2019/2/11スポーツオアシス心斎橋

詩篇63篇、
第一サムエル24章、
詩篇57、142、54篇、
第一サムエル25章、
リラックスヨガ受講。
水泳2km泳ぐ。
体重78、10kg
最高血圧142
最低血圧 71mmhg
脈拍数91
2019/2/10スポーツオアシス森ノ宮

体重76、95kg
最高血圧117
最低血圧 59mmhg
脈拍数93
今日は、、、
掃除、
日本語礼拝、
パップス礼拝、
スンの交わり、
モスバーガーで、福島兄弟と話し込む。忌憚のない意見を話し合えて感謝です。
教会に戻ってきたら、聖書を木工ボンドで貼り付けてるし、献金箱もいたずらしてるし、大人がいないと本当に酷いいたあうらをするものです。
メッセージ 詩篇23篇
詩篇23篇
ダビデの賛歌
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
この詩篇23篇は、とても有名な箇所です。美術、芸術でもよく取り上げられます。映画のセリフなどでも良く引用されるような有名な箇所なのです。また、西洋では、お葬式の時にメッセージに良く用いられる箇所でもあります。
詩篇全体のテーマとして用いられるのは、心配や不安や恐れなどを取り上げたものが多数ありますが、この詩篇23篇には、そのようなものは一切なく、平安と満足がテーマになっています。
詩篇23:1 主は、私の羊飼い。
主を羊飼いと呼ぶことは、当時のイスラエルの人々には、珍しいことだったと思われます。なぜなら、まことの神である主は、崇高で神聖な存在として扱われています。神は、「王」や、「万軍の主」、「贖い主」のように一般の人々が近寄る事が出来ないような存在として表現されています。また主は、「盾」、「岩」、「砦」として表現されています。
それに対して、当時の羊飼いのイメージは、社会的に低い地位の人々を意味していました。羊飼いは、羊とともに生活し、昼も夜も羊のことを心にかけて面倒をみます。それは、まるでブラック企業の社員のように忠誠を会社に尽くしているようなものです。また、羊飼いは、羊たち守り、助けて、導いてあげます。そのように、自分の生活を全てを羊に捧げる人生をしていては、社会的に貢献することは難しいことでしょう。人々には、何の期待もされていないでしょう。
しかし、主を羊飼い表現することで、主は自分の手の届かない存在ではなく、常に自分のことを心配し、守り、導いてくれる身近なものだと考えられるのです。
また、詩篇の作者のダビデでは、王様になる前は、羊飼いをしていました。だから4、羊飼いの考え方や責任感を個人的に理解していたでしょう。みんながやりたがらない、今でも言えば底辺の仕事、ブラック企業のような羊飼いの仕事を通して、ダビデは羊を世話することを学び、その経験を通して、主を羊飼いと例えることが相応しいと考えたのでしょう。
ところで、イエス様も例え話の中で、100匹の羊を持っていたとしても、もしその一匹が群れから外れて迷子になったら、羊飼いはその一匹を探すために危険を冒すと教えました。(ルカ15:4~5)
ダビデも、獅子や熊が自分の羊を攫うようなことがあったら、、追いかけ、命がけで羊を取り返すと言いました。ダビデは、主が羊飼いと同じように、群れ全体に目を走らせ、一人一人を心に留めてくださると知っていたのです。羊飼いが一匹の羊も見捨てないように、主は、クリスチャンである神の家族を見捨てるようなことはなさいません。
詩篇23:1後半 私は乏しいことがありません。
これは、主が羊飼いであるから、自分の必要は全て満たされるという事と同時に、主が共にいてくださるから、それ以上のものはいらない確信しているのです。主の価値を理解している人は、貧しくても、決して乏しくなることはありません。
詩篇23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
これは、主が羊飼いであるから、どこにいても安全であり、いつも安心できることを意味しています。羊が牧場に伏すとは、安心して休みということを意味しています。羊は、お腹が空いていると、草をたらふく満足するまで食べないと、牧草を求めて歩き回り、横たわることをしません。熊や狼などの獣たちから狙われている気配を感じたら、恐怖心から横たわることはしません。体調を崩して、病気になっていたりすると、治るまで伏したりしないのです。ですから、緑の牧場に伏すということは、
この全ての条件を満たして、満腹で、恐れがなく、病気も体調も崩していないことを意味しているのです。
「いこいの水のほとり」とは、羊が休み、休憩する水飲み場のことです。イスラエルなどの荒野で遊牧生活する羊飼いは、どの時期にどんな場所に水飲み場があるかを知らないと羊たちが、脱水症状に陥り、全滅してしまいます。羊の状態を見て、羊が歩ける距離に次の水飲み場があることを確認しなければなりません。しかし、水飲み場があるというだけでは十分ではないのです。羊は危険を察知するとストレスで怯えてしまい、水を飲むことができなくなります。羊には、水飲み場を確保するだけではなく、同時に獅子や熊などの害を及ぼす動物を追い払ってやらなければ、安心して水を飲まないのです。
また、水飲み場の水はきれいな水でなければいけません。病原体のいるような汚れた水では、弱い羊はすぐに病にかかってしまいます。羊飼いがこのように羊に気を配るように、人生の荒野をさまよう私たち人間を、主は安全と安心に導いてくれるのです。
詩篇23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
主はイスラエルの民と特別な関係を築きました。イスラエルの民が主を愛し、教えに従うなら、必ず祝福して、命を与えると約束されたのです。主に従う民が約束を守っているのに、その約束が守られないなら、主は、世の中の偶像崇拝者から、非難され、価値のない存在として貶められます。主の名声が損なわれないように、主は神に属する人たちをいのちへつながる義の道に導かれるのです。
詩篇23:4 たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
「死の陰」とは、「深刻な闇」を意味し、絶体絶命の状態のことを意味しています。
神はすでにイスラエルの民を、「死の陰」の地を通らせて、無事に導いた実績があります。エジブトの国から脱出させ、荒野の穴だらけの地、砂漠の死の陰の地ええ、40年間もイスラエルの民を養ったことがあるのです。国民を養う事が出来るのであれば、たった一人を養うこともたやすいことだと確信できるのです。
詩篇23:4 あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。
この場合の鞭は、誤訳で、棍棒を意味しています。棍棒は、羊飼いが常備している唯一の武器です。この棍棒で野獣を追い払ったり、自分の身を守ったりしました。ダビデが羊を攫った獅子や熊を打ち殺したというのは、棍棒で打ち殺したという意味でした。また「杖」は、長く、先がフック状になっている杖を意味します。羊が群れから迷い出た時に群れに連れ戻す役割がありました。「死の陰」で道を迷うことがあっても、獣から守り、群れに引き戻してくれるのです。このような確信があったので、不安や不信仰の戦いの時に、ダビデには慰めになったのです。
詩篇23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。
ここに来て、詩篇23篇のイメージが一変します。羊飼いと羊の荒野の状況から、王の宴会場に舞台を移すのです。この宴会の素晴らしさは、いくつかの主の恵みに表されてます。
一つ目は、敵の脅威が取り除かれていることです。敵の前で食事を整えるということは、、主が既に敵を打ち負かしていることを意味します。羊飼いが羊に害になるような野獣を追い払うように、主も危害を与えるような存在を取り除きます。
二つ目の恵みは、主ご自身のが食事の準備をして、食卓を整えてくださるということです。つまりしゅが羊であるわたしっちをもてなしてくださるのです。本当ならば、私たちが主に仕えなければならないにも拘らず、主は安心や安全以上の祝福を与えてくださるのです。また、イエスが、僕であるべき弟子たちの足を洗った主の姿がこの箇所のイメージと重なります。
三つ目の恵みは、頭に油を注がれるということです。香油は、高価なものであり、特別なお客をもてなす時の必需品でした。特に食事前に、主人がお客さんの額に香油を塗ることで、イスラエルの強い日差しろ乾燥によって乾き切った皮膚に潤いを与えて、気分をさわやかにしたのです。また、イエス様に香油を塗った女のように、頭に香油を塗ることはもてなしを表すと同時に、相手に敬意を表すことでした。
4つ目の恵みは、杯があふれているということでした。主から与えられた杯があふれているということです。内側から溢れるほどの祝福で満たされているということです。私たちはそんな権利を持っていないにも拘らず、主の恵みがあふれているのです。
詩篇23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつもでも、主の家に住まいましょう。
主を離れない生き方は、一生良いものと恵みに満ちているということです。主は導かれ、死の陰の谷を抜け出すと、もうさすらう必要はなく、主の家で永遠に主と過ごすことができるのです。
主との親密な体験をしたいひとは、いくつかのことを心に刻んでおかなければなりません。
一つ目は、主は私の羊飼いですが、その前に、偉大なる神様だということです。主が私たちのレベルに近くなってくださるのは、恵みにより選んでくださるからです。私たちがふさわしいからではありません。主と私たちが同じような存在だと考えてしまうと、従順に従う気持ちが失われてしまいます。羊の安全は、どれだけ羊飼いの言う事に耳を傾けて、羊飼いの近くに留まるかによって決まってきます。羊たちの責任は、羊飼いに従順に従うことにあるのです。
二つ目は、主が約束する安心と安全を最初に求めるのではなく、安心と安全を与えてくれる主をまず最初に求めることです。たましいの安心と安全は主が与えてくださる恵みです。主から離れてしまっては、その安心も安全も失われてしまうのです。主を愛するよりも、その恵みをもっと愛するようになれば、私たちは主を離れてしまうのです。主以外のものから、安心と安全を手に入れようとしてしまいます。そして、間違った声に従い、義の道、命の道からさまよい出てしまうのです。主からはなれては、安心も安全も存在しないのです。主がおられるからこそ、安心や安全の祝福がついてくるのです。ですから、安心や安全をまず求めるよりも、主を愛し、主の声に聞き従う事に熱心に従うならば、欲しい物も主から与えられるのです。
三つ目は、このような関係は一日では成り立たないということです。人間関係においても、人生を変えるような信頼関係はすぐには築けません。時間をかけて、お互いを知り、相手の考えに関心を持ち、相手を受け入れることを学んでいかなければなりません。詩篇の作者であるダビデも、人一倍罪を犯し、失敗を繰り返しました。しかし、それにも拘わらず、ダビデは、主の訓戒を受け入れて、何度も悔い改めたのです。神から離れる事があっても、主の杖により引き戻された結果、主の杖がダビデの慰めになったのです。
最後に、これらのことを心に刻み、主を畏れ、主を愛し、主の懲らしめを訓練として捉えて耐え忍ぶバランスを学ぶのです。それによって、私たちは、主は羊飼いであるという喜びと特権を楽しめて体験できるようになるのです。
ダビデの賛歌
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
この詩篇23篇は、とても有名な箇所です。美術、芸術でもよく取り上げられます。映画のセリフなどでも良く引用されるような有名な箇所なのです。また、西洋では、お葬式の時にメッセージに良く用いられる箇所でもあります。
詩篇全体のテーマとして用いられるのは、心配や不安や恐れなどを取り上げたものが多数ありますが、この詩篇23篇には、そのようなものは一切なく、平安と満足がテーマになっています。
詩篇23:1 主は、私の羊飼い。
主を羊飼いと呼ぶことは、当時のイスラエルの人々には、珍しいことだったと思われます。なぜなら、まことの神である主は、崇高で神聖な存在として扱われています。神は、「王」や、「万軍の主」、「贖い主」のように一般の人々が近寄る事が出来ないような存在として表現されています。また主は、「盾」、「岩」、「砦」として表現されています。
それに対して、当時の羊飼いのイメージは、社会的に低い地位の人々を意味していました。羊飼いは、羊とともに生活し、昼も夜も羊のことを心にかけて面倒をみます。それは、まるでブラック企業の社員のように忠誠を会社に尽くしているようなものです。また、羊飼いは、羊たち守り、助けて、導いてあげます。そのように、自分の生活を全てを羊に捧げる人生をしていては、社会的に貢献することは難しいことでしょう。人々には、何の期待もされていないでしょう。
しかし、主を羊飼い表現することで、主は自分の手の届かない存在ではなく、常に自分のことを心配し、守り、導いてくれる身近なものだと考えられるのです。
また、詩篇の作者のダビデでは、王様になる前は、羊飼いをしていました。だから4、羊飼いの考え方や責任感を個人的に理解していたでしょう。みんながやりたがらない、今でも言えば底辺の仕事、ブラック企業のような羊飼いの仕事を通して、ダビデは羊を世話することを学び、その経験を通して、主を羊飼いと例えることが相応しいと考えたのでしょう。
ところで、イエス様も例え話の中で、100匹の羊を持っていたとしても、もしその一匹が群れから外れて迷子になったら、羊飼いはその一匹を探すために危険を冒すと教えました。(ルカ15:4~5)
ダビデも、獅子や熊が自分の羊を攫うようなことがあったら、、追いかけ、命がけで羊を取り返すと言いました。ダビデは、主が羊飼いと同じように、群れ全体に目を走らせ、一人一人を心に留めてくださると知っていたのです。羊飼いが一匹の羊も見捨てないように、主は、クリスチャンである神の家族を見捨てるようなことはなさいません。
詩篇23:1後半 私は乏しいことがありません。
これは、主が羊飼いであるから、自分の必要は全て満たされるという事と同時に、主が共にいてくださるから、それ以上のものはいらない確信しているのです。主の価値を理解している人は、貧しくても、決して乏しくなることはありません。
詩篇23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
これは、主が羊飼いであるから、どこにいても安全であり、いつも安心できることを意味しています。羊が牧場に伏すとは、安心して休みということを意味しています。羊は、お腹が空いていると、草をたらふく満足するまで食べないと、牧草を求めて歩き回り、横たわることをしません。熊や狼などの獣たちから狙われている気配を感じたら、恐怖心から横たわることはしません。体調を崩して、病気になっていたりすると、治るまで伏したりしないのです。ですから、緑の牧場に伏すということは、
この全ての条件を満たして、満腹で、恐れがなく、病気も体調も崩していないことを意味しているのです。
「いこいの水のほとり」とは、羊が休み、休憩する水飲み場のことです。イスラエルなどの荒野で遊牧生活する羊飼いは、どの時期にどんな場所に水飲み場があるかを知らないと羊たちが、脱水症状に陥り、全滅してしまいます。羊の状態を見て、羊が歩ける距離に次の水飲み場があることを確認しなければなりません。しかし、水飲み場があるというだけでは十分ではないのです。羊は危険を察知するとストレスで怯えてしまい、水を飲むことができなくなります。羊には、水飲み場を確保するだけではなく、同時に獅子や熊などの害を及ぼす動物を追い払ってやらなければ、安心して水を飲まないのです。
また、水飲み場の水はきれいな水でなければいけません。病原体のいるような汚れた水では、弱い羊はすぐに病にかかってしまいます。羊飼いがこのように羊に気を配るように、人生の荒野をさまよう私たち人間を、主は安全と安心に導いてくれるのです。
詩篇23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
主はイスラエルの民と特別な関係を築きました。イスラエルの民が主を愛し、教えに従うなら、必ず祝福して、命を与えると約束されたのです。主に従う民が約束を守っているのに、その約束が守られないなら、主は、世の中の偶像崇拝者から、非難され、価値のない存在として貶められます。主の名声が損なわれないように、主は神に属する人たちをいのちへつながる義の道に導かれるのです。
詩篇23:4 たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
「死の陰」とは、「深刻な闇」を意味し、絶体絶命の状態のことを意味しています。
神はすでにイスラエルの民を、「死の陰」の地を通らせて、無事に導いた実績があります。エジブトの国から脱出させ、荒野の穴だらけの地、砂漠の死の陰の地ええ、40年間もイスラエルの民を養ったことがあるのです。国民を養う事が出来るのであれば、たった一人を養うこともたやすいことだと確信できるのです。
詩篇23:4 あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。
この場合の鞭は、誤訳で、棍棒を意味しています。棍棒は、羊飼いが常備している唯一の武器です。この棍棒で野獣を追い払ったり、自分の身を守ったりしました。ダビデが羊を攫った獅子や熊を打ち殺したというのは、棍棒で打ち殺したという意味でした。また「杖」は、長く、先がフック状になっている杖を意味します。羊が群れから迷い出た時に群れに連れ戻す役割がありました。「死の陰」で道を迷うことがあっても、獣から守り、群れに引き戻してくれるのです。このような確信があったので、不安や不信仰の戦いの時に、ダビデには慰めになったのです。
詩篇23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。
ここに来て、詩篇23篇のイメージが一変します。羊飼いと羊の荒野の状況から、王の宴会場に舞台を移すのです。この宴会の素晴らしさは、いくつかの主の恵みに表されてます。
一つ目は、敵の脅威が取り除かれていることです。敵の前で食事を整えるということは、、主が既に敵を打ち負かしていることを意味します。羊飼いが羊に害になるような野獣を追い払うように、主も危害を与えるような存在を取り除きます。
二つ目の恵みは、主ご自身のが食事の準備をして、食卓を整えてくださるということです。つまりしゅが羊であるわたしっちをもてなしてくださるのです。本当ならば、私たちが主に仕えなければならないにも拘らず、主は安心や安全以上の祝福を与えてくださるのです。また、イエスが、僕であるべき弟子たちの足を洗った主の姿がこの箇所のイメージと重なります。
三つ目の恵みは、頭に油を注がれるということです。香油は、高価なものであり、特別なお客をもてなす時の必需品でした。特に食事前に、主人がお客さんの額に香油を塗ることで、イスラエルの強い日差しろ乾燥によって乾き切った皮膚に潤いを与えて、気分をさわやかにしたのです。また、イエス様に香油を塗った女のように、頭に香油を塗ることはもてなしを表すと同時に、相手に敬意を表すことでした。
4つ目の恵みは、杯があふれているということでした。主から与えられた杯があふれているということです。内側から溢れるほどの祝福で満たされているということです。私たちはそんな権利を持っていないにも拘らず、主の恵みがあふれているのです。
詩篇23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつもでも、主の家に住まいましょう。
主を離れない生き方は、一生良いものと恵みに満ちているということです。主は導かれ、死の陰の谷を抜け出すと、もうさすらう必要はなく、主の家で永遠に主と過ごすことができるのです。
主との親密な体験をしたいひとは、いくつかのことを心に刻んでおかなければなりません。
一つ目は、主は私の羊飼いですが、その前に、偉大なる神様だということです。主が私たちのレベルに近くなってくださるのは、恵みにより選んでくださるからです。私たちがふさわしいからではありません。主と私たちが同じような存在だと考えてしまうと、従順に従う気持ちが失われてしまいます。羊の安全は、どれだけ羊飼いの言う事に耳を傾けて、羊飼いの近くに留まるかによって決まってきます。羊たちの責任は、羊飼いに従順に従うことにあるのです。
二つ目は、主が約束する安心と安全を最初に求めるのではなく、安心と安全を与えてくれる主をまず最初に求めることです。たましいの安心と安全は主が与えてくださる恵みです。主から離れてしまっては、その安心も安全も失われてしまうのです。主を愛するよりも、その恵みをもっと愛するようになれば、私たちは主を離れてしまうのです。主以外のものから、安心と安全を手に入れようとしてしまいます。そして、間違った声に従い、義の道、命の道からさまよい出てしまうのです。主からはなれては、安心も安全も存在しないのです。主がおられるからこそ、安心や安全の祝福がついてくるのです。ですから、安心や安全をまず求めるよりも、主を愛し、主の声に聞き従う事に熱心に従うならば、欲しい物も主から与えられるのです。
三つ目は、このような関係は一日では成り立たないということです。人間関係においても、人生を変えるような信頼関係はすぐには築けません。時間をかけて、お互いを知り、相手の考えに関心を持ち、相手を受け入れることを学んでいかなければなりません。詩篇の作者であるダビデも、人一倍罪を犯し、失敗を繰り返しました。しかし、それにも拘わらず、ダビデは、主の訓戒を受け入れて、何度も悔い改めたのです。神から離れる事があっても、主の杖により引き戻された結果、主の杖がダビデの慰めになったのです。
最後に、これらのことを心に刻み、主を畏れ、主を愛し、主の懲らしめを訓練として捉えて耐え忍ぶバランスを学ぶのです。それによって、私たちは、主は羊飼いであるという喜びと特権を楽しめて体験できるようになるのです。
2019/2/8スポーツオアシス森ノ宮

体重76、95kg
79、30→76、95kg
今日は、4回サウナ入ったが、一番しんどかった。
最高血圧96
最低血圧68mmhg
脈拍数114
今日は、、、
早天祈祷会、
映画鑑賞、
水泳、
金曜日礼拝
5時ごろ夕食食べた後で、ソフトバンクのキャンペーン思い出して食べてしまった。体重減らすのが本当に大変でした。



