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 先月のブログで、指揮者について書いた。音楽教師で、あんなことを思ってる人はいないだろうなってことをぶっちゃけつつ、その意義についても述べた。今回の文は、指揮についての思い出話を少々。

 思い返せば、僕の音楽遍歴自体が少々異色なのだ。

 

 僕は、小学校3年生でオルガンを習い始め、ほどなくしてピアノに変わった。1歳年下の弟と一緒に通った。

 弟は、今でこそ何も弾けなくなってはいるが、当時は優秀だった。絶対音感を持ち、先生が弾く和音(同時に3音弾く)を、言い当てることができた。

 絶対音感も初見演奏(楽譜を見てすぐに両手で弾けること)も苦手な僕は、弟にコンプレックスを持ち、ピアノの練習が苦痛で仕方なかった。

 中学に入ると、ドラマ「俺は男だ!」(森田健作主演)の影響で剣道部に所属。一日1,000回の素振りをしたり部長になったりと、かなりのめり込み、それを理由にピアノをやめさせてもらった。

 ※余談だが、剣道では中3で二つの市合同の大会で、各校大将対決で全勝をした。

 ※もう一つ余談だが、「俺は男だ!」を見て、ギターも始めた。小6の誕生日にクラシックギターを買ってもらい、後に、自分でサンバースト仕上げのウエスタンスタイルのフォークギターを買ってのめり込んだ。

 高3のとき、音楽教師の道を進路の一つに選んだことから(他に数学教師の道、滑り止めで文学部と経済学部。すべてバラバラ?)、ピアノを高校の音楽の先生に時々見てもらうことになった。入試の課題曲以外に、新曲視唱(楽譜を見て初見で歌う)や、聴音(絶対音感のテスト)、楽典(音楽理論)も見てもらった。

 入試では、新曲と聴音はガタガタだったが、何とか教育大学音楽科に入ることができた。ちょうど、学校が荒れていた時代で、男の音楽教師が欲しかったのだと思う。

 ※本当は数学教師が第1希望だったがある理由で音楽科を選んでしまった。理由は内緒。

 大学時代は、2年間はピアノの授業(個人レッスン)があったが、ほとんど練習をしておらず、いつもケーキを持って研究室に行き、教授のご機嫌を取ってごまかしていた。

 

 そんなわけなので、普通の音楽教師より、ちょっと違った感覚?を持っているわけである。おまけに自分で納得しないと、のめり込むことができないへそ曲がりでもある。

 

 さて、前置き?が長くなったが、指揮に関わる思い出深いエピソードを二つ。

 

 一つは、20代のバンコク時代コーラスサークルやラジャビティ孤児院の指揮を、がむしゃらにしていたとき。

 出演させていただいた「タイ・コーラスフェスティバル」において、オーストラリアから招かれた有名な指揮者が、大成功の本番を終えた後、お礼を言いに行ったら、特別に僕に指揮のレッスンをしてくれるという。

 20近くグループがあったにもかかわらず、僕にだけ時間を取ってくれたのには驚きだった。もしかして一番へたな指揮だったのかなって、通訳をしてくれた方を通して聞いたら、まだ若くてこれからいろいろチャレンジをしそうな可能性を感じたから、指導したくなったと言われ、30分ほども熱心に教えていただけた。

 ここで、僕は4拍子でも2つ振りにしたり、各拍の強弱の変化をつけたりすることで、今までのがむしゃら振りと比べて、勢いは消さずに力を抜いて指揮することを学んだ。

 

 もう一つは30代の前半。中学生の合唱曲をたくさん作曲しておられる日本を代表する作曲家橋本祥路氏と一緒に会食をする機会があった。

 その席上で、僕が大好きな氏の代表曲「時の旅人」の出だしのたった1小節の指揮を、

「最初アッチェレランド(だんだん速く)で、最後リッ(だんだんゆっくり)をかけて演奏しています。」

と、少々オタク的な解釈を、氏に言うと、

「まさにそれだよ。」

と、いたく気に入ってくださり、話が弾み、会の最後にサイン色紙をくださるとき、他の人は名前だけだったのに、僕のだけには、なんと「楽弟」の二文字を添えてくださったのである。

 僕が、なんとなく感じていた曲の解釈や指揮が間違っていなかったんだという自信につながった。

 ※氏とは、この後も、4度ほど会食をする機会があり、いろいろ学ばせていただいた。

 

 これらの出来事から、僕はじょじょに「指揮」の魅力やおもしろさを学んでいくことができたのである。

 

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