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 バンコクから帰国した年の8月、いくつかの用を足しにバンコクに2週間“帰郷”し、現地で山口と東京の二人の先輩先生と待ち合わせをした。

◆一番の用事は、前年度、バンコクの文部省と共に行った「タイ日こども友好キャンプ」を、もう一度行うということだったので、その通訳兼手伝いのために駆け付けた。前回、僕らは日本側の主要スタッフだったからだ。ところが、現地での第1回ミーティングで驚くべきことを告げられた。実施許可書類が上へうまくつながっておらず、無期延期になったとのこと。ある意味タイらしさを帰国後も味わってしまった僕らはあっけにとられるしかなかった。

 

名古屋少年少女合唱団が来タイコンサートを行うということで、合唱団の主宰水谷先生から、大学時代にお世話になった関係で、「何かいい曲はないか?」という連絡があり、僕が現地孤児院の子どもたちのために編曲した「サバイサバイ」(当時のタイのヒット曲)をお勧めした。ついでに孤児院の子どもたちの賛助出演もお願いし、楽譜を届けて練習に付き合った関係で、その演奏会をリハーサルから見させていただいた。本番は大成功で、「サバイサバイ」も観客はすごく喜んでくれた。

 

◆前年度まで3年間、合唱を教えていた現地孤児院「ラジャビティホーム」を慰問した。教えていた子どもたち80名分のお土産をもって。翌日の名古屋少年少女合唱団とのコンサート前夜でもあり、子どもたちはその合唱も聴かせてくれた。うれしくもありさみしくもある訪問だったが、とっても歓迎してくれた。

※子どもたちは、孤児院の広い敷地の中で、上は高3、下は4歳までの小グループを作り、グループごとに年長者が親代わりをした疑似家族を構成し、たくさんの小さな家に住んでいる。その一部の子に合唱を教えていた。

 

◆日本人学校の前年度担任した子どもたちとのクラス会に参加し、その2日後には、みんなで遊園地にも遊びに行った。

 

◆器楽サークルの子どもたちとのお楽しみ会も出席した。保護者の方が中心になって、学校を借りて行うことができた。

 

◆日本人会演劇サークルの方々が懇親会を開いてくださり、急なことだったが大勢が集まってくださった。

 

 この間、自分のお金で食べた夕食は2回だけ。あとは、日本人会の方々との会食や、保護者や教員仲間の方々の自宅へ招待していただき、とても充実した14日間だった。

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 しかし、問題はここから。

 日本への帰国前に航空会社にリコンファームすると、予定した直行便が取れず、

香港で2泊することになってしまったのだ。タイ語はできても英語恐怖症の僕には、これは過酷な挑戦であった。今のようにネットがまだポピュラーな時代ではなく、ホテルも香港についてから探さねばならなかった。

 香港空港で、片言でホテルとタクシーを頼むところから苦痛は始まった。今ではどこに泊まったかは覚えていないが、狭い部屋のホテルであった。

 初めは怖いから、そのホテルでじっとしていようと思っていた。しかし、それでは我ながらあまりに情けないと思い直し、夜、思い切って外出。帰国後、「どこに行ったの?」と聞かれて恥ずかしくない場所に行かなくてはと考え、香港らしい場所を訪ねようと思い、100万ドルの夜景を見にヴィクトリアピーク出かけることにした。

 タクシーで行けば楽だが、それでは、帰国後恥ずかしい。まだ携帯電話が出回り始めたときで、ガイドブックすらなかったが、ホテルで行き方を聞き、船とピークトラムを乗り継ぎ、なんとかたどり着くことができた。

 でも、一人で見る100万ドルの夜景は、たいして感動的でもなかった。

 

 翌日もう一日滞在しなくてはならず、どこかに行ったのは確実なのだが、全く何も覚えていない。すごくもったいない香港旅行?であった。

(※この情けない記憶を消すために、その後、香港へは3回も旅行することになる。)