中国の日記
ヨーロッパの日記が、日本において日記が作成された時代より後に現れてくるのに対し、これから説明する中国のそれは、文字・仏教・国家制度その他日本の文化のかなりの部分がそうであったように、直接的・間接的に日本の日記の出現に影響を与えたことは確かなようである。以下、玉井幸助『日記文学概説』、曾沢太吉「『日記』は果して中国からの借用語か」(『国語国文学』27-10)によって、中国の日記について説明していこう。
中国における「日記」の語の初見は、後漢 の時代に活躍した学者王充 の著した『論衡 』の巻十三効力篇に「夫文儒之力、過於儒生、況文吏乎、然能挙賢薦士、上書日記也、能上書日記者文儒也」とあるものであるという。ここにみえる「日記」について、玉井は「学者が研究の為に資料を蒐集して之を整理し記述したもの」として、後代中国において主として日記と呼ばれた「学者が研究の為に抄録した書及び門下の修学に資する為に記録した書、更に村塾に於て童蒙に課する教科書の如きもの」の起源とされている。玉井によれば、以後中国において日記の名を持って著された作品は、これらのものの他は随筆・紀行の類が中心であり、日次記としての日記は日本に比較して極めて数が少ないという。
ドイツ
- 『ニュルンベルグの死刑執行人フランツ親方の日記』(1573年 - 1615年)
- 日本語訳には、藤代幸一訳『フランツ・シュミット ある首斬り役人の日記』(白水社)がある。
以上のわずかな例からであるが、現存の日記、特に16世紀以前のものを記した記主の社会階層としては、聖職者や教会関係者が多く、またイタリアでは商人の日記も多いようである。これは当時のヨーロッパ社会において文字を自由に使用できる階層を反映したものと考えられる。これらの階層以外の人々によって日記が記されるようになるのは、17世紀以後であり、日記がつけることが一般の人々の生活習慣として広まるのは、18世紀末以降である。
イギリス
中野記偉(「日記 の文学と文学の日記」 )によれば、日記(diary)という語の英語の文献における初出は文芸復興期の1581年であり、元来丸太の意味であったlogという語に、航海日誌の意味が加わったのもほぼ同じ頃であるとのことである。さらに日記の発生について「日記が人間記録として明確に出現するのが、近代人の誕生と時を同じくしていることに意味があろう。自分の目でものを見て、自分の意思で生き、その結果については自分が責任をとるといった習慣の発生は大きな関係があるといわねばならない。したがって日記をつける行為は自我の覚醒とも密接に関連し合うのである」と述べられている。