山田リスティングのブログ -66ページ目

彼の諱の偏から採った

平信範 の日記は、彼の諱の偏から採った『人車記』(信→人・範→車)と兵部卿の官職と諱の一字を組み合わせた『兵範記 』、更に「洞院(地区名)に住む平氏」という意味の『平洞記』という呼称が併称された。

公家の日記

今日伝わる公家の日記の書名の多くは没後に付けられたものであり、執筆者自身は「私記」(藤原実頼清慎公記 』・藤原資房春記 』など)や「暦記」(藤原実資小右記 』など、具注暦 に日記を記したことによる)などと呼ぶ例が多かった。自ら命名した日記の名称が後世に伝わるのは、後奈良天皇天聴集 』や中院通秀塵芥記 』など少数である。多くは執筆者の の偏旁を採って重ねたり、諡号・官職・姓氏・居所やこれらを合わせたものが、後世の人によって命名されたのである。従って、1つの日記に複数の名称が用いられる事例も多く、藤原実資の日記は彼が「“小野宮家”の“右府(右大臣)”」であったということから、『小右記』・『野府記』という名称が並存し、更に祖父・実頼の『清慎公記』の別称『水心記』より、『続水心記』とも呼ばれている。

平安中期以降

平安中期以降は、摂関家や小野宮流勧修寺流 藤原氏、高棟 流平氏などが代々多くの日記を残しており、本来儀式のためのメモであった実用品としての日記が、12世紀に入ると「家」の日記化(家記 の形成)し、さらに別の機能が付加され、中・下級官人も含む多くの貴族たちによって記されることになったと考えられる。中・下級官人の家柄で代々当主の家記を所持する家を特に「日記の家 」と称した(『今鏡 』など。また、実際には天皇家や摂関家にも「日記の家」としての要素があった)。