選挙の結果について思うこと 煽る候補、政党の躍進の意味

(最終改訂2022/7/21  23:33)

 今の時点で、煽るのが顕著な勢力だと私が思うのは、公明党、日本維新の会、れいわ新選組、N党。(自民党のように代表が変われば変わる場合もある。とは言っても、後述するように自由主義である。)
 煽る勢力の堅調ぶり、躍進があった。比例の得票で日本維新の会が立憲民主党を上回る、N党の議席獲得など

 「煽る」ということは...、それを真に受けた人から「冷静で理性的な判断」を奪う→その状態は、いわば自己喪失であり、つまり、その人は主権者たり得ない可能性がある→民主主義の前提から外れる→民主主義の否定になる(自由主義化、全体主義化)。大袈裟なこじつけで言っているのではなく、このように順を追って解釈したように、実際に民主主義を壊す働きをすると思う。自己喪失とは、あたかも前頭葉が働かないような状態で、感情の抑制も効かない。老化によってもこういう状態は増えそうである。

 ちなみに、「熱狂」は強烈な依存心なので(熱狂の対象と一体化し同じになった感覚を生むということは)自己喪失を招き、民主主義の前提から外れ、民主主義を生まず全体主義に寄与する。つまり熱狂で独裁者を倒しても民主主義にはならない。→いったん全体主義化したら抜け出すことは極めて困難、しかし、それは国民性がもたらした結果でもある。

 「愛国心」も強要されることによって自己喪失となり、また、その「潔癖」性によっても後述のように自由主義を強めるため、民主主義から外れ全体主義に寄与する(愛国心に限らず「強要」は、自由を奪い、個人が持つ普遍的モラルを破壊する。軍隊で規律が乱れるのは必然。コロナ対策での実質的な営業自粛の強要でもモラルは乱れた。「飲食業のせい」も後述の自由主義の「決めつけ(責任転嫁)」の一種であり、認識の歪みがある。実際には物を介した接触感染も一定程度あると私は思う。そこを見落とし「密」ばかりに着目してマスクを含めた接触感染対策の意味を見落とすと感染拡大する。)。

 話はそれるが、シベリウスの音楽「フィンランディア」からは熱い思いが伝わってきてとても感動的である。この曲の背景にある当時のフィンランドの人々の祖国独立への思いと、前述の「熱狂」や「愛国心」とは果たして同じものか違うものか。別のものであって欲しい気がしてしまうのだが...。それとも私の考えが間違っているのか。フィンランドはロシアからの独立後はしばらく不安定だったものの、第二次世界大戦ではソ連軍との戦いで善戦し、東欧諸国のようにソ連には取り込まれなかったのである。なお、フィンランドを含む北欧は後で若干触れる「遺伝的に」自由主義でない人(「自由主義でない」は私見であるが、Y染色体ハプログループIの系統)が多い地域であり、もしくはルター派が普及した地域であり、それ(どちらかか両方か)が効いているのではないかと私は思う。つまり、前述の話(以下も同じであるが)は「自由主義的な国民性の国では」という条件がつきそうである。不安や恐怖が過剰だと自己を失いやすいということである。逆に、過剰でなければ他者を信じて協力し合うことも行いやすい。北欧の人たちは少なくとも現在、英米系とも全体主義とも違う社会民主主義の体制となっていることからしてもその違いはある。さらには、「不安」と「不満」は、例えば「これでやっていけるか不安」が「これでは足りない(不満)」とつながるように、ほぼ同じであり、不安が尽きないなら「不満が尽きない」になるであろう。北欧の人々の幸福度が高いのは、やはり「過剰な不安がない」からに違いない、そして「中庸(ちょうどよい)」を見出せるからに違いないと想像してしまう。

 


 「〇〇しさえすれば...」「〇〇が悪い」という「決めつけ」の発想は煽る勢力の定番(ただし、ある政策によって実害を被る人がそれに反対するような場合はこれとは別である)。これらは非常に危うい考え方である。物事は因果関係の連続によって起こるということが無視され、認識が歪み間違いが起こるからである。例えば「消費税を廃止しさえすれば...」について、まず消費税というフラットな税制は、あっても無くても資本主義を邪魔しないので、無くしても格差は拡大し、消費が喚起されれば多少デフレ要素が緩和され貧困も緩和される可能性がある一方で、税収減少は「小さな政府」化になり、これも格差拡大につながる(景気が上向いて現状の所得税で減収分がカバーできてしまうというのは無理があるのでは。しかも少子高齢化と人口減少社会で。もし試算したのなら、それは妥当なのか、そこが肝心なところ。)。格差を緩和させ税収を維持する所得税の累進性の再強化などをセットにしないと、消費税廃止だけでは解決しないと私は思う(消費税廃止のための財源が要るということ)。「〇〇が悪い」という「決めつけ」は「人のせいにする」のと同じで歪んだ責任転嫁となり、何かを見落とし、短期的、一時的には良くなったように見えても問題は解決しない可能性がある。自由主義で行われる緊縮財政も「決めつけ」が基本なのでその最たるものかもしれない。複雑な社会現象に対して、本来は試行錯誤できるといいと思うのだが。

 

 人任せ(すがる、熱狂する、人のせいにする、鵜呑みにする)では基本的に民主主義は成立しないとするなら、自分の理性で考え納得する力、相応の知性が絶対的に必要である。つまり、学校の勉強を軽視してはいけない理由の一つはここにある。立身出世のためでなく、支配され、生存や生活を脅かされないために勉強しなくてはいけないということ(全科目)。ただし、国家が自国を賛美するように歴史を歪曲し愛国教育などを始めてしまったらもう手遅れであろう。その状況では従順に学ぶほど支配されてしまう(かつて、それは国家が国民を洗脳し国に自己の全てを捧げるよう仕向ける最も基本的な方法として日本でも行われたものである)。さて、今はどうなのか。

 自国を賛美して何が悪いと言われるであろうが、歴史の理解を含めて、歪んだ「決めつけ」をしてはいけない。後述するように、歪んだ「決めつけ」は破壊を生み、その破壊はさらに破壊を生むからである。安倍元総理の事件はまさにそれを明瞭に示している。統一教会の歪んだ「決めつけ(思想、献金の意味目的)」が今回の事件の犯人の母親の理性を奪い、家庭を破壊し、それが犯人の破壊行為につながった。歪んだものは理不尽ゆえに怨恨を生むとも言える。しかし、この見方自体にも「決めつけ」が含まれる。ネット上で見た情報では、この母親は統一教会入信前には、実践倫理宏正会に入れ込み、それが元で夫が自殺したと言う。統一教会以前にもともと本人の「すがる」精神という特質があり、自己を失っており洗脳されやすかった。その背景にはおそらく強烈な不安がある。そういう場合によくあるのは、不安から逃れようとして不幸の原因を神仏や霊など何か自分以外の真偽不明なものに求めてしまい、一見すると自己を責めているが実は強烈な責任転嫁=神仏や霊のせい(神仏や霊が私を責めているから)というパターンである。責任転嫁では反省ができず問題は解決しない。こういう人に「自分を責めるな」と言っても、もともと言葉とは裏腹に「自分のせい」とは思っていないのだから無意味だし、また例えば、宗教が「感謝」という道徳を説いても、責任転嫁の人に感謝の念は起こらず、その責任転嫁を導きがちな宗教がそんなことをしても無意味である。おそらく自然への畏怖や「感謝」があった原始宗教は、自由主義の膨張により「人を支配する道具」にすり替わったのであろう。近現代において「宗教」と呼ばれるたいていのものはそうではないかと思う。つまり、前述のような責任転嫁を増強し、その無責任によって家庭不和を招き、子を不幸にする。統一教会などは、特に日本では、贖罪のためと称して日本人からお金を搾取するのが目的の団体であり、自由主義ならではの現象として、日本など他者を否定し攻撃する内容が統一教会自身の本質そのものになっている、つまり全体主義だし悪魔的である。Wikipediaの情報によれば、創設者は10代の頃に兄弟の精神病をきっかけに一家でカルヴァン派の一派である長老派に入信したとされ、人間の「全的堕落」を第一教義とするカルヴァン派の影響が統一教会にも感じられる。また、日本を植民地化し完全に支配することが創設者の願いの一つだったらしい。だとするなら、反日保守政治家の一人に過ぎないが、なぜ信者を獲得できたかと言えば、おそらく自身の宗教遍歴により人の不安や弱みにつけ込む詐術を身に付けていたからであろう。日本のかつての植民地支配への恨みがもしあったのなら、日本自身が蒔いた種でもある。しかし、そんなことに思いを馳せるはずもない、統一教会に友好的な保守政治家や献金で活動を支えた信者は「売国的」と言われも仕方ないであろう。これを調べる中で安倍元総理の「美しい国」は時系列から見て統一教会の日本の初代会長の著者名からとったに違いないとわかった。看過できない影響だと思う。日本の全体主義を批判しながら日本の右傾化に関与するという矛盾は後述するように自由主義ならでは...つまり「潔癖」に自由主義=悪魔を否定することでむしろ自分自身が自由主義=悪魔になる(あるいは、もともと自由主義だから他者の自由主義を否定し排除する)...である。共産主義を否定しながら、自ら共産主義と本質的に同じになる(もともと同じだった)ということでもある。共産主義も資本主義を否定しながらその潔癖さゆえに自ら資本主義自由主義と同じになった(もともと同じだった)。まさに物事は因果関係の連続で起こるのであり、何が原因か元を順に辿ればきりがなく、これだと「決めつけ」られない。

 政府や昭恵夫人も、今回の事件の犯人を糾弾したりせず、騒がず冷静であるのは、破壊を拡大させない意味で大変よいことだと思うが、見方を変えると、統一教会に関心を向けさせたくない、関心を持たれると困る保守政治家が与党の中心なので「騒がない」とも取れ(あれだけ「特定の宗教団体」が明かされなかったのだから当然そう思う。だとすると純粋には喜べないが。)、また一方では、黙ることは統一教会への恨みを一定程度理解するという空気にもつながるので、それらの政治家にとっては複雑であろう。しかし、ひとまず冷静であるのはよいことだと思う。そして、この事件はテロではないという理解になっているようであり、それで実際正しいと私は思う。犯人を犯行の前(前日だったか)に目撃した人の話が確か紹介されたが、憔悴し生気のない心ここに非ずの様子だったと語っていたと思う。大それたことをしようとしていることへの躊躇と、どうにも抑えることのできない怒りや恨みとの間で激しい葛藤が(長い間ずっと)あったのではないか。つまり、政治的にどうのとか、教会を「社会的に」糾弾しようとか、そんなことを考える心の余裕はなかったのだろうと思う。そう装ったのではないかと、そこまで深読みするのはもう自由主義的な「決めつけ」に近いと思う。

 また、犯人の行動についてもう少し細かく解釈すると、以前の記事から書いているように、単に「銃を手にする」ではなく「銃を得て、(具体的に)〇〇したい」というイメージがあるのは(今回、その内容は社会的に許容されないことだったが)、自由を創造するあり方で、実際に自作して開発までしている(例えば、ただ「自分は医者になる」とか「大学に行く」とかだけで、そのあと超具体的に「で何がしたい」というイメージのない目標は、動機に何らかの「決めつけ(責任転嫁...家業だから仕方なくとか、学歴社会だからとか「だけ」)」があり、これは目的がないのと同じなので(たとえそのように自由を制限された中でも、「その条件の中で自分がしたいことやその条件とは関係なくどうしても強烈にしたいこと」を具体的に見い出しイメージできるかどうか、それがないと)、たとえその目前の目標は達成できたとしてもいつか人生そのものから脱落する可能性があるのに対して、「何がしたいか」具体的イメージのある「自由の創造(自由とは、自分の意思で決定でき、実現可能な選択肢が多いあるいは大きいこと。その選択肢の創造。)」の場合、その目的は果たされやすいということ)。「発明などにより新たに生み出された自由は平和にも破壊にも利用可能」であり、今回は破壊のために利用されてしまった。親自身の性質やカルト宗教から始まる破壊の連鎖が無ければ、創造性を平和のために発揮でき自身の人生も破壊せずに済んだかもしれないのに。 さて、自国の賛美の話に戻ると、自画自賛などの「虚勢」(背景には不安がある)と自己肯定感は似て非なるもの(自由主義での自国賛美は、自由主義が不安を起源としているので前者になる)ということもできる。

 今回の選挙で見えたことは、着実に自由主義化が進んでいるということ(自由主義とは: 不安や恐怖を起源とし、奪われる不安に対して自然を含め他者の自由を不寛容に奪い独占支配するあり方。私的所有=排他的独占支配を基礎とする資本主義と一体である。不安や恐怖に支配されているという点で前頭葉が働いていないかのような状態でもある。生存本能である危険回避のための不安や恐怖の反応が過剰に起こってしまうということ。そして、一刻も早く不安から逃れて楽になろうと、他者にすがったり他者に責任転嫁して無責任になり自己を放棄して理性もモラルも失う状態が、まさに洗脳を受け入れる状態と同じ、前頭葉が働かない。 何でも「人のせい」と「決めつけ」て、またはレッテルを貼って認識の歪みを生み、責任を逃れ楽になるという、反省がなく無責任なあり方。不安を背景とした「虚勢」の自画自賛も特徴的であり、強烈な自由主義である全体主義では特に顕著である。反省できないのは自己認識、自己の客観視ができないからで、つまり、あたかも自分自身が何者かわからないかのような状態があるが、魚も含め単独か群れかを問わず「縄張り」をもつ脊椎動物が同類同種の他者に敵意を持つのと全く同様に、否、それ以上に「過度に」我を忘れて同類他者への敵意に染まり、その結果、相手が同類であるがゆえに相手を否定し攻撃する言葉の内容が実はそのまま当人に当てはまることになり、つまり、言っていることとやっていることが倒錯する場合が非常に多く、これは自由主義の一大特徴である。米ロも米中も同類であり、冷戦時代の赤狩りなどは独裁国家の粛清そのままであった。まさに、自分を棚に上げて「人のせい」にし、責任転嫁しているかのようで、自己認識がないのは、例えば鏡像認知の実験で動物が鏡像の自分を見て「同種の他者=敵」だと認識し攻撃し続けたまま、結局鏡像認知できない姿のようでもある。こうなると万事が倒錯し、わかる人には受け入れ難い「虚言癖」に見える。まるで低知能状態であり、あるいは、恐怖心が非常に強いがために、他者を見ると誰でも同類他者の敵に見えるからか、必ず「攻撃」を伴うのも一大特徴である。これはまさに理性が働かない「決めつけ」の原型であり、「決めつけ」は物事が因果関係の連続で行っていることを無視し認識を歪めるため間違いを起こす。知性を失い退化し、知能の低い動物に戻った状態とも言えるが、問題は人類は既に文明を手にしてしまっているために、とんでもない破壊を引き起こす危険極まりない状態になることである。現実に極端な自由主義の全体主義国家ほど核で脅している。 命令して放任、「兵站なしで戦え」というあり方。自由主義の「小さな政府」では国防や治安維持が中心となる。命令で自由を奪い、放任の結果としての失敗の責任も末端に負わせて自由を奪うという見方もできる。徹底的な略奪。 自由主義の極端なものが全体主義である。全体主義では国家が強烈な自由主義を発揮し、覇権主義、侵略戦争となる。 分子人類学の知見による祖先の系統で4万7千年前の中東で生まれたY染色体ハプログループKの系統の子孫が自由主義の遺伝的な担い手であると私は思う。Kの系統の人々が非常に多いイギリス、南欧の一部、ロシア、東欧、中国、朝鮮半島の歴史や状況、Kの系統でない人々も多い北欧との違い、また、特に大航海時代を牽引し植民地支配つまり自由主義を拡大させたスペイン、ポルトガル、ジェノヴァがまさにピンポイントでKの系統の子孫=R1bの系統が非常に高頻度な地域とぴったり一致し、スペインでは近代でも独裁が長く続いた事実を見てである。また、古くは、大型哺乳類の捕食という効率性重視とその過剰さによってマンモスを絶滅させたのも、その痕跡が残る地域が北米や東欧...北米はKの系統であるQの系統が進出していた...であることからKの系統ではないかと思う。現在はユーラシア、アメリカ大陸の男性の半分以上がこの系統だと推計されるそうであり、混血の影響を考えると実際にはその遺伝子はもっと浸透しているに違いない。Kの系統の人々は農耕を発明し、近代では産業革命を起こし、頭は良いが、搾取が本義である資本主義も含めて、それらは全て自然を「支配」し、人間自身を「支配」することであり、狡猾さとつながる。旧約聖書の「原罪」とはこの遺伝的な性質の獲得と交雑による拡大のことではないか。この変異が生まれた当時、やけにずる賢く盗賊のような危険な一族が現れたと警戒したことであろう。それでもロミオとジュリエットみたいに部族関係なく結びついた男女もいたかもしれない。もし、この遺伝的変異が旧約聖書の「原罪」だとしたら、そもそもこの宗教は一神教である時点でその排他性や権威主義ゆえにもう既に自由主義的=全体主義的なのではあるが、その変異を「罪」と呼んだり、新しい宗派によっては「悪魔」と呼んだり、そのように人々を怖がらせて支配するための「決めつけ(全ては「神」の意志であり御業=責任転嫁)」自体も、あるいは既に「罪」を負った者が「罪」を敵視するのは同類他者への敵視であり、これらもやはり自由主義そのものである。現実にはこれは単に不都合な「遺伝子の変異」であり、自然現象だが「たまたま」不都合な内容であったに過ぎない。キリスト自身は自由主義の修正を試みたのかもしれないが、遺伝的、つまり根本的に自由主義の人が多数派であれば変われない。カトリックも正教会もカルヴァン派も自由主義であり、キリスト教の名のもとに堂々と自由主義が行われている。では「自然のせい」は責任転嫁かと言うと、自然現象は人知はある程度及ぶものの不可避なものが多いというだけであり、また、自然科学の知見は人類「共有」の財産で、特定の「支配」を意図した偏見とは異なる。自由主義の性質には、不安や恐怖を起源として「支配」と同時に「支配され易さ、自発的被支配」も共存し全体主義の要因にもなる。前頭葉の働きが弱いかのような状態ということは、この性質の獲得は一種の退化ではないか。農耕と同様に自分たち自身をも品種改良し家畜化した結果なのかもしれない。Kの系統の子孫が拡大するのはそういうことであろう。 規制緩和という強制的な既存の秩序の破壊によって、イノベーションの余地がない争奪競争のみとなり、コスト削減圧力が搾取の強化を招き、新たな独占を作り、その結果、格差の拡大、貧困化、貧困化によりデフレを招き、経済を低迷させ持続的縮小を招く。 「決めつけ(責任転嫁)」や真偽不明な情報による扇動は破壊を導く。破壊で他者の自由を奪うと、自由を奪われた相手を見て「さらに奪ってやれ」という快楽に似た心理が働き、破壊が拡大する。例えば戦場で残虐行為が起こることや不寛容な誹謗中傷が拡大することなど。 自由を奪われた側にも、その反発として「相手を許さない=不寛容」となり自由主義が拡大、または反発せず「すがる=依存」となれば全体主義化し、いずれにせよ自由主義は自動拡大する。自動拡大を止めないと、これも「破壊が破壊を生む」となる。 近代において日本も含め100年続いた全体主義はないが、崩壊しても自由主義的な国民性があれば時を経て全体主義が再生してしまう。何が問題かと言えば多大な犠牲を出すため犠牲になる側にとってたまったものではないということ。世代交代でその痛みを実体験して知る者がいなくなり、理性が働かずその反省を継承できないから繰り返してしまう。「人間というものは」なのか「自由主義的な人は」なのか決めつけはできないが、自分自身が骨身に染みないとわからない。バブルもお金という虚構を崇拝して理性を失う一種の全体主義であり、その崩壊の痛みを含めてこれも繰り返される。自由主義の拡大による環境の破壊で人類は自滅するのではないか。自由主義は、資本主義で自然や人から搾取し特に自然を破壊し、全体主義でこれをさらに強烈に行うが特に人間の理性を奪い人間を破壊する。 自由主義どうしの争いは不毛な権力闘争、覇権争い、罵り合いとなる。旧米ソ、現在の米中などは、競争という意味では宇宙開発を加速させたかもしれないが、基本的に、同類にも関わらず相手を無闇に警戒し、否定し排除する戦いは不毛だと思う。)。

 

 2020年米国大統領選挙でトランプ氏は「選挙が盗まれた」という真偽不明な情報で扇動し、その信者がそれを正しいと「決めつけ」て、議事堂襲撃が起こり、今なおアメリカ社会を分断している。安倍元総理の事件も、安倍氏と統一教会との関係に関する真偽不明?な情報と、犯人による「決めつけ」で起こったとされるが、安倍氏や岸信介氏と統一教会の関係が、果たしてどの程度「真偽不明」なのか、マスコミが「真偽不明」と言うことでますます不透明になる。前述の視点によりさらに加えれば、これは統一教会の自由主義が自動拡大したものであり、因果を辿ればまた別の要素もある。また、事件当日のいくつかの政党による「言論封殺だ」という的外れなレッテル貼りも危ういものだと感じた。

 


 民主主義とは、国民が主権者であるために、相互に個人を尊重した人々の共存を前提とし、社会や自由や責任を何らかの方法で「共有」する状態である(社会民主主義。「共有」にはいくらかの意思の反映と、いくらかの自由の抑制、「分かち合い」と協力の精神が必要。普遍的モラルである「憐れみや自制心」と通じている。「公共の福祉」。全体主義は公益を口実に「個」を否定し、独占独裁を「共有」だと錯覚させ洗脳するものであり、個人の普遍的モラルが失われる点で全く民主主義とは異なる。)。民主主義は共存が前提であり、「抑制的な」自由主義を含み、「中庸(ちょうどよい状態)」である。例えば、侵略戦争は否定するが専守防衛の武力は必要とし、言論思想の統制を否定するが最小限の警察権力は必要とする、自然から「必要最小限」の命を奪い糧とするなど。自由主義を含むために、自由と民主主義は同列だと見なしがちだが違う。おそらく資本主義が蔓延る以前、自然から命を奪い糧とすることには特別な感覚、感謝のような感覚があり、原始宗教にはそれが含まれていたと思うが、それが「抑制的な自由主義」の感覚に違いない。つまり「必要」かつ「最小限」である。有害駆除で動物を狩ったら「命をいただく」と言って食用にされたりするが、本来は被害への対処=野生動物と人の共存という「必要」への対応なのでズレている(その言葉を免罪符に「最小限」が破られる。狩猟者の生活の糧とするために食肉として市場経済に乗せるというならまだわかるが...狩猟者は高齢化し減っているし...。ただし、市場経済に乗せるということも「過剰」の原因にはなる。また、有害駆除でもなくゲーム感覚の狩猟なら「必要」は当てはまらない。)。本来は、狩って食用にしないと飢える状況があって初めて「(食用として)必要」となる。現在の宗教と呼ばれるものはたいていは自由主義により「(巧妙な)支配の道具」と化している。

 保守・自由主義・全体主義における「個人の尊重」への敵視は、潔癖な平等主義(共産主義など。以下のとおりこれも自由主義。)や我が儘自分勝手(これも自由主義)への敵視、つまり同じ自由主義という同類他者への敵視ではないのか。本来の民主主義の基礎となる「個人の尊重」はそういうものではないはずである(中庸である民主主義にそのような潔癖や自分勝手などの極端な要素はない)。一般に「自由と民主主義」と言う時の「自由」や人権は、「個人の尊重」の否定と共に失われるということに気付いておられるだろうか。2012年の自民党の憲法草案において、「個人の尊重」の「個」が削除されていたことを忘れてはいけない(「公共の福祉」も削除され、まさに全体主義が書かれている)。自民党は、人々が統制に従い、「個」をなくした状態こそが美しく、平和であると考え、全体主義を賛美しているようだが、全体主義によって自己を喪失し生得的普遍的モラル(憐れみや自制心)を失い残虐行為を行うことも美しいと思っているのだろうか(前述の破壊が破壊を生む心理による残虐行為の前段階である)。太平洋戦争など日本人は戦争でその悲惨さを体験しているはずなのに。自由主義では自己認識も反省もできないのであろう。

 

 潔癖に自由主義を排除しようとすると民主主義とはならず自ら自由主義となってしまう(「もともとが自由主義だから、同類他者の自由主義を敵視し徹底排除する」と言うほうが正確なのかも)。共産主義がよい例で、潔癖な資本主義の否定と理想の追求によって自ら資本主義自由主義となってしまい、その極端な状態である全体主義までいってしまう。
 なぜそうなるかと言えば、「潔癖」自体が、不寛容に他者の自由を奪う自由主義だからである(潔癖→妥協しない→不寛容→他者の自由を許さない→他者の自由を奪う=自由主義)。潔癖なカルヴァン派ピューリタンの系統の宗派が多く自由主義の国である英米が新自由主義止まりで全体主義化しないのは、二大政党になる何らかの社会的背景(人種、宗教、階級その他、またそれらの組み合わせにより、たまたま「拮抗」が成立。ただし、例えば、米国では、サンダース氏が頑張っても民主社会主義にはならない程度に全体に自由主義の側に偏っている。)と小選挙区制によりミニ崩壊を起こさせガス抜きをするからではないか。あるいは個々人が無制限に自由を求める総「自分勝手」な国民性の自由主義だからか。だからと言って自由主義には違いなく「本来の」民主主義ではない。日本のように「小選挙区制にすれば二大政党になる」というのは本末転倒で認識が間違っており、実際そうならなかった。日本国内において根本的、質的な違いがあるのが縄文系(Y染色体ハプログループDの系統)と弥生系(同Oの系統)の違いで、系統だけで見ても後述するように現代では弥生系が過半数、縄文系が3~4割なので弥生系が優勢であり、ここに小選挙区制など適用したら、弥生系(=自由主義=保守)がおおかた常に圧勝するに決まっている。そもそも、その違いが顕在化し、それが「縄文系か弥生系か」という違いとして意識されることはまずないが、例えば沖縄の基地問題は、縄文系の多い沖縄と弥生系の多い本土人の支配層との違いが顕在化したものと言える。

 潔癖な共産主義は、その潔癖さゆえにもともとが自由主義なのであり、英米のように自由主義に留まる要素がなければ中国や旧ソ連のように全体主義化する。ただし、それは国民性に由来している。宗教や政治体制は国民性により選び取られアレンジされるものだからである。共産主義でなくなったロシアが再び全体主義化していることからも明らか。全体主義は国民の自由主義的性質が反映されたものであり、だから民主主義になるかというと国民一人一人に主権はないため「民主」とは言えない。それは、個々の人の集合としての「民」か、個を打ち消した全体としての「民」かという違いに留まらず、後者では理性やモラルが破壊されてしまう点が重要な違いである。

 日本の政党も「潔癖さ加減」を見れば自由主義の程度がわかる。他の勢力を否定し貶め徹底排除しようとしている政党は、やはり「煽る」政党、自由主義濃厚な政党である。その拡大により着実に全体主義に向かっている。「身を切る」アピールも潔癖さの一種であると同時に、有権者に媚びているようにも見え、媚びるということもやはり、相手を操作し支配すること、つまり不寛容に自由を奪うことと同じである。

 自民党の躍進も、煽る勢力の躍進も自由主義化の強まり。安倍元総理の逝去に伴う同情、追悼という「感情」に支配された投票行動は、簡単に「煽られる」ことの現れ(事件の投票への影響は十数パーセントだったらしいので、そんなに大きくはなかったようだが)。

 規制緩和による争奪を、活況や成長と勘違いし、自らドツボにはまっていく国民性。
 自由主義(全体主義、軍国主義)の明治政府による規制緩和(自由主義の政策)がもたらしたのは、新たな財閥の出現とその独占であり、近代化(産業、社会制度)については先に産業革命を起こした西欧からの借用によるもので規制緩和の成果ではない(西欧との格差の存在という偶然性の産物であり、自分たちでイノベーションを生んだわけではない)。つまり明治維新が近代化をもたらしたわけではないのに、そう思い込んでいる国民性。

 「小さな政府」とは矛盾するかに見える中央集権の強化(全体主義、軍国主義)と自由主義がなぜ同じものなのかは前述のとおり。命令して自由を奪い、放任した結果として失敗の責任も末端に負わせ自由を奪うのが「小さな政府」であり全体主義の一つの形だから(自由主義の国家の機能は安全保障や治安維持が中心になり、つまり国防や公権力が中心で、ここに軍国主義や権力の集中や「命令」が出てくる。先回りして自由を奪う「介入」の要素も全体主義にはある。放任とセットである「自己責任」は、集団で生きる「人」という生物の社会にあるはずの「協力、助け」「共有」を拒絶し、本来あるはずの自由を「奪った」た状態とも言える。)。それでも、放任と統制の並存が不可解と思われるかもしれない。権力の集中は「支配」につながり、「支配」に「統制」は付き物、そして「放任」をその支配側から見れば「全くコストをかけずただ競わせて刈り取るだけ」の意味になり一定の意味があるということになる。

 自由主義と資本主義は一体なので(自由を奪って独占支配する点が同じだから)、中央集権の強化と資本主義の拡大は同時進行する。現代の日本で新自由主義(資本主義による支配と「小さな政府」)と、一強、官邸支配の強まりが同時進行したのもこれと同じことで必然の結果である(「小さな政府」自体が中央集権化とつながるわけだが)。


 今後の日本が進んでいく方向
 自由主義が着実に濃厚化しており、その延長上にある全体主義に向かう(憲法が変わると、その内容によっては完全に不可逆的に全体主義化する)。つまり、妄想などでなく、本当に戦前に近づいていくということ。それによって、貧しく戦争もする国となる可能性がある。

 煽ったほうにも煽られたほうにも責任がある。
 日中戦争や太平洋戦争を経ても、「国に騙された」とか「軍が暴走したから戦争に...」と言って、人のせいにして反省しなかった国民性が、再び全体主義を着実に形成させつつあるのが今の状態。
 開戦について、昭和天皇に関する「拝謁記」などの記録で明らかになったのが、昭和天皇の側から見ると、「勢い」は最初で止めないと誰にも止められない、つまり、煽り煽られた国民の勢いが制御不能となり戦争に突入したということであった。
 「戦争は悲惨だった、起こしてはいけない」と言うだけでは反省にはならない。あるいは戦争体験を「思い出したくない」と言って黙して語らなかったのも同じ。なぜ起こったのか、日本は何をしたのかを知り、それを伝え、再び起こさせないということが反省である。「なぜ」を知ることは兆候を知るということ。それが足りない。その国民性とは違って、現行の憲法には「内容として」は「反省」はある程度反映されている(占領側、日本側の起草者の意図として...戦争の元である全体主義を回避するための、国民主権、個人の尊重、基本的人権の尊重、公共の福祉... )。つまり、起草者は考えていたが、国民的には反省がなく、乖離があった。
 思考の飛躍があると言われるかもしれないが、弥生時代以降の渡来人との混血でもたらされた前述のY染色体ハプログループKの子系統(Oの系統)の遺伝子に由来する自由主義の性質により、国民的な反省もできず、戦争を起こした元である全体主義に再び近づいていく(自由主義の性質の現れ→強い同調圧力、潔癖さ、不寛容さ、過剰さ、責任転嫁、誹謗中傷など)。

 なお、たまたま今注目されている統一教会は、強制的な婚姻で現在でも遺伝的同化(日本人の朝鮮民族化)を進めようとしている。統一教会は勝共と言っていたが、朝鮮民族も華北の漢民族もOの系統が圧倒的だし、ロシア人に多いR1aやNの系統もKの子系統であり、やはり同類他者への敵視である。

 弥生時代以前の日本人の古い系統(D1a2aの縄文人)の親であるDの系統はK(4万7千年前の中東が起源)よりもずっと古く、7万年前以前のアフリカまで遡り、縄文人と同じ系統のアイヌ人には「共有」の文化(イウォロもしくはイオルなど)があった。Wikipedia「日本人」2022/4/5  18:11 UTC 版によれば、現代日本人にも系統としては縄文人のD1a2aの系統は3~4割程度残っているが(Oの系統は過半数)、地域差はあり(沖縄とアイヌではDの系統はもっと高頻度)、また混血によって実際にはもっとOの系統の遺伝子は入り込んでいると思われる(東大大学院理学部の調査※によれば、全ゲノムの一塩基多型による多変量解析では、系統分析で九州のほうがOの系統が多いのとは若干違い、近畿四国が華北漢民族に最も近く、現実を反映している)。しかし、Dの系統の影響が残っている分だけは、中国や朝鮮民族に比べ、全体主義からは「少し」遠い。憲法には民主主義が書かれていている一方、現実の政治は現在かなり自由主義に寄っているが、「すぐには」全体主義にならない状態。Oの系統の浸食がもっと進めば、自ずと「短期間に」全体主義に達するようになる。なお、Dの系統がチベットや日本など孤立的にしか残っていないのは、K(O)の系統に駆逐されたからではないのか。

 これは世界的にも同じことで、Kの系統の人々の拡大が進めば民主主義はますます退潮となると思われる(現時点でも北欧くらいにしか民主主義は残っていない感じ)。温暖化対策を訴えるスウェーデンの少女と、温暖化はデマだと主張しこれを嘲笑うトランプ氏の姿はまさに象徴的。「私物化」を根本とする自由主義資本主義に対して、人々が主権者として社会を「共有」するのが民主主義であり、地球環境を未来の人々とも共有しているという感覚を自然に持てるのが北欧の人々である(今のところ)。

 以前の記事で書いたように、新型コロナウイルス(コロナウイルス科、一本鎖プラス鎖RNAウイルス)は今のところ感染力(期間当たり人口当たり感染者)と毒性(感染者当たり死者数)の反比例という均衡を保っているものの、その掛け算である期間当たり人口当たり死者数ではインフルエンザウイルス(オルトミクソウイルス科、一本鎖マイナス鎖RNAウイルス)より勝っており、根本的に種類が異なることを考えさせられるが(インフルエンザ並みにはならない)、人間のY染色体ハプログループKの系統の増殖力と破壊性(資本主義による自然破壊、全体主義による人間の破壊)は、それ以前の人類とはかなり隔たりがあるように思える。

 


 憲法を変える理由は、いくらでもこしらえることができるのであろう。国際情勢から防衛の強化、パンデミックや国防上など緊急事態、教育に関すること、など。私は変えずにそのままにしておくのがよいと思う。起草者により戦争という自由主義への反省が詰め込まれている。 
 しかし、変えようという動きは自由主義化が進むにつれて強まる一方である。彼ら保守の政治家が変えようとしている内容が、本当は何を意図しているかを「考え」ないと。
 その前に、一部(多く?)の国民が、自由主義化の推進に協力しているということは、自由主義における自己責任(つまり騙されたほうが悪いという話になる)の世界を自ら望んでいるということになる。つまり、自由主義が濃厚になれば、騙すほうは「堂々と」大手を振って騙すことになる。日本の例ではないが、例えば、共産主義を社会主義だと言うのは私には非常に大きな嘘に見える。しかし、今回の選挙でも自由主義化に協力した人たちに、おそらくその自覚はない。救いようがないのが今の状況。
 緊急事態対応と言いつつ、国家緊急権(国会の同意を必要としない内閣による緊急政令)を憲法に規定するのが自民党の目論見、なぜなら、自民党は濃厚な自由主義の政党であり全体主義を志向しているから、つまり民主主義の政党ではないから。本当に必要なのは、有事をしっかり「具体的に」想定した法制度を作り「具体的に」備えることであって、国家緊急権による為政者への「丸投げ」ではないはず。
 同じ項目でも、社会民主主義(=民主主義)でやる場合と、自由主義でやる場合では全く違ったものになる。例えば、
 ベーシックインカムは一見平等、しかし実際は、一律給付では資本主義を邪魔しないので格差は拡大、しかも、例えば中国が途上国に投資して自由を奪って支配するように、「生かさず殺さず」国民を奴隷化、家畜化し、支配することにもつながる(全体主義化)。
 自由主義でデジタル化を推進すると、搾取や抑圧に利用されたり、自由主義の無責任さにより、不正の拡大や安全上の支障を招く恐れがある。
 教育の無償化によって、教育に介入か?本来「教育無償化」は良いことなのに、自由主義では「疑わしい」。自由主義が濃厚になれば嘘がまかり通る環境が強化されるから。
 

 安倍元総理の事件で、「特定の宗教団体」として、その団体自身が会見するまでその名が伏せられ続けた状況は異様そのもの。政府にとって都合の悪いものは「当たり前に」隠される状況がもう既にあり、情報が統制される全体主義は始まっているかにも思える。あるいは団体への配慮だったのか。この団体の会見をそのままただ報道して、正当性にお墨付きを与えることにつながりはしないかと危惧したが、テレビでも多角的な情報が出始めたのは捨てたものではないという気持ちにはなる。統一教会は宗教というより、政治経済分野で多角的、グローバルに事業を拡大し、Wikipediaの記述には「日本は金のなる木、集金の場所として扱われ」とあるように、日本人は金蔓として利用され、特に政治的には反共保守、つまり自由主義の団体であることから(献金という「搾取」は資本主義と同じ)、現在の団体の名前に反して全く「平和」ではない。前述のとおり潔癖に自由主義(この場合共産主義)を排除しようとして自ら自由主義になるというバターン(共産主義を排除しようとして共産主義と同じことに)であり、また洗脳による自己喪失からは民主主義は生まれないことからしても、全体主義的であり、個人の尊重も「平和」もない。議事堂を襲撃させ国民を分断したトランプ氏を「平和」への貢献者と呼ぶだろうかというのと同じこと。自由主義、全体主義には当たり前のように嘘が付随するということが、この団体からもはっきりとわかる。提灯に「平和」と書いてあればそれを鵜呑みにして拍手し、すがり、信奉し金を貢ぐ日本人が大勢いて、その支配力を利用する政治家がいるということであり、その先頭に安倍一族がいた(のだろう)という風評が存在したわけである。少なくとも、広告塔として団体に利用されることを承知の上で関与したことには違いなく、その責任がないとは言えない。すがる先には全体主義があり、全体主義には嘘と破壊が付随し、破壊は破壊を生むということを明瞭に示した事件である。
 カルト宗教が堂々と闊歩する状況の中、保守系の人たちが憲法を変えようとしている。当然、「個人の尊重」は否定され全体主義を志向するはずである。内容には「いちいち裏がある」と考えるのは自然なこと。憲法に関しても、今回の情報統制のような異様さに飲まれて、恐れをなし忖度し黙ってしまったらおしまいである。

 

※:東京大学大学院理学系研究科理学部サイトから2020/10/14「都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造~縄文人と渡来人の混血がもたらした本土日本人内の遺伝的異質性~」https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/


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