命のバトン
昔、植物の世界に造詣の深い、尊敬する先輩と楽しく食事したことがある。
その時聞いたある巨大な樹の話が忘れられない。
忘れられない、といいながらいい加減なことだが、なにぶん酒を飲みながらだったので、その樹の名前やディテールは忘れた。とにかく世界で一番堅い種を持つ樹の話だ。
その樹はカナダだかアメリカだかにあって、巨大な林を形成し、樹高も世界トップクラスで100メートル近い。
しかし何といってもすごいのはその樹の実(種)で、堅いのなんの、ハンマーでたたいてもナイフで斬りつけても、ちょっとやそっとでは歯が立たない。
つまり、動物にも食べられないので別の場所にも運ばれないし、馬鹿馬鹿しいことに、殻が堅すぎて中から芽を出すこともできないのだ。
それでは子孫を残せないではないか、と思うが、実はちゃんと遺伝子は継承され、太古から繁栄し続けている。
どうするのかというと、種は山火事を待っているのだ。
何年か何十年かに一度は必ず山火事が起きる。
落雷もあるし、堅い種を持つくらいなので、親木は樹皮も堅いから、嵐で樹同士がぶつかり、擦れて火花が散り、火事が起きる時が必ず来る。
なんと種は火事が起きるまで、何年も何十年も、あるいは何百年でも種のままでじっと待つのだ。
そして、火事が起こって自分も焼かれた時、初めて堅い殻は割れ、中から芽が顔を出すのである。
なにせ焼畑農業と一緒で、害虫はいないし地味は肥えてるしで、若芽の成長には持って来いの環境。
しかも、何よりも、親木がみんな焼け倒れたので、日光を遮るものがなく、太陽の恵みをたっぷり受けることができ、樹はすくすくと成長していくのだ。
つまり、親が死ぬまで待って、親の死を肥やしに子は生まれ育つのだ。
この話を聞いた時は、生と死の不思議な関係と、生命の驚異に深く感じ入ったものだ。
話は全く飛躍するが、現在我々は大恐慌以来、或いは大恐慌以上ともいう経済不況に直面している。
その中で、この100年来繁栄を謳歌してきた産業・企業が、ビジネスモデルの崩壊の危機に見舞われつつある。
ご他聞に漏れず僕の属している業界も、古い形の栄華を極めた業界で、例えればウロのぽっかり空いた巨樹みたいなもの、殆ど巨大な滝に堕ちる直前の屋形船みたいな状況にある。
早晩、僕の勤める会社も存亡の危機に立たされるのではないかと予測される。
最近は、その危機感から、偉いさん方が浮き足立って、アレヤコレヤ右往左往、緊急会議や経費節減で日夜うるさいことなのだ。
しがない中間管理職の僕も、ある会議のメンバーになって深刻な話ばかり聞かされたり報告したりで連日忙しい。
しかし、不思議なことに僕はなんか明るいのだ。
「明るいのは滅びの姿」は確か太宰治の言葉だが、なんとなくからっとして清々しいのだ。
「希望なきときは絶望せよ。それは希望と同じ効果をもたらす」はキルケゴールだったか。
しかし、そういうニュアンスでもないのだ。
何だろうと思ったら、昔先輩に教わった、この巨木の種の話なのだった。
自分達は早晩滅びるだろうが、会社には若く、まだ何の決定権ももたないけれど、僕らの世代(50代です)よりはるかに優秀な若い後輩達がいる。
彼らを観ていると、不思議と明るい気分になるのだ。
ソドムとゴモラのように天から降ってくる劫火で尊大な僕らは焼け死ぬだろうが、その灰の中から新しいビジネスモデルが彼らの手で生み出されるに違いない。
そんな気がするのだ。
とにかく若い可愛い後輩達のためには、早く倒れたほうがいいのかなと思う今日この頃だ。
もとより「絶望の虚妄なること希望に同じ」(魯迅)ではあるけれど。
その時聞いたある巨大な樹の話が忘れられない。
忘れられない、といいながらいい加減なことだが、なにぶん酒を飲みながらだったので、その樹の名前やディテールは忘れた。とにかく世界で一番堅い種を持つ樹の話だ。
その樹はカナダだかアメリカだかにあって、巨大な林を形成し、樹高も世界トップクラスで100メートル近い。
しかし何といってもすごいのはその樹の実(種)で、堅いのなんの、ハンマーでたたいてもナイフで斬りつけても、ちょっとやそっとでは歯が立たない。
つまり、動物にも食べられないので別の場所にも運ばれないし、馬鹿馬鹿しいことに、殻が堅すぎて中から芽を出すこともできないのだ。
それでは子孫を残せないではないか、と思うが、実はちゃんと遺伝子は継承され、太古から繁栄し続けている。
どうするのかというと、種は山火事を待っているのだ。
何年か何十年かに一度は必ず山火事が起きる。
落雷もあるし、堅い種を持つくらいなので、親木は樹皮も堅いから、嵐で樹同士がぶつかり、擦れて火花が散り、火事が起きる時が必ず来る。
なんと種は火事が起きるまで、何年も何十年も、あるいは何百年でも種のままでじっと待つのだ。
そして、火事が起こって自分も焼かれた時、初めて堅い殻は割れ、中から芽が顔を出すのである。
なにせ焼畑農業と一緒で、害虫はいないし地味は肥えてるしで、若芽の成長には持って来いの環境。
しかも、何よりも、親木がみんな焼け倒れたので、日光を遮るものがなく、太陽の恵みをたっぷり受けることができ、樹はすくすくと成長していくのだ。
つまり、親が死ぬまで待って、親の死を肥やしに子は生まれ育つのだ。
この話を聞いた時は、生と死の不思議な関係と、生命の驚異に深く感じ入ったものだ。
話は全く飛躍するが、現在我々は大恐慌以来、或いは大恐慌以上ともいう経済不況に直面している。
その中で、この100年来繁栄を謳歌してきた産業・企業が、ビジネスモデルの崩壊の危機に見舞われつつある。
ご他聞に漏れず僕の属している業界も、古い形の栄華を極めた業界で、例えればウロのぽっかり空いた巨樹みたいなもの、殆ど巨大な滝に堕ちる直前の屋形船みたいな状況にある。
早晩、僕の勤める会社も存亡の危機に立たされるのではないかと予測される。
最近は、その危機感から、偉いさん方が浮き足立って、アレヤコレヤ右往左往、緊急会議や経費節減で日夜うるさいことなのだ。
しがない中間管理職の僕も、ある会議のメンバーになって深刻な話ばかり聞かされたり報告したりで連日忙しい。
しかし、不思議なことに僕はなんか明るいのだ。
「明るいのは滅びの姿」は確か太宰治の言葉だが、なんとなくからっとして清々しいのだ。
「希望なきときは絶望せよ。それは希望と同じ効果をもたらす」はキルケゴールだったか。
しかし、そういうニュアンスでもないのだ。
何だろうと思ったら、昔先輩に教わった、この巨木の種の話なのだった。
自分達は早晩滅びるだろうが、会社には若く、まだ何の決定権ももたないけれど、僕らの世代(50代です)よりはるかに優秀な若い後輩達がいる。
彼らを観ていると、不思議と明るい気分になるのだ。
ソドムとゴモラのように天から降ってくる劫火で尊大な僕らは焼け死ぬだろうが、その灰の中から新しいビジネスモデルが彼らの手で生み出されるに違いない。
そんな気がするのだ。
とにかく若い可愛い後輩達のためには、早く倒れたほうがいいのかなと思う今日この頃だ。
もとより「絶望の虚妄なること希望に同じ」(魯迅)ではあるけれど。