$三界遊山


思うわれ、つまり精神は確実に存在している。

しかし、そうなると物体もまた、感覚を通じて精神に与えられている以上、やはり確実に存在すると考えなければならない。

デカルトが物体を延長 extension と呼んでいるのは、ちょっと面白い。訳語としては座りが悪いが、ある幅をもつもの、空間のなかに拡がりをもつものといった程度の意味である。ひるがえって精神を考えれば、幅もゼロ、奥行きも高さもゼロなのに、なぜか存在するものということになる。

『方法序説』の第五部では、人体が機械であるとの長めの説明が続く。

物体は力学的法則に従って動くと、デカルトは考えている。ほかの何に従うというのか。私にも見当がつかないから、物体は機械論的に運動するとしておこう。ならば、人体は機械である。実感として高さはともかく、奥行きは改善すべき程度にはあるのだから。肩幅なんかはねぇ、ちょっとあるのは見栄えがいい。

無論、人間は機械ではない。精神をもち、言語能力をもつからである。では、動物はどうかというと、言葉を話さない。 「あれも疑わしい、これも疑わしい」と言葉で考えることもなく、したがって精神もない。かくしてデカルトは、動物はまったくの機械であると主張するにいたるのである。

動物が機械かどうかはともかく、霊魂と肉体を区別する考え方は古代からある。それほど突飛でもないようだが、しかし、ここに大きな問題が生じる。精神と物体は、どこで繋がっているのか? どこかで繋がっていなければ、物体が精神に認識されることもなく、精神が物体に働きかけることもなくなってしまう。

$三界遊山

ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー
Julien Offray de La Mettrie (1709-1751)



ある意味、これを簡単に解決してしまった人物がいる。フランスの医師、ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーである。彼は霊魂を否定し、意識現象を脳の働きに還元する人間機械論を唱えた。この考えは、当時の宗教界から猛烈に批判された。現代でも、「あなたは機械だ」と言われて納得する人は珍しいだろう。

ただ、ここで付け加えておきたいのは、現代の脳科学者や人工知能の研究者が、おおむね人間機械論に沿って研究を進めていることである。しかし、意識現象は、どのようにして脳という物体から生じるというのか? さまざまな仮説が立てられてはいるが、いまだ結論らしいものは出ていない。

しかも人間機械論は、次回、述べるような問題も孕んでいる。

$三界遊山$三界遊山