おそろし
宮部みゆき「おそろし」を読んだ。真におそろし。
これは作者の才能が書かせた物語ではなく、「芸術の神」(我ながら陳腐な表現(>_<)ですが)が降りてきて、この作者の手を借りて書かせたものだと思う。
そういうことは決して珍しいことではない。
宮沢賢治しかり、折口信夫しかり。ランボーしかり、ゴッホしかり。
ただ、珍しいのは僕たちの有限の人生の中で、そういう作物に巡り会うことだ。
ここんとこ暫く巡り会えなかったけど、久しぶりに味わうことができた。
幸せな盆休み。凡人に恵まれた盆休み♪。
たまたま、女房が図書館から借りてきたこの本があったからこその幸せなのだから、女房に感謝するべきなんだろうけど、複雑な心境の夜中の三時半。
明日(つーか、後少しで!)朝一番の恐怖の歯医者の予約なのに!
泣かせてくれるなあ、宮部みゆき(T^T)…。
これは作者の才能が書かせた物語ではなく、「芸術の神」(我ながら陳腐な表現(>_<)ですが)が降りてきて、この作者の手を借りて書かせたものだと思う。
そういうことは決して珍しいことではない。
宮沢賢治しかり、折口信夫しかり。ランボーしかり、ゴッホしかり。
ただ、珍しいのは僕たちの有限の人生の中で、そういう作物に巡り会うことだ。
ここんとこ暫く巡り会えなかったけど、久しぶりに味わうことができた。
幸せな盆休み。凡人に恵まれた盆休み♪。
たまたま、女房が図書館から借りてきたこの本があったからこその幸せなのだから、女房に感謝するべきなんだろうけど、複雑な心境の夜中の三時半。
明日(つーか、後少しで!)朝一番の恐怖の歯医者の予約なのに!
泣かせてくれるなあ、宮部みゆき(T^T)…。
コクハク
今日は予定していた宴会がなくなったので、観てみたいと思っていた映画「告白」に行った。
観終わって、エンターテイメントとして確かに面白いのだが、何か引っかかっていた。
何かメッセージ性なものがあるみたいなんだけど…。
何だろうと思いながら解らないので家に帰って酒を飲んでいたら、ふと気づいた。
この全編「憎しみ」に満ちた作品を通して通奏低音として響いていたのは、単純に「愛って何?」という問いかけだったんだ、ということだと。
ひとは常に何かを「告げたい」という欲望で生きている。
だから「告白」なんですね。
因みに「コクハク」は「酷薄」でもあります。
以上は勿論僕の勝手な解釈。
でも作品は作者のものではなく受け手が発見するものだという構造主義的考え方は間違っていないと思う。
観終わって、エンターテイメントとして確かに面白いのだが、何か引っかかっていた。
何かメッセージ性なものがあるみたいなんだけど…。
何だろうと思いながら解らないので家に帰って酒を飲んでいたら、ふと気づいた。
この全編「憎しみ」に満ちた作品を通して通奏低音として響いていたのは、単純に「愛って何?」という問いかけだったんだ、ということだと。
ひとは常に何かを「告げたい」という欲望で生きている。
だから「告白」なんですね。
因みに「コクハク」は「酷薄」でもあります。
以上は勿論僕の勝手な解釈。
でも作品は作者のものではなく受け手が発見するものだという構造主義的考え方は間違っていないと思う。
イエナキコ
奈良は東大寺でお水取りが始まった。
春だ。
昔、病気をしたとき、冬に入院して春に退院したが、春になって確実に身体が楽になるのを実感し、自然の偉大さと春の有り難さを、それこそ身にしみてわかった。
それ以来、春がくると無邪気にうれしい。
そしてもうひとつ、いつも春がくると思うのは「これでホームレスの人達も楽に眠れるだろう」ということ。
実は僕は子供のころから「ホームレス」の「ファン」なのだ。
とは言え、別にその手の問題に特別の関心を持って、例えばボランティア活動をしています、というのでは全然ない。
ただ、高校時代、忘れられないあるホームレスとの出会いがあり、未だに親近感というか、共感を覚えるところがあるのだ。
そして、いつかそうなるかもしれないという、恐れと予感と、そうなったら自分は割とスンナリその生活に馴染んでしまう体質だろうなという確信もある…。
僕は東京の池袋で生まれ育った。
今、池袋は東京でも有数の、収拾のつかないほど混乱した大都会になってしまったが、元々は場末の二流繁華街、猥雑で庶民的なエネルギー溢れる下町のターミナルだった。
生まれ育つ環境は恐ろしい。大抵のややこしいモノは身近にあった。
なんせ、家の近くにでっかい「東口トルコ」(若い人にはわからないかもしれませんが今のソープランドですね…って説明していて恥ずかしくなるけど)の電飾看板が昼間から点滅していて、どこかの家族旅行から車で帰って来たとき、長時間の車中にうんざりしていた幼稚園児くらいの僕が、「あっ!東口トルコの看板が見えたからもうすぐウチだね!」と叫んで母親が「嫌だねえ」と顔をしかめた意味が長い間わからなかったくらいだ。
また、僕が小学校低学年くらいまでは、池袋の駅前には戦争で手足を失った「傷痍軍人」の人達が、汚れた白衣を着て帽子をかぶり、道端に座って物悲しい音楽を奏で、お金を乞うていたし、今サンシャインシティのところは巣鴨の拘置所で、壁際にはずらっと、囚人が作ったタンスやら椅子やらが並んでいた。
高校時代には「今日池袋で殺人事件がありました」と朝のエネーチケー(NHK)のニュースで見て、ふーん、と思って通学したら現場が途中にあって、警官が白いチョークで人型を道に描いている脇を、ああここか、とごく軽い気持ちで通りすぎたりしていた。
僕が「そのおじさん」と出会ったのも高校時代の通学途上、朝の池袋駅の地下だった。
当時僕は、原因は何であったか忘れたが(どうせくだらないことに決まってる)、高校へ行くのが苦痛でならず、あまつさえ生きているのも嫌になり、日夜空想として自殺を考えていた。
あの頃の自分のメンタリティを思うと、我ながらおぞましくてゾッとする。
家にいるのもイヤなので出かけはするが、学校に行くのもいやでいやでたまらず、イメージとして目に映るモノはすべて白黒になっていた。
今でも勿論そうだが、当時も朝の池袋の地下のラッシュは殺人的で、サラリーマンやOL、学生や朝帰りの自由業などがまさしく怒涛のごとく行き交い、駅のアナウンスがひっきりなしにがなり立て、まともな話し声など聞こえない状況だった。
そんな中を、憂鬱極まりない気持ちで歩いていた僕の目に、そのおじさんは実に鮮烈に飛び込んできた。
今でいうホームレス、当時は浮浪者とよんでいたが、そのおじさんは年格好は50くらい(今の自分だ!)、やや長髪できちんと髪を整え、すごくシブい、いい顔をしていた。
激しい人の流れの中で、まるで静物画のように、ひとりで座っていたが、新聞を読んでいて、しかもそれがなんと英字新聞だった。
着ているものも、勿論汚れてはいるのだが、どこかこざっぱりして、赤系統のセーターと青いジーンズを結構格好良く着こなしていた。
何もかもがモノトーンの風景のなかで、そのおじさんだけがカラーで不思議な存在感を持っていた。
もの凄く格好良かった。
気がついたら僕は立ち止まっていて、じっとおじさんを見ていた。
そして単純強烈に「ああなりたい!」と感じていた。
すると、おじさんも僕に気づいて、澄んだ目(その時はそう感じたのだが、今思うと或いは空虚な目だったかもしれない)で僕を見返してきた。
そして言ったのだ(確かに言ったのだ)。
「世の中はそんなものじゃない」
と。
まるで雷鳴のように、その言葉は僕の耳に飛び込んだ。
それは僕にとって、まさに天の声だったと思う。
不思議でしかたないが、まるでテレパシーのように、それはその時僕の心に渦巻いていた様々なオゾマシイ思考、クダラナイ思念の数々に対する、シンプルで的確な「たった一つの答え」としてコダマのように返ってきたのだ。
世の中はそんなものじゃない…人生はお前が考えているようなものではない!…。
僕はハッとして、夢から覚めたような感じで、まるで偉大な禅僧に一喝された小坊主よろしく、その場を逃げ出すように離れたのだった。
それ以来、まるで憑き物が落ちたみたいにスカッとして、僕は鬱状態から抜け出すことができた。
思うに、その一言は僕の精神構造をどこか根本的に変質させ、おかげで思春期にありがちの、一種の精神的危機を脱することができたのだった。
そしてそれは未だに僕に対して影響力を持っているように思う。
その後しばらくは、そこを通るのが怖くて違う路を選んで通学していたが、やがて今度は無性におじさんを見たくなって恐る恐る行ってみたところ、もう姿はなく、結局その後二度と会うことはなかった。
しかしそれ以来、僕の心のどこかにそのおじさんは住みつき、青年期にありがちの精神的危機にも繰り返し登場して、僕を助けてくれたりしたが、今やそのおじさんくらいの年になって、中年期にありがちの精神的危機に至って「あんな在り方もありかな」と、こんどはその世界に誘惑したりするようになったのだ。
もうあのおじさんが生きているはずはないが、いまでも駅や道端で寝ている人を見るたびに我が身のような気がして、寒いだろうな、コンクリートは硬いだろうな、と思いやらずにはいられないのだ。
しかし、それにしてもあの人達を「ホームレス」と呼ぶようになったのはいつからだろう。前にも書いたように昔は「浮浪者」と言っていた。
いずれにせよ、その語感には差別感や蔑視感が纏わりついてはいるが、しかし浮浪者にはまだしも「者=人」としての認識があり、どこか自由人的な響きもあったように思う。
しかし、「ホームレス」では、単に「宿なし」であり、千と千尋の「顔なし」じゃないが、まるで人扱いが感じられない。
こんな呼び方をするようになったから、ホームレス虐待や殺人が頻発するようになったのではあるまいか。
また、家がハウスでホームは家庭だとすれば、強いていうならあの人達は「ハウスレス」であって、「ホームレス」ではないだろう。
「家はあれども家庭は無し」の「ホームレス」なら、おじさん達をゴミのように一瞥して通り過ぎてゆく、ネクタイしめた有象無象の中にこそ、ホームレスはたくさんいるのではないだろうが…。
ところでサラリーマンの春は転勤の季節…なんと4月からまた東京に転勤、単身赴任が決まった。
これで三回目!…サラリーマンの悲哀ここに極まれり。
ひょっとしたら知らない内に、僕はすでに憧れの「ホームレス」になってしまっているのかもしれない。
「人生の真相はそんなもんや」
もう僕の心に住みついて40年近くなり、すっかり関西弁になった「おじさん」の、そんなつぶやきが聞こえる春だ。
春だ。
昔、病気をしたとき、冬に入院して春に退院したが、春になって確実に身体が楽になるのを実感し、自然の偉大さと春の有り難さを、それこそ身にしみてわかった。
それ以来、春がくると無邪気にうれしい。
そしてもうひとつ、いつも春がくると思うのは「これでホームレスの人達も楽に眠れるだろう」ということ。
実は僕は子供のころから「ホームレス」の「ファン」なのだ。
とは言え、別にその手の問題に特別の関心を持って、例えばボランティア活動をしています、というのでは全然ない。
ただ、高校時代、忘れられないあるホームレスとの出会いがあり、未だに親近感というか、共感を覚えるところがあるのだ。
そして、いつかそうなるかもしれないという、恐れと予感と、そうなったら自分は割とスンナリその生活に馴染んでしまう体質だろうなという確信もある…。
僕は東京の池袋で生まれ育った。
今、池袋は東京でも有数の、収拾のつかないほど混乱した大都会になってしまったが、元々は場末の二流繁華街、猥雑で庶民的なエネルギー溢れる下町のターミナルだった。
生まれ育つ環境は恐ろしい。大抵のややこしいモノは身近にあった。
なんせ、家の近くにでっかい「東口トルコ」(若い人にはわからないかもしれませんが今のソープランドですね…って説明していて恥ずかしくなるけど)の電飾看板が昼間から点滅していて、どこかの家族旅行から車で帰って来たとき、長時間の車中にうんざりしていた幼稚園児くらいの僕が、「あっ!東口トルコの看板が見えたからもうすぐウチだね!」と叫んで母親が「嫌だねえ」と顔をしかめた意味が長い間わからなかったくらいだ。
また、僕が小学校低学年くらいまでは、池袋の駅前には戦争で手足を失った「傷痍軍人」の人達が、汚れた白衣を着て帽子をかぶり、道端に座って物悲しい音楽を奏で、お金を乞うていたし、今サンシャインシティのところは巣鴨の拘置所で、壁際にはずらっと、囚人が作ったタンスやら椅子やらが並んでいた。
高校時代には「今日池袋で殺人事件がありました」と朝のエネーチケー(NHK)のニュースで見て、ふーん、と思って通学したら現場が途中にあって、警官が白いチョークで人型を道に描いている脇を、ああここか、とごく軽い気持ちで通りすぎたりしていた。
僕が「そのおじさん」と出会ったのも高校時代の通学途上、朝の池袋駅の地下だった。
当時僕は、原因は何であったか忘れたが(どうせくだらないことに決まってる)、高校へ行くのが苦痛でならず、あまつさえ生きているのも嫌になり、日夜空想として自殺を考えていた。
あの頃の自分のメンタリティを思うと、我ながらおぞましくてゾッとする。
家にいるのもイヤなので出かけはするが、学校に行くのもいやでいやでたまらず、イメージとして目に映るモノはすべて白黒になっていた。
今でも勿論そうだが、当時も朝の池袋の地下のラッシュは殺人的で、サラリーマンやOL、学生や朝帰りの自由業などがまさしく怒涛のごとく行き交い、駅のアナウンスがひっきりなしにがなり立て、まともな話し声など聞こえない状況だった。
そんな中を、憂鬱極まりない気持ちで歩いていた僕の目に、そのおじさんは実に鮮烈に飛び込んできた。
今でいうホームレス、当時は浮浪者とよんでいたが、そのおじさんは年格好は50くらい(今の自分だ!)、やや長髪できちんと髪を整え、すごくシブい、いい顔をしていた。
激しい人の流れの中で、まるで静物画のように、ひとりで座っていたが、新聞を読んでいて、しかもそれがなんと英字新聞だった。
着ているものも、勿論汚れてはいるのだが、どこかこざっぱりして、赤系統のセーターと青いジーンズを結構格好良く着こなしていた。
何もかもがモノトーンの風景のなかで、そのおじさんだけがカラーで不思議な存在感を持っていた。
もの凄く格好良かった。
気がついたら僕は立ち止まっていて、じっとおじさんを見ていた。
そして単純強烈に「ああなりたい!」と感じていた。
すると、おじさんも僕に気づいて、澄んだ目(その時はそう感じたのだが、今思うと或いは空虚な目だったかもしれない)で僕を見返してきた。
そして言ったのだ(確かに言ったのだ)。
「世の中はそんなものじゃない」
と。
まるで雷鳴のように、その言葉は僕の耳に飛び込んだ。
それは僕にとって、まさに天の声だったと思う。
不思議でしかたないが、まるでテレパシーのように、それはその時僕の心に渦巻いていた様々なオゾマシイ思考、クダラナイ思念の数々に対する、シンプルで的確な「たった一つの答え」としてコダマのように返ってきたのだ。
世の中はそんなものじゃない…人生はお前が考えているようなものではない!…。
僕はハッとして、夢から覚めたような感じで、まるで偉大な禅僧に一喝された小坊主よろしく、その場を逃げ出すように離れたのだった。
それ以来、まるで憑き物が落ちたみたいにスカッとして、僕は鬱状態から抜け出すことができた。
思うに、その一言は僕の精神構造をどこか根本的に変質させ、おかげで思春期にありがちの、一種の精神的危機を脱することができたのだった。
そしてそれは未だに僕に対して影響力を持っているように思う。
その後しばらくは、そこを通るのが怖くて違う路を選んで通学していたが、やがて今度は無性におじさんを見たくなって恐る恐る行ってみたところ、もう姿はなく、結局その後二度と会うことはなかった。
しかしそれ以来、僕の心のどこかにそのおじさんは住みつき、青年期にありがちの精神的危機にも繰り返し登場して、僕を助けてくれたりしたが、今やそのおじさんくらいの年になって、中年期にありがちの精神的危機に至って「あんな在り方もありかな」と、こんどはその世界に誘惑したりするようになったのだ。
もうあのおじさんが生きているはずはないが、いまでも駅や道端で寝ている人を見るたびに我が身のような気がして、寒いだろうな、コンクリートは硬いだろうな、と思いやらずにはいられないのだ。
しかし、それにしてもあの人達を「ホームレス」と呼ぶようになったのはいつからだろう。前にも書いたように昔は「浮浪者」と言っていた。
いずれにせよ、その語感には差別感や蔑視感が纏わりついてはいるが、しかし浮浪者にはまだしも「者=人」としての認識があり、どこか自由人的な響きもあったように思う。
しかし、「ホームレス」では、単に「宿なし」であり、千と千尋の「顔なし」じゃないが、まるで人扱いが感じられない。
こんな呼び方をするようになったから、ホームレス虐待や殺人が頻発するようになったのではあるまいか。
また、家がハウスでホームは家庭だとすれば、強いていうならあの人達は「ハウスレス」であって、「ホームレス」ではないだろう。
「家はあれども家庭は無し」の「ホームレス」なら、おじさん達をゴミのように一瞥して通り過ぎてゆく、ネクタイしめた有象無象の中にこそ、ホームレスはたくさんいるのではないだろうが…。
ところでサラリーマンの春は転勤の季節…なんと4月からまた東京に転勤、単身赴任が決まった。
これで三回目!…サラリーマンの悲哀ここに極まれり。
ひょっとしたら知らない内に、僕はすでに憧れの「ホームレス」になってしまっているのかもしれない。
「人生の真相はそんなもんや」
もう僕の心に住みついて40年近くなり、すっかり関西弁になった「おじさん」の、そんなつぶやきが聞こえる春だ。