あいさつ | ゆうたのつぶや記

あいさつ

4月11日は夏日だった。

職場の後輩の結婚式に出るために神戸に行った。

式場はお洒落なゲストハウス。
入り口の桜が満開だった。

乾杯の音頭をとる大役を振られて緊張した。

年齢的にそういう役を仰せつかることが多いが、ご本人達にとって一生一度の大切な式。

責任大きい。

でも緊張すると失敗し、受けを狙うと必ず空振りするタイプなので、幸せな儀式に免じて逆に気楽にやらせてもらうことにしている。

ただひとつだけ心がけているのは、だいたいこの手の挨拶は、会場の殆ど誰も聞いてはいないが、少なくとも、新郎新婦と二人の親御さんだけはしっかりと聞いていらっしゃるから、その人達だけに伝わるようにしたい、ということだ。

自分の結婚式の時…もう20数年前だけど…主賓は当時の上司の部長さんだったが、話の肝は「挨拶を大事にする家庭をつくりなさい」ということだった。

正直に言って(平凡な挨拶だな…)と、その時は思った。

ところが、子供ができ、成長し、人生の滑った転んだを経験し、子供が家を出て行って、夫婦二人だけの暮らしになった今になって、その時の部長さんの言葉が、骨身に沁みる程、よくわかる。

挨拶がなければ、会話が無いのだ。

そして、会話がなければ、家庭はダメになるのだ。

「一日中黙っていても心で通じ合っている夫婦」みたいな表現がよくある。

そりゃあ、世の中にはそういうご夫婦もあるでしょうが、それは極限られた達人だけの話だと思う。

凡人の、年数を経た夫婦には、挨拶がなければ対話がないのだ。

その代わり、その代わり、である。

「おはよう」「おやすみ」「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」「はい」「ごめんなさい」

これだけの挨拶が言えれば、その声の調子で、そぶりで、夫婦は何もかもわかるのだ。

年を経た夫婦に、毎日毎日話して飽きないテーマなんて無いし、話すことがお互いに鬱陶しい日はいくらでもある。

そんな時、年を経た夫婦には、定型の挨拶が、融通無碍のメッセージになり、何ものにも代え難い「言葉」となるのだ。

幸い僕の妻は、驚くほど無教養だけど、唯一、きちんと挨拶できる家庭教育だけは受けてきた。

むしろ僕の方は、つまらん知識、トリビア的教養は妻より多いけど、家庭教育は質が悪かった。

結婚して当初は、いちいち朝「おはよう!」という妻が面倒臭かったけど、いつの間にか飼い慣らされて、僕も習慣で挨拶ができるようになった。

ありがたかったと感謝している。

先日の、後輩の結婚式での乾杯の挨拶が、新郎新婦に何がしかのことを伝えられたかどうか、自信は全く無いが…。


因みに僕の結婚式で挨拶して下さった部長さんは、後に奥様を先に亡くされた。

ものすごく亭主関白で偉そうな部長さんだったけど、一気に老けて、痛々しかったのを覚えている。