参照)

根来焼討太田責細記では延べ16万9千人とあります。

もちろん延べ人数ですから一人の人夫が1日ではなく数日働いた回数もカウントしているので実際集まった人数はもっと少ないでしょう。

それを差し引いてもすごい数です。

 

太田勢が取り囲んでから工事が始まるまでの期間が余りにも短いので、水攻めも視野にいれて少し前から段取りしていたのかもしれません。

またこの桁外れな人夫は秀吉が天下人の権威を見せ付けるために大げさに数字を書いたのではないか?と考えるでしょうが、秀吉側、太田側ともに驚くような人夫の人数が記録されていますので、その数の人が集まったのでしょう。またそれくらいの数がなければ水攻め堤防を短期間で作ることは不可能と言えます。

 

紀州御発向事によると
秀吉は各大名に与えた石高に応じて堤工事の割り振りを行い、堤1間あたり6人一組で担当。交代で、24時間フル稼働で続けられ、堤の

高さ 7m 天端部 9m、土台幅 30m。堤の長さは全長5キロ余りというとてつもない規模です。(この値は標高が低い場所での事。それより高い土地では土を少し積み上げるだけで水攻め可能な高さとなるので天端標高は低くて済んだはずですが)それを5日で完成させたというのですから驚きです。

 

土は堤防の内側や外側を堀り、それを俵につめて積み上げる方法で

行われたそうです。

あまりの規模の大きさから、秀吉の太田城水攻めは本当はなかったのでは?との噂もありますが、中黒田にあったとされる堤防跡、

今も残っている出水堤防と、太田黒田遺跡や友田町遺跡の発掘調査で、堤を作ったと思われる土取りの跡が水攻め堤防推定ラインから発見されていることや有家付近に土取(つちとり)という小字名が残っていることから真実性は高いのではないでしょうか?

 

下図は水攻め堤防のあったとされる場所です。赤マーカー部分。

八軒家→出島→出水→中黒田→友田町→美園町→有家→秋月→

鳴神 これだけの地域に堤防を築いたと推定されています。

 

これは県道市駅小倉線出水付近からの眺めです。右が歓喜寺です。

水攻め堤防は道の左側に作られていたと推定されています。

 

とてつもない大工事!

わずかな期間の間に太田城周辺地域は秀吉軍の兵と人夫で埋め尽くされたと想像します。考えてみるとすごい光景ですね。

 

工事の最中に宮井川の上流の取水口を堰き止め、いったん水をすべて流してしまってから、外周の堤を作ります。

最後に旧大門川の川底に土塁を積み上げ、川を塞ぎ、宮井川取水口の堰を開き注水。

宮井から勢いよく流れだした濁流は旧大門川を堰き止めた堤防にぶつかり四方へと流れ出します。

 

堤防は城から狙い撃ちされない距離に作り、昼夜枯れ草や藁などを燃やして煙幕をつくり工事がよく見えないように工夫したそうです。

 

その時の秀吉水責めの堤防が今も残っています。

 

出水堤防 

 

これが天正の出水堤防です。きのくに信用出水支店の隣の小高い丘のようなものが水攻め堤防の跡です。もう一つそこから東側にも残っています。

東側の出水堤防跡 

 

当時はもっと高かったのでしょうが、長い年月のうちに削られて屋根の高さほどしか残っていません。

日本3大水攻めのうち高松城水攻め堤防は全長3キロ弱 忍城は13キロ 太田城は5.7キロと2番目大きい規模の水攻めとなります。

 

 

堤防は天正13年3月26日頃から工事が行われ、

4月1日頃から注水!

(根来焼討太田責細記では28日に完成し水を入れているが不明

工事開始と水攻めの時期は資料によって異なる)

宮井川から注水します。水はいったん太田城が以前から城を水害から守るために作られていた横堤で止まります。

しばらくすると横堤で止まった水が溢れ出し、堤を越えてゆっくりと

太田村に流れ込みました。

 

根来焼討太田責細記ではその様子をこう記しています。

泥水天を覆い、一面泥海の如し、堤の内の村々は高きは床の上低きは梁を湿し、或いは漂い流れたる在家あり。然れども城門は兼ねて用意の横堤あれば、水少しも入らず。

周囲の村々は水に浸かったようですが、城内は横堤によってしばらくは守られたようです。

しかし、しばらくすると城の周囲は海のようになり、城外へ一歩も出れなくなりました。

 

城が水没する前に根来焼討太田責細記では、秀吉軍の武将たちが武功を得るため紀の川から安宅船を乗り入れ、攻撃を仕掛けたとあります。この時代、戦で敵方を何人倒したかが評価の対象となった時代です。相手が水におぼれて降伏を待つのみでは、所領もお金も得ることができません。我も我もと攻めかかりました。

しかし鉄砲にかけては凄腕ぞろいの太田勢、城からの鉄砲の狙い撃ちで秀吉勢も容易に城へは近づけず戻ってくることになりました。

 

 

そして戦闘があった夜、一つの出来事がありました。

 

根来焼討太田責細記には、城が水に囲まれたある夜半 

城から一艘の船が静かに近づいて来たかと思うと、朱色の槍を持った一人の武者が佐藤勢の船にたった一人で向かってきて、槍を振りかざし暴れまわったとあります。

 

秀吉軍の田中久兵衛が格闘の末、取り押えると、

その者はなんと女性で朝比奈摩仙奈(あさひなませんな)という

尼法師でした。

武士ではなく、民間人。

男ではなく女性であるにもかかわらず、

その死おも恐れぬ勇猛さに皆はあっけにとられました。

田中久兵衛は急いで、摩仙奈を秀吉のもとに連れて行くと。

秀吉はあっぱれな奴と大いに感心し、

命を取らず、またもとの船に乗せ太田城へ追い返したと

記されています。

 

太田勢は少数なれど、武士だけではなく集ったすべての者が

一丸となって城を守っているんだということを秀吉軍にまざまざと

見せ付けたエピソードとして今も語り継がれています。

 

水は最初は緩やかに太田城側の横堤を越える程度でしたが、

その後大雨が降り、宮井川の水嵩が増し、とうとう横堤が決壊! 

 

大量の水が一機に城内へと流れ込みます。

水はやがて城の土塀を越え、

篭城している者は腰まで水に浸かる有様

これではもう戦えません。

 

そのときの様子を根来焼討太田責細記はこう記しています。

 

鼠、鼬、獺、蛇など水に漂い、人の腰膝とも言わず匍のぼりければ

城中の老児女子ら大いに恐怖し、周章ふためき、嘆き悲しみ

大将分会合して評議区々也

 

ねずみやイタチ、かわうそ、へびなどが水に漂い人の腰や膝に上ってくるほどである。集まった老人、子供、女たちが、腰まで水に浸かり恐怖におののくので、太田城の中で代表者が会合を持ち、これからどうするか評議したとあります。

 

そして、だれもがこれで終わりと死を覚悟した時。

 

太田勢に思わぬ幸運が訪れました。

 

 

いったい何が起こったのでしょうか? 次週のブログで紹介します。

 

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秀吉の紀州征伐1~6

 

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秀吉の紀州征伐7