こんにちは。

聖書に書かれた暦(太陰太陽暦)では二千二十三年はまだ三ヶ月を残していますが、一般に使用されている太陽暦では年が明け、二千二十四年となりました。一月一日の能登半島大震災に始まり、二日の海保航空機と日本航空旅客機衝突炎上事件、三日の北九州での火災、四日には山手線刺傷事件、五日の東京西新宿で火災、八日には田中元総理「目白御殿」での火災と余りにも不自然な出来事が連日発生しています。当ブログを訪問してくださったあなたや、ツイッター(X)で自主的に情報収集をされている方ならお気づきだと思いますが、近代の大規模な天災と認識されているものはすべて新世界秩序(NWO)推進派である支配層の人々、悪魔崇拝者の人々によって人為的に計画されて彼らの手駒の人々(工作員)によって起こされているというのが現実です。支配層の人々は二千三十年にジョージア・ガイドストーンの第一項に書き記していた通り世界人口を五億人まで削減し、すべての人々にID番号を付与して監視下に置き、人工知能で管理する彼らにとっての理想郷の実現に向け着々と歩を進めています。能登半島の地震や北九州の火災もスマートシティや十五分都市の実現に向けて行われたものと見て間違いないと思います。ツイッター(X)で日々情報を発信している人の中には、新世界秩序の概要については理解しており、憲法改正の危機が迫りつつあることに警鐘を鳴らす投稿もそれなりには見られますが、報道機関が動かざるを得ない程の大規模な抗議活動が起こる気配は一切なく、日本政府がかねてから計画している通り、憲法改正は太陽暦の九月中に現実のものとなりそうです。ツイッター(X)では #自民党に殺される とか #人口削減 といった「死」を連想させるような言葉がトレンド欄に並び、ワクチン未接種の人々の大半が「死」について真剣に考えるようになってきたように見受けられます。誰もが知っての通り、すべての人に必ず「死」は訪れます。今回は「死の恐怖を追い出すために」と題して書き進めたいと思います。

 

さて、読者のあなたが人生の中で、死について最初に考えたのはいつだったでしょうか。手前を含め多くの人は祖父母等の身内の人と葬儀への参加を幼いうちに経験したり、知人や友人が事故等で亡くなることを体験し、他者の「死」に慣れていくのではないかと思います。現代社会に目を移すと、コロナ犯罪が太陽暦の二千二十年から始まり、翌年の春からワクチン接種事業が開始され、これまでの超過死亡者は四十二万人を超えています(参考ツイートはこちら)。世に属する人々は、ワクチンに含有されている酸化グラフェンや水銀やアルミニウム等の金属類などばかりに目を奪われ、mRNAが遺伝子を操作してしまうという重要な事実を直視しようとしません。

自ら進んでワクチンを接種した人は勿論、ワクチンに何が含有されているかを考えようとせずに自分の子どもに接種させた親たちもコロナ犯罪に加担しています。接種者は霊的には死者であり、彼らが救われることはありません。神は生きとし生ける者の神であり(列王下十九章十六節、エレミヤ三十二章二十七節、イザヤ三十七章十七節、ダニエル六章二十一節等参照)、新約時代を生きる我々現代人は、神の御子であられ、天と地のすべての権能を授かっておられる(マタイ二十八章十八節参照)、主イエスを教師とし、従順に従うのが人としての正しい生き方です。過去記事「分と時を弁える」等でも述べさせていただきましたが、主イエスはモーセの律法の一部を廃止・更新され、神の律法を完成されました。廃止された律法の一つが、法を犯したものを石打ちの刑にして殺す死刑制度です。現在世界で、死刑制度を残している国はそれ程多くはありません。

世界的には死刑の廃止が進む。国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」によると2021年現在、死刑廃止は108カ国。10年以上執行がないなど、事実上の廃止を加えると144カ国に上る。一方の死刑存続・執行国は日本や中国、北朝鮮、イランなど55カ国。先進38カ国が加盟する経済協力開発機構(OECD)の中では日本と米国だけだ。

(引用元はこちら、東京新聞)

引用元:「死刑の執行件数の推移」(nippon.com)

 

大手報道機関は報じませんが、日本はいまだに死刑制度を持ち続ける世界的に見たら稀な国家です。上記のグラフを見ていただければ分かる通り、死刑執行数が突出しているのは二千八年(法務大臣:鳩山邦夫氏)と二千十八年(法務大臣:上川陽子氏)で十五名でした。特に二千十八年の死刑執行が社会的に問題視されたのは、オウム真理教関係者七名の絞首刑が執行されたのが七月六日で、前日は西日本豪雨により多くの人々が豪雨による被害で苦境にあったにも拘らず、死刑執行の指示が上川法相から出され、夜には「赤坂自民亭」と呼ばれる酒宴が開催されていたためです。手前はこの時はまだ聖書を読み始める前でしたが、国の政治と属していた企業の社内政治が酷似していること、上級国民と呼ばれる人たちがそれ以外の人々の人権を平気な顔で無視していることに気がつき、やり場のない怒りの感情をどこにぶつけるべきかを考えていた時期でした。ミカエル氏の記事「正月と日本人の現実」から死刑制度について書かれた箇所を引用させていただきます。

欧米人は昔から変わらず人命を軽んじる者が多いです。イスラム圏の国々もイスラム法に基づき死刑を残しており、そもそも異教の価値観と法に支配されているので問題があるのは当然です。仏像や地蔵等の偶像礼拝大国の日本も未だに死刑を残しています。日本人は死刑を喜んでいる気質さえあります。殺人事件があれば遺族は殺人犯に死刑を求め、刑務所で税金で飯を食わすのがもったいないから早く死刑にしろと言う高慢な日本人が多いです。犯罪者も一人の人間の命と考えず、命の重さを考えず、すぐ死刑と連呼するのは聖書でピラトが主イエスを釈放しようとユダヤ人の大衆に呼びかけた時に、ユダヤ人たちが「十字架につけろ」と叫び続けたことを想起させます。本当に、日本人は古代イスラエル人と同じ気質があります。

余談ではありますが、手前は会社員だった頃に「技術革新(イノベーション)の中心地」と呼ばれる支那の深圳に出張する機会が数多くありました。社会主義国である支那は「命の値段」を軽視する国家です。特に深圳のような経済特区では貧富の差が非常に大きく、富裕層の人々は高級な欧州車を乗り回したり銘柄(ブランド)品で着飾る一方で、金銭的に貧しい人々は乞食のような生活を送り、交通規則があってないような状態なため道路を横断するにも命懸けな様を見てこのような国には決して住みたくないなぁ、と感じていました。支那人も昔から人命を軽んじ、金銭欲や自己顕示欲が強い者が多いです。新世界秩序や世界の様子について興味がある方ならご存知だと思いますが、支那では十五分都市がいち早く完成しており、多くの支那人は超監視管理国家の住人となっています。日本でもスマートシティやスーパーシティの候補地となっている場所からは、可能な限り速やかに離れるのが賢明だと個人的には思います。

少し逸れましたが話を聖書に戻します。ミカエル氏が常々述べられている通り、大衆はいつの時代も愚かで、清貧で高尚な生き方をされた主イエスの教えや、イエスの実践された聖なる生活習慣を忌み嫌い、人の死さえも娯楽にしてしまう残酷な存在です。ここで主イエスが死刑制度に関して問答された箇所の聖句を引用します。

 

ヨハネによる福音書 八章一〜十一節(拙訳)
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早くイエスは神殿の中に入られると、民衆は皆、彼の元へやって来た。そしてイエスは座って、彼らに教え始められた。彼のところへ律法学者やファリサイ派の人たちが、姦淫で捕えられた女を、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫している現場で捕まりました。モーセは律法の中で、そのような場合は我々に石を投げて殺すように命じています。ところであなたはどう考えられますか。」彼らはイエスを試して、告訴しようとして、こう言ったのである。イエスは来られてかがみ込まれ、指で地面に書かれた。彼らがしつこく問い続けるので、主は身を起こし、言われた。「あなた方の中で罪のない者に、まず、彼女に石を投げさせなさい。」そして再びかがみ込まれて、指で地面に書き続けられた。これを聞いて、(彼ら自身の)良心に咎められ、年長者から始まって、一人また一人と立ち去り始め、最後まで続き、イエスお一人と、真ん中にいた女が残された。イエスは身を起こし、「誰も見ていなかったのか。」と彼女に言われた。「婦人よ、誰もあなたを訴えなかったのか。あなたを罪に定めなかったのか。」女は言った。「主よ、誰も。」そしてイエスは彼女に言われた。「我もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯すな。」

 

上記の聖句でファリサイ派の人々が引用したのはレビ記二十章十節です。ファリサイ派とは、ユダヤ教の一派でユダヤ人であることを誇りとし、モーセの律法を遵守しているように見せかけながらも実際は守っておらず、権力者や肩書きを持つ者には媚びへつらい、金に執着する拝金主義者(ルカ十六章十四節参照)でもあります。ちなみにファリサイ(ギリシア語:Φαρισαῖος)の語源はヘブライ語の פָרָשׁ で、裁決する、明確に決める、説明するなどの意味を持つ動詞です。現代社会に当てはめるのであれば、政府お抱えの御用学者と呼ばれる人々や、哲学者たちが該当すると思います。上記の聖句にもある通り、旧約時代の死刑は「石打ちの刑」でした。主の前で正しい王であったダビデは若い頃にペリシテ人の巨人ゴリアトと戦った際、石を紐使って飛ばして彼を撃ち殺しました(サムエル上十七章四十九〜五十一節参照)。神に属する人の扱う石は小石であっても重要な意味を持つことがこのことからも窺い知れます。次に着目するのは「姦淫」という言葉です。再びミカエル氏の記事「今は邪な時代」から引用させていただきます。

聖書では「姦淫」という言葉が頻繁に出てきます。これは文字通りの男女間の不倫のことです。それともう一つ意味があり、主なる神以外を拝むことや心を奪われることをも指します。聖書で主イエスが花婿、神の民が花嫁で、キリストが再臨する時にその花嫁たる神の民を迎えに来ると記述があります。花嫁と聞くと女性を想像するかもしれませんが、「例え」なのであって、女性を意味しているのではありません。聖書では、主イエスへの信仰を結婚の契約関係に例えられています。つまり、夫が主なる神、妻がクリスチャンです。この場合で姦淫というのは、形式上は信仰に入ることで入籍していて、人前では妻(クリスチャン)と自称してそれらしく振る舞って、主人と呼んだり敬うが、その心は夫になく、他のものに目移りにし、夫を愛していない生活を送っているということです。だから主イエスは、大衆やユダヤ教徒らの外見ばかりで神を愛していない心と行いを見抜いて、姦淫という言葉を用いられました。にわかクリスチャンが主イエスの御名を口にしながら、心を別のものに寄せ、罪を楽しむ生活をしているのがまさに姦淫状態です。

「姦淫する」を意味するヘブライ語の נָאַף の原義には、「姦通」「不貞」「不倫」「造形(偶像を造る)」「信仰を捨てる」があります。最近になって再び常軌を逸した性犯罪を犯しまくったエプスタインに関する報道や、性的に堕落しきった芸能人たちに関する報道、偶像集団(アイドルグループ)の解散等が取り上げられていますが、これらの報道はすべて憲法改正から大衆の耳目を逸らさせるためのスピン報道ですので、読者のあなたはそのようなくだらない話題には目を向けないようにし、すべての芸能人は支配層の工作員だと認識を改めていただきたいと考えております。

ちなみに一般には芸能人のことをタレントと呼びますが、この言葉の語源はギリシア語の τάλαντον(タラントン)、重さと貨幣単位を表す言葉です。マタイ二十五章十四〜三十節の『「タラントン」のたとえ』は、主人が三人の僕たちに能力に応じて一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けた結果、与えられた資産を思慮を尽くして商売し、努力して増やした二人は主人から褒められたが、怠惰で何もしなかった三人目の僕は与えられた一タラントンも取り上げられたという内容のたとえ話です。怠惰であること、何もせずに時間という誰にとっても大切な資産を無駄にすることは悪い事です。また、「あんた方に確かに言っておく。金持ちが天の王国に入ることはほぼない。重ねて言うが、金持ちが神の御国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しい。」(マタイ十九章二十三節〜二十四節 ミカエル氏訳、真の聖書福音と預言「成功するためには」より引用)と主は仰っており、主は人間が作った金銭に拘泥して拝金主義に陥ることなく、「あなたの全心で、魂を込めて、思慮を尽くして、あなたの神を愛するようになる。」(申命記六章五節、マタイ二十二章三十七節参照)、「あなたの隣人を自分自身のように愛するようになる。」(レビ記十九章十八節、マタイ二十二章三十九節)とあるように神を愛することが最重要で、次に大切なのは隣人愛であることを教えられました。NWO支配層の者どもの正体は、我々庶民には想像も出来ないような巨万の富を生まれながらに先祖から受け継ぎ、手に余る金銭と時間があるが故に、自分の身内だけでなく大衆の金銭や財産といった目に見える資産だけでなく、心をも支配しようとする強欲極まりない者どもの集合体です。「欲望が孕んで罪を生み、罪が成熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙 一章十五節参照)にある通り、支配層の手先である為政者たちや芸能人たちは所詮は死を恐れ、自己顕示欲を満たそうとする臆病者たちの集まりにすぎません。いつの時代も支配層の上層部にいる者たちは、人目につかないところに隠れ、様々な手段を使って大衆に恐怖を与えて視野狭窄に陥らせ、彼らに歯向かわないように懐柔し、やりたい放題悪行の限りを尽くしてきました。「人生において何が善いかを知る人にとって、人生のすべての日々は虚しく影をつくるようなものだ。その生涯の後に何が起きるのかを教えてくれる者は、太陽の下に誰もいない。」(コヘレトの言葉 六章十二節、参照)とある通り、すべての人は他人に依存するのではなく、自分を客観視し、何に対して恐怖や不安を感じているのか考えることが必要だと思いませんか。

 

ヘブライ人への手紙 二章十四〜十六節(拙訳)
ところで、(神の)子どもらは血と肉を備えているので、彼(イエス)もまた同様に、これらを備えられました。それ故、死の権力を手にしている者、つまり悪魔を、御自身の死をもって滅ぼされ、死の恐怖でその生涯を奴隷として束縛されている者たちを、解放なさるためでした。確かに彼(イエス)は天使たちを救援されるのではなく、アブラハムの子孫たちを救援されるのです。

 

上記の聖句にある通り、主イエスは御自分の死を持って悪魔を滅ぼされ、アブラハムの霊的な子孫である真のキリスト者を救済されるのです。恐怖や不安を意味するギリシア語 φόβος の原語である φέβομαι は「恐れて逃げる」という意味の動詞です。「慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。」(ヨハネ一 四章十八節、ミカエル氏訳「本物の愛」より引用)聖書を読み込んで、主イエスこそが本物の慈愛であることが理解出来ると、他人の目など一切気にならなくなり、恐怖を与える者たちと(物理的ではなく霊的に)戦う勇気が湧いて来て、肉体の死に対する恐怖が無くなると実感しています。そして、忘れてならないのは主イエスが説かれた自己犠牲の精神です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 」(ヨハネ 十五章十三節参照)と主は仰り、何一つ罪(神の律法違犯)を犯されず、嘘偽りも性的な汚れもない生涯を送られたのに、非暴力服従の姿勢を貫かれ、愚かな大衆の声に従った為政者たち裁判結果を受け入れられ、旧約聖書に預言されていた通りに十字架刑で亡くなられました。真のキリスト者になろうとする者は皆必ず周囲の人々から迫害を受けます(ヨハネ十五章二十節、テモテ二 三章十二節等参照)。三〜四世紀の歴史家エウセビオスの「教会史」(上・下巻、秦剛平訳、講談社)やその他書籍によると、主イエスが天の国に帰られた後に使徒や信者であった人たちの大半は、生きたまま皮を剥がれたり、この上なく酷い拷問の末に殺された史実が記されています。現代社会は正にソドムとゴモラの時代のような性的倒錯者だらけ、ワクチンを打ったゾンビ人間だらけの世相となっており、都会では事故や事件に巻き込まれる危険が非常に高い世の中となって来ました。真のキリスト者を目指すのであれば、神の律法と日本国憲法を遵守し、支配層が収集しようとしている重要な個人情報を渡さぬように留意し、迫害を恐れることなく歩んで行くべきです。「我は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(ヨハネの黙示録 三章十九節参照)と主は仰りましたし、旧約聖書には「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。」(箴言一章七節、ミカエル氏訳「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」より引用)とも書かれております。多くの人は叱責されたり矯正されることを嫌がりますが、品性を高めるには隣人や信仰上の兄弟の助言や叱責を真摯に受け入れ、自分の弱みと真剣に向き合い、努力しなければなりません。「我の命じることを行うならば、あなた方は我の友である。」(ヨハネ 十五章十四節参照)主イエスと全人類が守るべき、神の律法を愛し、最後まで守り通した者を主イエスは友と認めてくださいます。主イエスは、神に属する者に完全な者となることを推奨され(マタイ 五章四十八節参照)、神に属する者を憎む敵に対してでさえ愛をもって接し、良いことをするよう教えられました(ルカ 六章二十七節参照)。慈愛は人を完全な者にする最も重要な品性です。何事も慈愛をもって行い、共にキリスト道を歩もうと思いませんか。

 

今回は「死の恐怖を追い出すために」と題して慈愛の大切さをお伝えさせていただきました。コロナ犯罪を契機に世の中は艱難期と呼ばれる時代に突入しています。この記事の読者であるあなたは、世の中が腐敗し切っていることや、聖書が真理の書であることにお気づきのことと思います。日本語でも「後悔先に立たず」という慣用句がありますよね。聖書を複数回通読して神の律法を覚え込み、生活習慣を変えるにはかなりの時間を要します。決断をして自分の人生を変えることが出来るのは、読者のあなた自身だけです。ミカエル氏の前回記事「成功するためには」では、質問や相談の手順について詳細に説明されていますので是非ともご一読ください。また、ミカエル氏に相談しにくいことがあるようでしたら、手前の記事に対して投稿を寄せるとかメッセージを送信してください。共にキリスト道を歩もうとする方が、一人でも多くなることを願っております。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。