和歌山市歴史マップ 秀吉の紀州征伐2 根来焼討 | ユーミーマン奮闘記

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~和歌山営業所の日常~

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前回、戦国時代、現在の和歌山市周辺は雑賀惣国(そうこく)といい

一般民衆が国を運営する、独立国家であったことを書きました。

 

室町時代中期から戦国時代には朝廷や公家の支配も受けず、大名による統治も退けて民衆だけで運営していた惣国がいくつかありました。

小規模なものではのような商人だけの自治の町、寺院やその信徒

たちで治める国、また宗教による団結から生まれた(加賀の一向一揆)など、

しかし、そのほとんどは戦国大名から武力を受け消えていきました。   その中で最後まで抵抗をつづけ勝ち続けていたのが和歌山の雑賀惣国でした。

 

孫一まつり根来鉄砲隊

 

天正13年、天下統一を目指す豊臣秀吉は、織田信長でも破ることができなかった紀州へと進軍します。

なぜ紀州征伐をしたのか?

豊臣秀吉にとってこの頃、もっとも頭の痛いことは、前年徳川家康小牧・長久手の戦いが起こり、兵の数では圧倒的に有利な戦いだったにも関わらず大敗したこと。

この戦いの後家康とは和睦するが、

徳川家康の強さが全国に知れることとなり、秀吉の天下人の面目はまるつぶれ、加えて大阪城を取り囲むように紀州、四国、淡路などの反秀吉派が徳川家康と通じ秀吉包囲網を作っており、

徳川家康とは和睦したものの、家康は従わず今だ上洛せず。

いつ何時反秀吉派と通じ攻めてくるかわからない状況で

一刻も早く不安材料である紀州の雑賀惣国をつぶしておかなければならないと感じだからだとされます。

もう一つの理由は民衆が治める国である惣国は秀吉が進めようとする

ピラミット型の武士による封建社会にはそぐわなかったこと。

一般民衆は支配される側。武士は統治する側としてはっきり区別をつける必要があり、中世の下剋上の世の中を終わらせる意味がありました。

 

天正13年3月21日秀吉は大阪城を総勢10万の兵で出陣。

21日、22日のたった2日間で根来衆、雑賀衆、太田衆の守る泉州の沢城、田中城、畠中城、積善寺城、千石堀城を落とすが秀吉側にも多少の犠牲はあったようだ、泉南の城が次々落ちると紀州勢は敗走し

根来、雑賀へ向かいます。

3月23日秀吉軍は根来衆の本拠地根来寺へと迫ります。

 

根来寺は室町時代には幕府の保護を背景に和泉8か所の荘園を領有し、紀北から河内南部に至る勢力をもっていました。このころ、

寺内には450以上の僧坊があり、5000人が住んでおり、大量の鉄砲を持っていたそうです。

国宝根来寺大塔 

 

迫りくる秀吉の大軍を根来、太田衆が一時は交戦するが紀州勢の主力の兵は泉南の戦に出て帰らず。圧倒的な兵の差により寺より敗走します。

ただ津田監物照算は一歩も退かず勇敢に戦い秀吉軍の増田長盛に討たれました。(根来焼討太田責細記)

幸いに僧侶、寺に住む一般の民衆は秀吉が攻めてくる前に逃亡し

織田信長の比叡山焼き討ちのような悲惨な事態は起きなかったようです。

その後、秀吉軍の放火か、根来衆が敗走するときに放った火かどうかはわかりませんが、国宝根来寺大塔をはじめわずかな建物を残し消失。

その戦いで着けられた銃弾の後が今も大塔には残っています。

大塔に近づいてみると。

扉、柱、壁板に下から撃ち込まれた銃弾の後が今も生々しく残っています。

塔の朱に塗られた部分にも多数弾痕がある。

 

 

アップにするとこんな様子。弾痕はかなり深いところまで入りこんでいます。

 

 

大師堂です。天正の兵火に焼け残り、当時のままの姿と留めています。

 

 

大門の仁王像です。江戸時代の再建されたもの。

 

根来寺大門

秀吉はこの後、粉河寺を焼討ち、いよいよ紀ノ川を渡り、太田衆の本拠地太田城を目指して進軍することとなります。

次回はその様子を紹介したいと思います。

 

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