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 バンコク日本人学校に派遣されていた3年間、確実に他の方よりもたくさんの体験・活動をしてきた。ここには紹介できるものだけ?を掲載する。中には、すごく派手な活動も。

 

<日本人子弟のための教育活動>

◆クラス行事はやりたい放題!

 3年目の中1担任のときには、バンコク日本人学校は学級経営が比較的自由で、学級に思い入れのある教師はいろんなことにチャレンジできたため、学級活動では、教師すら歩いたことのない学校の周りの前人未到の雑木林(※丸太!?編参照)を『探検』と称して散策したり、小舟を何艘かチャーターして学校横のクローン(小川)を『探検2』と称して川下りしたりした。

 冬休みには、中2担当の気の合う先輩のクラスと共に、企業からたくさんのテントときねとうすを借りてきて、学校の運動場でキャンプをし、飯ごう炊飯はもちろん、餅つき大会や、夜はキャンプファイヤーやフォークダンス、その後、校舎の屋上に全員で上り天体望遠鏡を使っての天体観測もした。

 

◆合唱コンクーを定着/チェンバーコーラスの誕生

 小6から中3の12クラスの音楽を担当。当時の子どもたちは、平均偏差値60を超えており、70以上もクラスに2~3人いるほど。素直で学力の高い生徒たちは、「大きい声で歌え」との指導ばかりだった前任校と異なり、声が出るのは当たり前で、歌のイメージは高く、表現力に優れ、音楽への意欲はかなりのものがあった。クラスの半分が絶対音感を持っているほどだった。よって僕自身の指導力の向上を余儀なくされ、教員5年目にして指導法を勉強し直さねばならなかった。そして、日本同様、合唱コンを行事として立ち上げ、定着させ、三年目には歌のうまい者を集めた「チェンバーコーラス」も組織し、僕自身の音楽教師としての土台がここで出来上がった。

※注;チェンバーコーラスとは、オーケストラのパートリーダー級で構成される小編成オケをチェンバーオケと呼ぶことから、僕が勝手に命名した、学年をまたいで歌のうまいものを集めた特設の合唱団のこと。クラス合唱と並行して、チェンバーも空き時間に指導をすることで、クラス合唱のリーダー指導が同時にできる。また、その発表では、クラス合唱では表せられない合唱や指揮をも表現でき、学校全体の合唱のイメージ・力量をあげることができる。

 

◆器楽サークル(吹奏楽部)運営

 小4から中2までが所属する日本人会青少年サークル(日本でいう学校の部活動にあたる)

 日本では今まで剣道部顧問としてやってきた僕も、音楽教師として派遣されたため、自信がないまま器楽サークルを持つことになったが、三年間、良き同僚顧問に恵まれ、また音楽好きの優秀な子どもたちに囲まれ、楽しく活動・勉強することができ、同時に帰国後の僕の吹奏楽顧問としての土台も培われた。

 

◆コーラスサークル(合唱部)を4倍規模に!

 小3から中2までの子どもたちで構成されていたサークル。

 残念ながら、派遣教師すべてがサークル顧問をしているわけではなく、やりたがらない方もみえ、指導者は当然不足していた。

 最初、コーラスサークル指導は企業人の奥さんがやってみえたが、妊娠と共にやめられることになり、器楽サークル指導のない曜日にお願いできないかと世話役の保護者に声をかけられた。実は4月から二ヶ月間、その“やさしい指導法”にいらいらしていた僕は、二つ返事で引き受け、小3だろうとビシビシ教え始めた。そのやり方に付き添いのお母さん方の中にはこわいと泣き出す人もいたそうだが、知らぬが仏、言ったことをどんどん吸収していく子どもたちの勢いにも押されてやり続けたところ、最初20人弱の部員は半年後には50人に増え、翌年にはサークルで一番多い80人にふくれあがった。じょじょに中学生でも難しい曲にもチャレンジし、器楽サークルやラジャビティ孤児院の子どもたち、ママさんコーラス、演劇サークル等とジョイントするなど、たくさんのコンサートをこなしてきた。

 サークル活動は、これ以外にもバスケや剣道にも関わり、これらの業績を認められ、日本人会青少年サークル指導に特に尽力をしたとして、当時の会長自ら感謝状をつくってくださり贈呈された。今までなかったこの特別な感謝状は、今後も続けていくということで、栄えある授与第1号となった。


<現地でのボランティア活動>

◆孤児院コーラスは副首相からの依頼

 4歳から18歳の女の子(6歳までは男の子もいる)孤児院「ラジャビティホーム」のコーラス指導を、当時のティエンチャイ副首相から校長を通して依頼を受けた。中・高生の中で合唱の好きな子が80人ほど集まり、それを2つのグループに分け、3年間毎週3時間のコーラス指導を続けた。最初は、音程すら定まらなかった子どもたちが、いくつかの舞台を踏みながらどんどん成長していく姿は、逆に勇気づけられるものだった。

 大使館のパーティや、日本人会の招待演奏、タイコーラスフェスティバルへの参加など、3年間で20もの舞台を踏むことができた。テレビに出演したり、副首相からの食事の招待など、特殊な体験もさせていただいた。ちょうど日タイ修好100周年記念行事の年でもあり、両国首相の出席する場で日本のコーラスサークルの子どもたちと共に両国国歌を歌う栄誉もいただいた。

 

◆日タイ友好キャンプの立ち上げ

 先輩のK先生が、キャンプを通してタイと日本の子どもたちの輪を広げようと、派遣最後の年にタイの文部省に話を通し、諸々の問題を解決し、日タイの子どもたち100人を集め、それに必要な両国の指導者を募り開催し、そのお手伝いをさせていただいた。

 その意志は二回目の開催へと引き継がれ、そこでは主要スタッフとして働いた。

 僕の帰国後に三回目が予定され、その開催に合わせ渡タイしたところ、タイ側スタッフの書類不備のためストップがかかり、結局三回目は開催されないという何ともタイらしい終わり方をした。

<趣味の活動>

◆ヤムヤムバンド

 中学校時代から常にバンドを組んでいた僕は、教師になってからはティーチャーズバンドを中心になって組織し、文化祭などで楽しんでいたが、バンコクでは、先輩の先生方がなぜか皆、音楽的に素晴らしい力を持っている方ばかりで、すぐに「ヤムヤムバンド」が結成された。(※ヤムヤムとはタイのインスタントラーメンの名。練習をあまりせず“即席”で仕上げるバンドなので命名。なんとヤムヤム食品会社から宣伝に貢献したとの理由で、一年後ラーメンが贈られてきた。)

 その上、一年目は、ヤムヤムバンドを母体に、企業人の方々と一緒に「RMSバンド」というのも組んで大きな舞台を踏ませていただいたり(メンバーの中にはプロのサックス奏者の方もみえた)、解散コンサートでは、ホテルのホールを貸し切って生徒たちを呼んで盛大に行ったりもした。

◆演劇サークル

 日本人会が総括し、先生や企業人の奥さん方で構成されていた演劇部は、毎年日本人会文化祭で発表の場を持ち、僕も一年目から出演させてもらった。

 一年目は『坊ちゃん』、二年目は『水戸黄門』、三年目は『父帰る』をやり、僕は三枚目のドジ役・アホ役ばかりをやらせていただいた。自分では主人公向きだと思っていたのだが、

三枚目は二枚目役より難しい。この役は君しかできない!」という先輩の言葉にのせられ、三年間やり続けた。