和歌山市歴史マップ 秀吉の紀州征伐4 太田城とは? | ユーミーマン奮闘記

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和歌山市 太田 来迎寺 太田城跡の碑

 

前回は秀吉紀州征伐で紀州雑賀惣国最後の城、太田城へ秀吉軍

が迫り10万の兵で取り囲んだことを書きました。

 

では太田城とはどのようなお城だったのか?

和歌山市では和歌山城は有名で徳川吉宗がいた城として誰もが知っていますが、太田城は城跡がはっきりしておらず、残った建物はほとんどありませんのであまり知られていません。

 

城ができたとされるのは室町時代。

応仁の乱が終わり、これからいよいよ戦国時代へむかう延徳年間

に、紀伊の国造。紀俊連が、神領保護を目的として秋月城、三葛城 、太田城を築城したと伝わっています。

 

その後太田左近が敵から強固に守れるよう改修したとも言われています。

今では幻となった大城 太田城。

天正13年紀州征伐に秀吉に同行したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがそのときの記録を残していますので紹介します。

宣教師 ルイス・フロイス

 

ルイス・フロイス イエスズ会日本年報 1585年追加

残った城はもっとも重要なオンダナシロ(Ondanaxiro)と称するもの

のみとなったが、この城はひとつの市の如きもので、雑賀の財宝は悉くここに集め、根来ならびに雑賀の重立った諸将もまたここにいた。 軍需品、兵士及び食料は非常に多量で、日本の常食である米のみでも20万俵を超えたということである。而してこの城ははなはだ

堅固で、四方に十分備があったので、突撃によって攻め入ることは困難とされた、、、、、

 

 

天正の時代、この和歌山の太田が宣教師ルイス・フロイスによって

ポルトガルをはじめヨーロッパ世界へ紹介されていたことは驚きです。

 

太田城由来並郷士由緒記 個人蔵

 

これは秀吉の頃の太田城の地図です。大阪城から見た太田城の姿を描いていますので、北と南が逆に描かれています。

これを見ると東西に二町半 南北に二町の城壁で囲われた城になっています。(最近の発掘調査では二町半四方と判明)

東に大門があり、そこから大道(ひろみち)とよばれた街道が八軒家の渡しまで伸びています。城の南にも門があり、橋が架かっています。

 

総光寺由来並太田水責図        総光寺蔵

 

これは水攻めの絵図ですが、これを見ると中央に天守らしきものが

あり、四方に2階建ての櫓のようなものが置かれています。

右側にあるのは門のようです。町が水没したあとの天守付近の様子です。城の周囲は土塀で囲まれており、よく見ると鉄砲を撃つための小さな穴がたくさんあいています。

現在では和歌山城の岡口門付近の土塀に鉄砲窓がありますが、

当時太田城には絵で見る限りたくさんの鉄砲窓があり、近づくものは

そこから鉄砲で狙い撃ちされたのでしょう。ここに太田城が攻めにくい

とされた理由があります。

堀の跡は水没しているので、実際城の範囲はもっと広かったのではないかと考えられます。

 

 

これは現在の航空写真を元に城の推定地を示してみました。

中央の来迎寺、玄通寺付近を本丸として、南に南大門がありくぐると堀があり石橋が架かっていました。(遺構なし)

近年の発掘調査では、その南東の向陽高校付近で大堀が見つかっています。東には大門。川と門の間に旧大門川の氾濫を防ぐために築かれた横堤が北に伸び現在の黒田弧線橋前の道付近まで延びていました。(現遺構なし)

西には西北門がありすぐそばに堀がありました。

近年の太田黒田遺跡の発掘調査で北側と西側では2重の堀に囲まれていた可能性が浮かび上がり注目されています。

 

東側は旧大門川が流れ、外堀とし、日前宮の森と旧大門川の間の空間は攻め込まれないよう秋月城の出城を造り守らせました。

これは太田の町を曲がりくねるように流れる旧大門川です。

今では雨水を排水する溝程度になっていますが、

当時の川幅は今の何倍も大きく水量も豊かで、物資を積んだ船が行き来していたそうです。

 

北は2重の堀に囲まれ、外堀は現大門川が利用されました。

北の守りは堅固であったようで、発掘調査では、幅10メートル深さ3メートルの大堀(太田黒田遺跡発掘調査)が見つかり、いかに太田城が大きかったかを知る手がかりとなりました。

 

西側は大きな堀ではなく用水路並みの堀を2重にめぐらしていますが

外堀は和歌川、当時美園の向こう新内辺りが川原だったといいますから。西からの進入は川にさえぎられたのでしょう。

 

南は守りが手薄で中島辺りから侵入は可能だったと思いますが、

中島の手前三葛には三葛城、和田付近から陸に上がると井辺の山の中に井辺城があって攻め入る者防ぎました。

太田城にたどり着くまでこの2つの城を落とさなければ宮郷の中心へは入れず攻めるのに困難を極めました。

 

城内は、ルイス・フロイスによると、一つの市のようなものだったといわれていますから、その場所に商いする店が並んでいたに違いないと思います。現在の航空写真から見ても1つの町が入ってしまう広さ、

中には市場があり、米蔵があり、武器庫があり、寺院もあったことが

想像できます。

 

現在残っていたら、中世の城を知る一級の文化財となったのでしょうが

秀吉水攻めの時、放火炎上し、その後土塁を含め土に埋められてしまい今はその姿を見ることはできません。

 

航空写真の上部緑で縁取られた部分は秀吉水攻めの堤防跡です。

詳しい説明は後のシリーズでじっくりと紹介します。

 

今回は現存する太田城の当時の遺構を2つ紹介します。

まずは道です。航空写真に大道(ひろみち)とありますが、これが

戦国時代の太田城から大阪方面へ向かう街道です。八軒家街道とも

呼ばれています。

絵図で中央に描かれている大道筋というのが大道(ひろみち)です。

 

 

現在の航空写真で見るとこのような感じになります。

旧大門川から出水の町の中をまっすぐに伸びています。

これが当時の絵図とまったく同じ形で残っています。

 

地上から見た大道です。現在では大道とはいえませんが、当時は

馬や兵を移動させるための重要な道路でした。

 

もう一つは大道(ひろみち)から旧大門川を渡った辺りにあった大門

です。大門川の名前の由来太田城の大門が川のそばにあったことに由来するそうです。

この大門は城が放火されても焼けずに残り、

現在でも見ることができる唯一の建造物です。

 

太田城大門

これが太田城大門です。

焼け残った大門は水攻めの後功徳寺に移され、戦後になって

橋向丁にある大立寺に移築されました。(和歌山県指定文化財)

(紀陽銀行橋向支店・西側)

 

内部の様子です。戦国期の質素な構えですが、柱はしっかりしていて

力強さを感じます。

山門は薬医門形式。

梁のレリーフも質素、いかにも戦国らしい。

 

次回は太田の城の中に、市があり町があった?

というについてもう少し掘り下げて探ってみたいと思います。

 

裏地工務店HP

http://www.uraji.co.jp/

 

秀吉の紀州征伐1~6

 

秀吉の紀州征伐1

秀吉の紀州征伐2

秀吉の紀州征伐3

秀吉の紀州征伐4

秀吉の紀州征伐5

秀吉の紀州征伐6

秀吉の紀州征伐7