ゆうたのつぶや記 -4ページ目

viva!!西川美和

遅ればせながら、前から観たかった映画「Dear Doctor」(西川美和監督第三作)を見てきた。
西川美和は天性の芸術家だと思う。

日曜の朝から珍しく早起きしてゴソゴソしてる僕に鋭い目のツマがさりげなく
「どっか行くの?…」

通常ツマは休みの日の僕を出かけさせずに、庭手入れか部屋掃除をさせたがるのだが、今日は本人も遊びに行くので少し弱い。

「映画…」(←少し強い)
「なんの?」(←少し興味)
「ディア・ドクター」(←言ってもわかんないだろうけど)
「鹿のお医者さん?」(←なんじゃそれ)
「違うよ。ディアじゃなくディア」(←同じやな)
「?」(←ついにボケたかな?ジジイ)
「鶴瓶が出たやつ」(←こういえばこいつもわかるやろ)
「ぁあぁ…」(←なんじゃそれかい)

ツマは基本的に映画に趣味がなく、とりわけ邦画は大嫌い(僕に言わせると食べず嫌いなんだけど)。

映画は、ほんとよかった。

鶴瓶がいいし余貴美子がいいし瑛太がいいし八千草薫がいいし笹野高史がいいし井川遥がいい。

何よりも自然がいいし、素人さんの村人がいい。

西川美和の映画の凄いところは、凄い役者が出ているところではなく、出ている人を凄い役者にしてしまうところだと思う。

素人ほど光らせてしまう。

だから、キャストの中で、たぶん一番玄人役者である、中村勘三郎の演技が、却って浮いてしまってたのが逆に面白かった。

テーマはシンプル。
つまり「免許」と「資格」の違い。
「嘘」と「本当」の違い。

今まで見た西川美和作品で一番わかりやすかった。
三作目にして商業的にもプロになったな。

僕も病気したからよくわかる。
病気を診て患者を看ない多くの医者というやつ。

病院に行くから病人になる、という真理と、病は気から、という真実。

僕を長い入院から救ってくれたのは、医者ではなく、看護婦さんだったっけ。

人類最高の医師であったイエスとブッダは、間違いなく医師免許は持ってなかった。

この映画は最後まで秀逸。
ラストソングのナカムラの「遠回りするんだ。どんな道草にも花は咲く」には泣きそうになった。

馬生と可楽の落語のテープの渋い声もいいし、ラストシーンの鶴瓶と八千草薫の二人の笑顔がいい。

いやほんと、西川美和はディティールがいい。

尤も、これはツマに言ってもわかんないな、きっと。

「どうだった?ディアドクター」
「ディティールが良かった」
「誰がデテイルって?」

アホウドリあれこれ

僕はアホウドリという鳥ヒヨコが好きだ。

絶滅危惧種の鳥だ。

馬鹿で間抜けな鳥、と日本人は名付けた。
実際、地上では動きが鈍く、人を畏れないので簡単に手で捕まえられるらしい。

井伏鱒二の「ジョン万次郎漂流記」には、「藤九郎」という異名で出てくる。

難破して、食糧も無くたどり着いた絶海の孤島に、この鳥がいっぱいいて、捕り放題の食糧になった。
しかも、飢えた腹にも不味かったと言われているから、気の毒な鳥だしょぼん

上田敏の「海潮音」に、ボードレールの「信天翁」という訳詩がある。


アホウドリは異名がたくさんある鳥ヒヨコで、有名なのは、この「信天翁」だ。

これは、中国名で、この鳥は鈍臭くて、ろくに魚を穫れないが、何かの弾みで(竜巻とか台風)、巻き上げられた魚が天から降ってくるのを期待して待っている、つくづくのんきな、天を信じて待っている親爺、という意味だ。

ボードレールの「信天翁」は、この鳥を詩人の象徴として描いている。

天上を舞っていれば優雅な神に近い存在だが、地上に落ちたら生きていけない生物、ということで、詩人の象徴とした。

そして、上田敏は、この「信天翁」に「沖の太夫(オキノタユウ)」とルビを振る。

これも異名の一つで、遥か沖のかなたを舞っているときのこの鳥の姿の優雅さによる。

また、またの名を「叔父騙し」ともいうらしい。

しかし、地上では動きが鈍く、飛び立つまでにものすごく長い助走を必要とする不器用極まりなきこの鳥も、ひとたび舞い上がると、鳥類最大の飛行能力をもつという。

英語名「アルバトロス」が、ゴルフ用語になっている由縁である。


以上は、もちろん知ったかぶりで、「広辞苑」ほかいろんな本からの受け売りですが、だから僕は、この鳥ヒヨコが好きなんです。
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あいさつ

4月11日は夏日だった。

職場の後輩の結婚式に出るために神戸に行った。

式場はお洒落なゲストハウス。
入り口の桜が満開だった。

乾杯の音頭をとる大役を振られて緊張した。

年齢的にそういう役を仰せつかることが多いが、ご本人達にとって一生一度の大切な式。

責任大きい。

でも緊張すると失敗し、受けを狙うと必ず空振りするタイプなので、幸せな儀式に免じて逆に気楽にやらせてもらうことにしている。

ただひとつだけ心がけているのは、だいたいこの手の挨拶は、会場の殆ど誰も聞いてはいないが、少なくとも、新郎新婦と二人の親御さんだけはしっかりと聞いていらっしゃるから、その人達だけに伝わるようにしたい、ということだ。

自分の結婚式の時…もう20数年前だけど…主賓は当時の上司の部長さんだったが、話の肝は「挨拶を大事にする家庭をつくりなさい」ということだった。

正直に言って(平凡な挨拶だな…)と、その時は思った。

ところが、子供ができ、成長し、人生の滑った転んだを経験し、子供が家を出て行って、夫婦二人だけの暮らしになった今になって、その時の部長さんの言葉が、骨身に沁みる程、よくわかる。

挨拶がなければ、会話が無いのだ。

そして、会話がなければ、家庭はダメになるのだ。

「一日中黙っていても心で通じ合っている夫婦」みたいな表現がよくある。

そりゃあ、世の中にはそういうご夫婦もあるでしょうが、それは極限られた達人だけの話だと思う。

凡人の、年数を経た夫婦には、挨拶がなければ対話がないのだ。

その代わり、その代わり、である。

「おはよう」「おやすみ」「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」「はい」「ごめんなさい」

これだけの挨拶が言えれば、その声の調子で、そぶりで、夫婦は何もかもわかるのだ。

年を経た夫婦に、毎日毎日話して飽きないテーマなんて無いし、話すことがお互いに鬱陶しい日はいくらでもある。

そんな時、年を経た夫婦には、定型の挨拶が、融通無碍のメッセージになり、何ものにも代え難い「言葉」となるのだ。

幸い僕の妻は、驚くほど無教養だけど、唯一、きちんと挨拶できる家庭教育だけは受けてきた。

むしろ僕の方は、つまらん知識、トリビア的教養は妻より多いけど、家庭教育は質が悪かった。

結婚して当初は、いちいち朝「おはよう!」という妻が面倒臭かったけど、いつの間にか飼い慣らされて、僕も習慣で挨拶ができるようになった。

ありがたかったと感謝している。

先日の、後輩の結婚式での乾杯の挨拶が、新郎新婦に何がしかのことを伝えられたかどうか、自信は全く無いが…。


因みに僕の結婚式で挨拶して下さった部長さんは、後に奥様を先に亡くされた。

ものすごく亭主関白で偉そうな部長さんだったけど、一気に老けて、痛々しかったのを覚えている。