和歌山市歴史マップ 秀吉の紀州征伐7 太田城水攻め2 | ユーミーマン奮闘記

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~和歌山営業所の日常~

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前回濁流が城の塀を乗り越え城内に流れ込み。

篭城している人たちが、まさに死を覚悟した時。

思いもよらず、太田勢に幸運が訪れた!という

ところからはじめたいと思います。

 

一体何が起こったのか?

 

水攻め開始から9日目の 天正13年4月9日 大音響とともに出水の切れ戸口付近(旧大門川を塞いだ位置)で秀吉側の水攻め堤防が突然壊れたのです。

 

濁流はその前に陣取っていた宇喜田 秀家 軍を直撃。(現在出水のツルハドラックから歓喜寺付近にかけての地域(推定))

多くの兵が濁流に呑み込まれていきました。

(きのくに信用出水支店のあるところがキレトグチという地名です。

キレトは切れ戸であり、堤防が切れた場所という意味です。)

 

 

 

幸い秀吉の本陣は北河原(北黒田)の微高地にあり難をまぬがれました。

現在の場所に重ねてみるとこんな感じです。

拡大してみると黒田公園の北側に戦国時代の黒田の小字北河原(月蔵院)があり大門川へと旧街道があります。西は宮北保育所周辺から東は現在信節湯のあるところ周辺に秀吉本陣があったと推定されています。

 

それにしてもなぜ水攻めの堤防が崩れたのでしょう。旧大門川を塞いだところは堤の表側は水の塊、裏側には水はなく空の状態です。

今のコンクリートの堤防ではなく土のうを積み上げ土で固めた堤防は水が浸透しやすく、長時間水に浸かったままになると浸透した水が裏側へ漏れ出して水の道ができる(ハイピング現象)を引き起こします。

それが堤防自体を決壊させる原因となります。

太田城の水攻めはこのハイピング現象によるものだと言われています。

 

おぼれる寸前だった太田城勢はこの破堤に救われます。

城内の水は見る見るうちに引いてゆき、

篭城した者たちは神意を感じて、再び戦う意思を固めました。

 

一方秀吉の面目は丸つぶれ

たった5千の兵を10万の兵で取り囲み、しかも反対勢力に自分の権力を見せるつもりで大掛りな水攻めをやりながら、ここにきて失敗となると大恥です。

                   豊国神社 豊臣秀吉像

 

またこの頃の秀吉は朝廷に高い官位を求めており、織田信長ですら成し遂げられなかった紀州平定を自分が成し遂げることで、官位獲得に有利になると思っていたところ、これでは朝廷への面目も立たず

天下人への道も遠のくことになりかねません。

秀吉は出水の水攻め工事をした宇喜田秀家を呼び出しました。

 

秀家はすぐさま秀吉のもとに駆けつけ、自分の責任だと詫び、罰を受ける覚悟を示しましたが、秀吉は怒らず、水の勢いが強すぎたのだろうと許し、すぐに修復するようにと命じます。

 

太田城水攻めに関する文献でこの破堤のことについて

太田城側から書かれたものは詳しい記述はありますが秀吉側の文献にはあまり詳しく記されていません。秀吉はこの破堤が原因で1週間で決着がつく戦いが1ヶ月近く長引かせてしまったことを知られたくなかったのかもしれません。

 

水が干上がった時点で太田勢から太田勢側に有利な条件で和睦の話が来ますが、秀吉は拒否

 

早急に水攻め堤防の修復し、再び水を流し込みます。

 

しばらくするとまた城は水に覆われました。

 

破堤以降水攻めの水位を少し下げ堤防が持ちこたえるように工夫したと考えられます。

 

秀吉に随行したポルトガル宣教師ルイス・フロイスの記録によると

堤防が修復した後、秀吉は小西行長に命じて水軍を従え、太田城を鉄砲で激しく責めましたが、太田勢の攻撃も激しく秀吉は退却の命令を出したと記されています。

 

水攻めから2週間近くたち太田勢は疲弊しているにもかかわらず秀吉軍に必死で抵抗し城への侵入をくい止めました。

 

太田勢は頼るべきところもなく孤立し篭城します。

協力関係であった徳川家康は小牧長久手の戦いの後,

秀吉と一応和睦の形を取り頼れず。

武力と経済的基盤だった根来は炎上。兵は離散。

雑賀の他の城はすでに落ち、

精神的支柱だった日前宮は社殿を破壊され所領を没収。

太田勢の心のよりどころはことごとく兵火の中に消えていきました。

 

必死で抵抗し苦しむ太田勢を楽しむかのように、

秀吉は4月17日に織田信雄を、4月18日には秀吉の養子となった義伊(結城秀康)を招待し、水攻めを見物させています。

天下人秀吉の実力を徳川家康に見せ付ける目的だったのかもしれません。(中世終焉秀吉の太田城水攻めを考える・太田水攻めの歴史的考察より)

 

秀吉軍は4月21日にもアタケ舟をだして攻撃を加えますが落城することができませんでした。

 

しかしその激しい戦闘に疲れ果てたのか4月22日。

太田勢はもはやこれまでと降伏を決断します。

 

秀吉は蜂須賀正勝・前野長康を使者に送り。

太田左近をはじめ主だった武将53人の首を差し出すように

と言いました。

太田左近は自らの命と引き換えに城に残る女、子供、農民、

下級武士を助けてほしいと嘆願。53人と共に切腹して果て,

ついに太田城は落城しました

 

秀吉は左近の願いを受け入れ、農民たちから刀や鉄砲などの武器を取り上げ、武装解除して農民として生きるならば命を助けようと告げます、秀吉は篭城者を皆殺しにせず、平和的解決を選んだのです。

これが秀吉の刀狩り・兵農分離のはじまりといわれています。

武装解除して農民として生きるならば鋤、鍬を返し、今までどおりの土地に住むことを許し、兵糧米を当面の食料として与えるなどということも行いました。

 

22日中に女、子供、老人が城より開放され、23日下級武士が開放されますが、主だった武将の妻は許されず大阪へ連れて行かれ、天王寺で磔となりました。

 

篭城者すべてを城から出した後、城は放火され炎上。

残った焼土はは四方の堀に埋められ、

太田城は影形もなく土の下に消えうせました。

近年の太田黒田遺跡の発掘調査で太田城の堀跡から焼けた土が大量に発見されています。

太田来迎寺にある小山塚 太田左近をはじめ切腹した53人の烈士

の慰霊塔。数日で落城するとされた太田城を1ヶ月間守り抜いた。

紀州の魂を世に知らしめた戦いでした。

 

秀吉は紀州攻めで神社仏閣ことごとく焼き尽くし破壊。

中世で朝廷すら立ち入れなかった寺社勢力から武器を取り上げ刀狩りを行います。

寺社が権力を持つ時代は終わりを告げました。

また農民と武士の区別をはっきりとさせ、農民や一般民衆が独立国を作ることを許さず。

その後秀吉は自らを頂点としたピラミット型封建社会を築いてゆきます。

 

そのことで農民・一般庶民は、より一層武士に支配され弱い立場となりましたが、小さな国が別れ絶えず紛争が続いていた群雄割拠の時代に比べると、平和が訪れたことは評価するべきと考えます。

 

秀吉の紀州征伐1~6

 

秀吉の紀州征伐1

秀吉の紀州征伐2

秀吉の紀州征伐3

秀吉の紀州征伐4

秀吉の紀州征伐5

秀吉の紀州征伐6

 

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