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  僕は27才より3年間、バンコク日本人学校へ派遣されました。これは、その際、現地日本人会機関誌から執筆依頼があったもので、僕ががむしゃらに突き進んでいた時代の一コマです。よかったらお読みください。

 

◆◆「歌声は国境を越えて」◆◆

 

 

「派遣教員としてなすべきことは何か」
 これが先輩とよく行く屋台で酒を飲みながら(といっても僕は下戸であるが‥)のいつものテーマであった、先輩は、“酔っぱらいながら”よく言った。
「タイに派遣された限りは、日本人学校での仕事はもちろん、タイと日本を結びつける仕事をせにゃならん。俺は『タイ日キャンプ』と『剣道』でそれをやるぞ。おまえは『音楽』でやれ!」
 それを聞きながらいつも思うのは、ラジャビティ・ホームに初めて顔を出した時のことだ。

 

 ラジャビティ・ホームは、貧しく、親のない子供たちの施設で、毎週一回、夜3時間、コーラスの指導に行っている。バンコク日本人学校に赴任して数日後、当時の校長から、こうたずねられた。
「やす先生、ちょっと頼みたいことがあるんだが‥。実はタイの副首相から、孤児のコーラス指導を頼まれているんだが、君、夜はあいているかね?」
 来た当時は、もの珍しさから先輩に連れられて、毎夜ずいぶん遊び歩いていたので、その問いには一瞬ドキッとしたものの、音楽教師として派遣されてきた以上、音楽を通して何かしたい気持ちは充分あったし、ボランティアにも興味があったので、二つ返事でその依頼を引き受けた。


 さて、簡単に引き受けてしまったこの指導、よく考えてみると、タイ語はまだ使いこなせず、英語と聞くとじんましんが出てしまう僕が、どうやって指導するんだろう-という大切なことに気がついた。しかし、校長先生に聞くと、二人の保護者ボランティアが一緒に手伝ってくださるということだったし、以前日本人の先生が少し教えていたということだったので安心し、楽しみにして、5月の中旬、初めて訪問し、彼女らと対面した。
 が、しかし・・・・・。


 最初、気楽に考えていたこの指導は、日本人に対するものとは根本的に違っていた。

 日本の子供たちは、小さい時から少なからず音楽に触れて育ってきている。ピアノを習っている子も少なくない。その点、タイの学校教育では、音楽という教科はあっても、それは理論・歴史の勉強であり、自分の声を使って合唱したり、楽器を演奏することなどいっさいない。また日本では、TVやカセットの普及によりいつでもどこでも歌が聞けるのに対し、タイのTVは歌謡番組も少なく、家庭に一台カセットとはいかない。まして彼女らがそれに触れる機会はもっと少ないわけである。それやこれやで、メロディ一ひとつをとるのにもすごく時間がかかり、あまりのこの差にこれでやっていけるのかと不安ばかりがつのった。


 しかし、彼女らの熱心さには驚くべきものがあり、好んで日本語の歌を歌いたがり、毎週僕の到着を心待ちにしてくれるようになった。そのやる気に引っ張られるように、僕の指導にも熱がこもっていった。


 が、問題はまだ続く。タイには「合唱曲」がほとんどなく、あったとしてもそれは特定のグルーブのために作られたものであり、一般には手に入れにくい。そこで、タイの曲・日本の曲を彼女らの音域や雰囲気にあわせてアレンジする必要に迫られた。それが同時に僕自身の研修にもつながり、彼女らと共に自分も成長できたように思う。


 こうして、練習時間の少なさはパート別カセットをつくることによって補いながら、徐々に楽譜がよめる子も増え、彼女らの声にもつやが出て、音程はもちろん高音域が美しくのびる子もでてきた。こうなると、ただ歌うだけでは満足できず、美しくハモることにも欲が出て、難曲をどんどんこなしていった。翌年9月に行われた『タイ日修好百周年記念式典』では、日本人学校コーラスサークルの子供たちと共に、両国国歌“合唱”の場も与えていただき、立派にこなすことができた。


 僕が今、なによりうれしいのは、孤児院の世界しか知らなかった子供たちが、今は歌の世界、音楽の世界に足を踏み入れ、歌うことを本当に楽しんでくれていること、歌を通じて日本とタイの子供たちが、まるで以前からの友達のように交流を深めていることである。


 『国境を越えた歌声』-こんなすばらしい機会を与えてもらったことに感謝すると同時に、

彼女らの未来が、彼女らの歌声のように澄んだ明るいものでありますように!!

 

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