きまぐれ聖書講義3 旧約聖書 | 預言者のコラム2

預言者のコラム2

俗言ではなく、預言者の視点から哲学、
人生、宇宙、宗教、
時事問題などを語って行きます。



旧約聖書の構造

聖書というものは現代では1つの本になっています。皆さんも最寄の本屋に行けば、それは大概おいてあることでしょう。

しかし、イエスの時代は当然、新約聖書は存在せず、旧約聖書自体も1つの書にまとまっておらず、「預言」「律法」などに分かれていたようです。

律法とは「創世記」から「申命記」まで。預言とはヨシュア記からおそらくイザヤやダニエルまで。その他、詩編などの諸書があった模様です。

それが現在では1つの書にまとめられたのです。まとめた理由は、それらが散在することによって失われないようにした、ということと偽典を排除するためと思われます。

「儀典」というのは、「にせ物」のこと。つまり、後の世代の人がいかにも本物らしく繕った書のことです。

しかし、ケイシーによればこれらの中にも霊的な意味の見いだせるものもあったようです。たとえば「リリス」という言葉はアダムとイブの時代にいた雌の種に属する生物のようですが、正典には描かれていません。
それが書かれた書にケイシーは言及しているのです。

しかし、明らかに怪しいものは現在では排除されていて安心して読むことが出来るのです。
ただ、私が見たところ、「エステル記」や「雅歌」などは霊的な意味がないように思えます。

文書

文書はほぼ歴史順に揃っていて、宇宙創造から太古の文明~紀元から1000年前のイスラエル王国建国、イスラエルの滅亡、次いで救世主の出現預言で締めくくられています。

途中のイスラエル王国の言及は他国の人に関係ないように思えるでしょうが、聖書は文字通り読むだけでなく、比喩的に読むことが出来るものなので、そういった意味で、地球上の全人類に関わったことが書かれていると言えるのです。
(各文書の意味については後に)

誰が書いたか

全ての文書は適当に書かれたものではありません。著者たちは明らかに霊的な視点でこれらを書いています。

それは神話と同じ技法です。日本の古事記やギリシャ神話など。
これらは皆さんにもポピュラーでしょう。

ただ、アマテラスやスサノオの物語は寓話化しているもので、文字通り解釈すべきものではありません。ゼウスやヘラクレスの物語もそう。

聖書もある側面ではそうなのです。
しかし聖書は神話のような破綻がないかのようです。
神話は常識的にはありえないことが書かれていますが、聖書は常識的なことも書かれているではありませんか。

例えば「サムエル記」などはそのまま歴史書のようです。
そしてこれらは時の霊視者たちが~それもある特定の神の使者というような人たちが、上から啓示を受けとって書いたものなのです。

いつ書かれたか

一番古いもので8000年くらい前です。最近のもので2000年前。

以来、啓示はないというわけですが、ノストラダムスなどは、数ある彼の預言の中から厳選して解読すれば、2000年前から現代までの穴埋めの一助を担っていると言えます。
またエドガー・ケイシーのリーディングも。

(さらに言えば、私の言葉もその一端であるのです。~疑うのであれば「愛の預言・宇宙の法則」を参照~ただ、くり返しますが、決定打はまだ出していませんが)

どのような内容か

宇宙がどのように作られ、人間がどのように作られ、人類がどのような歴史を辿ったか。
そして神はどのように人間に関わり、その使者たちがどのように活動しているか。
現代の人間たち~我々~は宇宙の歴史の中でどの位置にいるのか。
また、宇宙は地球はどのようになって行くのか、
が描かれているのです。
ただし、文字通り読んでも分からないような仕組みになっています。

どのように読むべきか

まず、文字通り読みます。というかこのようにしか読めないでしょう。
次に読める範囲で裏読みするよう試みるのです。

「神は7日で世界を作った」というがその意味は?とか。
「ヨシュアは女も子供も家畜も剣の刃で殺して、町を焼き払った」とあるがその本当の意味は?とか。
「ヨナ書」に関しても、ヨナが神に選ばれた理由、彼が神の意志に背いた理由、彼が大魚に呑まれた意味など。

それらをこれから紹介して行きましょう。ただし、現時点で明かせる程度になります。

付加:現代宗教の正体

明かさない理由は、一度に発表したいからということと、
教えてしまうと知りもしない人がいかにも、したり顔で「自分はそんなことはずっと前から知っていた」という態度を取る危惧があるからです。

そもそも人間とはそういうものです。これまでなかったものに対して最初は「否定」します。
次の段階で彼らは「そんなものはずっと前から知っていた」という態度を取るようになるのです。

そこのどこがまずいのか? 
それは知りもしない人間がいかにも知恵者のような態度を取ると、それを聞いた人間がうつろな人間を崇拝してしまう危険があるのです。
うつろな人間のにわか知識でも真理には力があります。ですから浅い人間が高慢になるということも起こりうるというわけなのです。

~みなさん、あらゆる宗教の似非指導者というのはこういうものなのです。わかりましたか。

それにもし、そのうつろな人間を信用して質問者が彼に疑問をぶつけたとします。
しかし彼は似非なので引出しがありません。そこで確信もないのに「憶測」を述べるようになるのです。

するとどうでしょう。彼を信じる人はその憶測を信じてしまうというまずい状況になってしまうわけです。
このようなことが起こらないようにしたいのです。

~これも現代宗教の指導者たちの姿である

私がアメーバ・ブログを始めて、アメーバ内を覗いて思ったことですが、いわゆるスピリチュアル系のブログのほとんどがこの「憶測」で成り立っているということです。
私への相談者の中にもブログを紹介してくださる方々もいらっしゃいますが、正当的なものもありますが、眉唾ものも多々あるのが現状なのです。




過去記事

愛の預言、宇宙の法則
(人生とは何か、人はなぜ生きているのかが分かる)

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(あなたのカルマ、才能、欠点が分かる)