選挙の投票の前に その方向は大丈夫? 
(いろいろ追記しました。最終更新2022/7/8 13:13)

 選挙での各党の主張を見ていると、人(他の政党)を見下したり馬鹿にするものも多く(吐き気がしそうです)、そんなことで世界が良くなるだろうかと感じてしまいます。また、「〇〇しさえすれば(消費税を廃止しさえすればとか、防衛費を倍増しさえすればとか)」という思い込みの強い「決めつけ」的な発想は、大事なことを見落として間違いを起こす可能性が大だと思います。「身を切る」というアピールは有権者に媚びてる感じが濃厚です(「媚びる」の裏側にあるのは「支配する、相手を操作する」という意図ですから、そういう人たちが多数派では絶対に民主主義にはなりません。トップを取るまではいい顔をし続けるのでしょうが、いつか寝首を掻かれます。これだけわかりやすいサインを見た上でこの政党を躍進させたら、あとになって「こんなはずでは」は通りませんよ。)。消費税はフラットな税制なので増税しても廃止しても資本主義を邪魔せず格差は拡大します。廃止して消費が喚起されればデフレ要素が軽減され、貧困がいくらか緩和される方向になる可能性はあるとしても、同時に税収減少で「小さな政府化」となれば、格差は現状より拡大します(消費税廃止だけでは解決しないということ)。ベーシックインカムという一律給付も同様、資本主義を邪魔せず格差を拡大する上に、これは、例えば中国が途上国に投資してその国の自由を奪い支配するのと全く同じように、国民を家畜化するものでしょう(全体主義化です)。指揮命令、権限、権力を強化しても何も解決しません。人材や資源は有限であることに変わりはないだけでなく、「強制」によって人々のモラルは必ず壊れ、意図は機能しなくなるからです。憲法に国家緊急権(緊急事態条項のうち内閣への緊急政令の制定権の付与など)なんか入れたら取り返しがつかないことになるでしょう。ちゃんと平時に、有事に対する細かな想定をし専門家の知見を反映して具体的な法律を作って備えるのが立法府の仕事であり、その運用や訓練を行うのが行政府の仕事です。いざとなったら素人(閣僚は通常は政治家であって専門家ではない)に「丸投げ」するという憲法を提案してどうするのという話です(緊急事態ですから各省庁での検討の積み上げはなく、トップダウンなのでしょうから「丸投げ」です)。そんな無責任な提案をしようという話が与党の中でこそこそと進んでいることに背筋が凍ります。「想定外」ではどうするのかと言われるのでしょうが、平時に想定を尽くすのが立法、行政の仕事です。「想定外」を想定する暇があったら、もっと想定したらどうか。本当の想定外なら超法規的に臨機応変にやるしかないでしょう。わざわざ独裁者を作る準備は必要ないと思います。

 そして、国民的な短絡思考、円安や戦争が関わる今のコストプッシュ型インフレによる物価高騰や年金減少は「〇〇のせい」という、自分にとっての目先の損失を誰かに責任転嫁して投票先がコロコロ変わる自由主義的思考は国を誤った方向に導きます。その行動のこれまでの積み重ねが今の政治を作っているというのに。

 前の為政者の像を引き倒すような国民性は、全部為政者のせいにして反省しないということなので、同じ歴史を何度でも繰り返すことになります。そういう国の姿を見て学ぶべきですが、日本人もそちらに近いようです。

 はじめに、自由主義、資本主義の起源について、少しだけ私見を書きたいと思います。
 今はY染色体やミトコンドリアの遺伝子の解析による分子人類学の知見の蓄積から祖先の系統を何万年も前まで遡ることができます。約4万7千年前に中東のあたりで生じたY染色体ハプログルーフKの系統の子孫(イギリスや南欧の一部ではR1b、東欧ではR1a、ロシアではR1aとN、中国や朝鮮ではO、アメリカ大陸の先住民ではQの系統の人々がそれぞれ圧倒的多数派を形成)が、(奪われるという)不安や恐怖によって(自然を含めた)他者の自由を不寛容に壊して、その自由を過剰に奪い自分第一で独占支配する文化(自由主義資本主義)を進展させたものではないかと私は思っています。中東や中国で農耕が発明され支配拡大に利用されたこと、大航海時代の略奪対象の開拓、産業革命が資本主義による支配を爆発的に拡大させたこと、ロシアや中国の全体主義という超自由主義など、これらは全てその現れだと思います。Kの系統の人々は非常に頭がよく人類史上重要な発明もしましたが、それが狡猾さ(支配への応用)とつながってしまうのがこの系統の人々の大きな特徴でしょう(旧約聖書の「原罪」に出てくる知識の木の実とは、この狡猾さを象徴的に言ったものではないか。つまり、「原罪」とはKの系統の一族との交雑で、今やその遺伝子は世界に染み渡りつつあり戦争が絶えません。)。そもそも共産主義も社会主義などではなく自由主義です。資本主義を批判しながらそれが「潔癖」過ぎるゆえに不寛容となり、それは自由主義資本主義の状態で、しかも超自由主義とでも言うべき全体主義になってしまうという自己矛盾です(なお、今の日本共産党がどの程度共産主義なのか私はわかりませんので、日本共産党を指して言っているわけではなく、かつてのソ連や中国のことです)。
 全体主義では国家が強烈な自由主義を発揮して、国内的には国民の自由を巧妙、強硬に奪い、対外的には覇権主義や侵略戦争を行い、国家そのものがポピュリズムをやり、示威行為(いわばデモ)を行います。そして今や両国とも国家資本主義と呼ばれます(市場経済の競争を導入して変質したのではなく、根本は変わっていないと思います。)。
 K以前の系統、北欧のIの系統の人々などには現在も共有(分かち合い)の文化があります(社会民主主義の文化)。日本では縄文人のDの系統がそうだったと想像します。「共有」の文化は「本来の」民主主義に通じています(現在、日本を含めて実質的な自由主義の国々では、かなり自由主義に偏ったものが民主主義と呼ばれているため「本来の」として区別します。中国では全体主義という超自由主義が民主主義と呼ばれ、ほぼ逆の意味にまでなっています。ただし、人々の共存を前提とする民主主義は必然的に「中庸」なので、「本来」の民主主義であっても自由主義を「いくらか」は含むものです。例えば、侵略戦争は間違いなく否定しますが専守防衛の武力は肯定し、言論思想の統制を否定しますが最小限の警察権力は必要とするなど。)。国民が主権を有するためには、相互に個人が尊重され個人として人格を保った人々の共存と、社会や自由や責任の「共有」が必要ですから(各人が無制限に自由を追求すると共存が成立しなくなるため、自由は有限であり、何らかの工夫により「共有」が必要。「個人」を喪失したら主権者たり得ない。)、「本来の」民主主義とは社会民主主義のことです。扇動によって「個人」を喪失し扇動主と一体となり、理性や生得的普遍的なモラル(憐れみや自制心)を失って選挙の投票に参加しても、自己喪失では主権者にはなり得ないことから考えても、その状況は民主主義の前提から外れるため民主主義とはなりません(熱狂という強烈な依存心からは民主主義は生まれないということでもあります。意外でしょうが、熱狂により独裁者を倒しても、また同じことを繰り返すということです。)。しかし、人類の民主主義の遺伝子は今や劣勢となっていて、6万年前にはあったと思われる「協力し共存するための理性や自然獲得によるモラル」は失われつつあります。これは遺伝的な自由主義(不安や恐怖への過剰な反応性)の拡大、先ほどのKの系統の子孫の拡大によるものなので何ともし難いように思います。


 自民党が2012年に発表した憲法草案では、「個人の尊重」の「個」が消され、「公共の福祉」を公益を口実とした「公の秩序」に変え、まさに全体主義(民主主義の否定)が書かれていました。これは自由主義と全体主義が連続している証でもあります(安倍氏に親和する人たちを中心とした自民党の本音が顕わに。今は前面に出していませんが、本音には違いないでしょう。総裁選で石破氏はこの草案を激賞していました。)。動物でも一部の魚でも、同じ種であっても個体によって性格は異なります。動物を家族のように飼っておられる方はよくご存じでしょう。その「個」を否定して抑圧しようということですから「家畜化」と同じです。そうせずにはいられないのはなぜか。政権が転覆させられるという潜在的な不安があり、それは何らかの疾しさからビクビクしているということではないか、国民を信用していないことの現れではないのか。そんな人たちに「国を守る」と言われても...。公明党の代表が相変わらず野党を「こんな人たち」呼ばわりしますが、それはどっちのセリフと言うべきなのか。不毛な自由主義どうしの争いとはこういうものです(責任転嫁と罵り合い)。後述のように「人のせい」が自由主義の根本要素なので、基本的に自由主義は無責任で反省することがなく自画自賛だけです。超自由主義である全体主義はこの「人のせい」を束ねた巨大な依存心、無責任の集合体のようなものですからそれでは守れるはずがないでしょう。日本人が全体主義で臨んだ戦争では実際に国民も国も守りきることができませんでした(多くの犠牲を強い、敗戦もしました)。それでも全体主義で「国を守る」と言う保守系の人々には、反省して経験を生かす知恵はないのでしょう。
 日本人の場合、農耕の伝来から始まる大陸からのOの系統の人々の渡来と混血によりその遺伝子がかなり拡大しているはずで、混血の程度はわからない「(Y染色体の)系統」だけを見ても日本全体で現在(Oの系統が)半数を超えるほどと推計されており(実際には混血によって、Oの系統由来の遺伝子はもっと浸透していそうで、かつて権力の存在した地方では顕著ですし※、実際に大阪では独裁を志向する新自由主義の政党が強く支持されています。東南アジアで争いが絶えないのは、古くにOの系統が南下し既に圧倒して自由主義が蔓延しているからでしょう。日本も時間をかけ遺伝的に同化されつつあるとも言えます。)、間違いなく支配的になっており、同調圧力や潔癖さ、不寛容さなどにもそのことがあらわれていますし、かつて明治から始まる全体主義、軍国主義を生じ、著しい自由主義である戦争を起こしました。敗戦を経て、特に新しい憲法によってその自由主義にいったんは強いブレーキがかかりましたが、自由主義の国民性さえあれば何度でも自由主義は再生してしまうため、戦後何十年を経て今は自由主義が強まっています(新自由主義の政策、差別や誹謗中傷の蔓延、保守派による憲法を変える動きの活発化、大阪で生まれたあの新自由主義の政党の躍進など)。悲しいですが、この自由主義優勢の流れは遺伝的なもので如何ともし難いように感じます。
 明治維新を肯定的に見る方は多いのでしょう。イギリスによる清とのアヘン戦争の情報が(後述の)「自由主義の自動拡大」により、日本の既存の全体主義(国粋主義)の要素である国学や水戸学を刺激してクーデターを生み、そのまま明治政府という自由主義(全体主義、軍国主義)政権となったわけですが、その自由主義による規制緩和では新たな財閥の出現による利益の独占を生みました。文明開化(近代化)、工業国化が明治維新や規制緩和の手柄というのは間違いだと思います。「たまたま」欧州で産業革命が既に起こっていて、産業技術や社会制度で日本とはかなり格差があったために、日本はそれを借用することで産業革命的なものを追体験できたに過ぎません。自分たちで生み出したのではないということは、規制緩和でこれが起こったのではなく、「たまたま」であり、純粋に規制緩和が生んだものは、新たな財閥の出現と独占です。つまり、借用するものがない現代で規制緩和(新自由主義)をやるとどうなるか、その結果が、非正規労働の拡大、格差の拡大、貧困化でした。規制緩和では基本的に成長は生まれず、争奪を生み、それを活況と勘違いするだけです(完全に騙されています)。規制緩和は既存の秩序の破壊であり戦争と同じです。日本では戦前に軍部大臣現役武官制が導入されましたが、これは軍閥から見ればシビリアンコントロールを無くす規制緩和で、その結果、大陸や南洋に侵攻し日中戦争、太平洋戦争という「既存の秩序の破壊」となり悲惨な結末を生みました(どんな大義名分をつけようと今ロシアがやっているのと全く同じです)。規制緩和は破壊であり、破壊は破壊を生みます。

 一方、規制緩和とは一見真逆のものに見える権力、権限の強化も超自由主義である全体主義では顕著ですが(主体が違うだけで他者の自由を奪う点は全く同じです)、それはどうかというと、いくら命令したところで人材や資源に限りがあり、しかも「強制」によって、つまり「個」の否定によって人のモラルは壊れるため上手くいきません。自由主義(新自由主義)とは、命令して放置(放任)し末端に責任を押し付ける、「兵站なしで戦え」のようなものです。その結果は明らかだと思います。

 これだけ、問題がある全体主義(超自由主義)ですが、なぜ現在の中国やロシアは勢いを増しているのでしょう。かつての日本の全体主義(軍国主義)は1968年(明治元年)からだとすると1945年までの約77年間続きました。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は1917年から1991年の約75年間、ドイツ国(ナチス支配)は1933年から1945年のわずか12年間でした。中華人民共和国は1949年からで、今は約70年ですし、ロシアはもっと若いです。古代や中世はわかりませんが、近代において今のところ100年続いた全体主義はありません。国民や他国の恨みを買っていては国の繁栄はないとも言えます。しかし、たとえ崩壊してもロシアで明らかなように自由主義の国民性があれば全体主義は再生します。日本も新自由主義でその方向が再生したと考えれば中曽根内閣の1982年からであり、40年が経ちます(現行憲法がなければ、とっくに全体主義だったかもしれません。憲法のブレーキによりまだ新自由主義で留まっていると私は思う。今後はわかりません。)。再生するなら良いではないかと言えるのかというと、犠牲がたくさん出る点が、犠牲になる側にとってたまったものではないということです(特に戦争)。日本の新自由主義による今のところの犠牲は、経済の長期低迷による貧困化や少子化、デフレによる社会の持続的な縮小です(強制的で苛烈な競争によるコスト削減圧力だけでも搾取の強化で貧困化を促進し国内需要を低下させデフレになります。「強制的で苛烈」なために、イノベーションによるコスト削減とはなりにくいからです。「強制的」とは、例えば規制緩和です。)。また、新自由主義を反民主主義とするなら沖縄の基地問題なども含まれるかもしれません。自由主義は今も勢いを増しているので、今後も様々な破壊によって、様々な犠牲が出るのでしょう。


 理性やモラルが働かない(自由主義的な)人々の説得は難しい、今のロシアの状況がそれを物語っています。「何でも人のせい(責任転嫁)」が自由主義の根本要素のため、反省というものが存在せずそこには自画自賛しかありません(自国への「自画自賛」は全体主義では顕著ですし、それを愛国心の現れだと刷り込まれ、自発的な全体主義が促進されます。「保守系」の国粋主義的な人々でもそれは特徴的です。演説などを聞いた時、自国や自党の自画自賛などは、自由主義の目印の一つと言えます。「自画自賛」には自由主義の根源である「不安」や「恐怖」が隠れており、それはいわば「虚勢」です。自己肯定感とは似て非なるもの、真逆のものに違いありません。自由主義の傾向が強い日本人が自己肯定感の低さを指摘されるのはそのためか。では、自由主義濃厚なイギリス人や中国人ではどうかという話にはなりますが...。いずれにせよ自画自賛を自己肯定感と勘違いすると間違いを起こすだろうと思います。)。そうした人々を説得する困難さのため、それに対抗しようとすると自らも自由主義に染まってしまい(北欧もNATO加盟の方向になりました)、自由主義は自動拡大します(北欧のNATO加盟の動きはロシアの自由主義が自動拡大した結果にも関わらず、ロシアはこれも相手のせいにします。かつて小泉政権が構造改革への反対派を「抵抗勢力」と呼んだのも似ています。)。資本主義批判自体も自由主義の色を少し帯び、度が過ぎると自ら自由主義になってしまいます。つまり「潔癖(不寛容)」も自由主義の根本要素です(不寛容=他者の自由を許さない=自由主義)。あまり潔癖に平等を求めるとそれも自由主義になります(他者の自由を奪うということです)。イギリスのピューリタン(カルヴァン派)は「潔癖」を揶揄した言葉で、アメリカにもこの自由主義が渡りました。同じプロテスタントでも英米のカルヴァン派と北欧のルター派ではかなり大きな違いを生じているわけですが、宗教は結局のところ、その国民性により選び取られアレンジされているということです。遺伝的に自由主義の人々がどれくらい占めるかという国民性の違いなので、日本でいくら北欧の形を真似ても、自由主義が濃厚な日本人では「幸せの国」にはなかなかなれないということになります。日本でデジタル化を進めても北欧のデジタル化のようにはならないでしょう(福祉への活用の面よりも、抑圧や搾取の面が強く出たり、自由主義の無責任さから不正の拡大や安全上の支障を招く可能性もあります)。

 競争には「楽しい」と感じる要素もあるため麻薬のように蔓延しますが、自由主義資本主義によって自由を奪われる存在(自然環境も含みます)が必ず生まれ、それは社会を破壊する要素となることを忘れてはいけない、それが理性というものでしょう。

 「これしかない」とか、「ねばならない」式の「決めつけ」は、そこから除外したものや、それを生んだ原因への一方的な否定、責任転嫁(〇〇が悪い、〇〇のせい)となりやすく、そうなると因果の連鎖を無視した認識の歪みを生じ、しかも「潔癖」と同様に不寛容なため、自由主義の根本要素になります。そのため「破壊が破壊を生む(相手が困る様子を見てもっと困らせようとか、相手が弱いとわかってもっと攻撃しよう相手を利用しようという心理が働く。相手の平和的自由を奪うと短期的にはその分が次の破壊を生む破壊的自由に転換されてしまうからで(→以前の記事の数式の部分)、戦場で残虐行為が起こるのもこのためだと考えます。)」流れを生み、例えば、今年1月の高校生による東大前での刺傷事件(本人に進路の「決めつけ」があった)が起こりました。「消費税を廃止しさえすれば...」や「防衛費を倍増しさえすれば...」という決めつけは間違いを起こす思考だと思います。例えば、消費税はフラットな税制なので、あっても無くても資本主義を邪魔せず、消費税を廃止しても格差は拡大します。消費を上向かせることができればデフレ要素を緩和し、貧困化をいくらか抑制できるかもしれませんが、税収減少で「小さな政府」化が進めば格差拡大はますます強まります。消費税減税とセットで何をするか(例えばですが、所得税の累進性を再び強めるとか)が重要なのですから、それに言及しないのは無責任ということになります。流行りの「現代貨幣理論(過度なインフレにならない限りいくらでも政府の財政赤字は増やせる)」も、現在コストプッシュ型とは言えインフレの中、果たしてどうなのか。また、前述の刺傷事件の若者の例から言えることは、「自分は〇〇になって、〇〇をしよう」の後半の部分のような自由(自分で決定可能、実行可能な選択肢)を創造する発想が大切で、その上で、さらにそれを平和的な自由に利用することが大切ということです(発明の場合にしても、新たに創造された自由は、破壊にも平和にも利用可能なため。例えば原子力と核兵器など。ただ、原子力も危険なので平和とは言い切れませんが。)。
 「真偽不明性」は、この「決めつけ」に付随している場合があり、「共有」しにくいために確実に分断を生み、つまり自由主義の要素として破壊を生みやすいわけですが(例えば、2020年の米国大統領選挙での「選挙が奪われた」という真偽不明な主張が議事堂への攻撃を生み、今もおそらくアメリカ社会を分断している)、一方でその不明性を明らかにしようという探求は新たな自由を創造する場合があります(ただし、創造された自由は、破壊にも平和にも利用可能なため、平和のために利用するところまで配慮が必要)。「真偽不明性」は扇動主により扇動や破壊工作の兵器として利用される場合が多いと言えます(ロシアも今、盛んにそういう情報を発信しています)。選挙において、あえてそういう情報を発信している勢力は論外なわけです。仮に選挙に出る人が真偽不明を明らかにする探求をしても、その主張がまた真偽不明を生んでしまうので、真偽不明の部分は基本的に政治の争点にしてはいけないのだと思います。結局は、信じるか信じないかの2択で分断を迫り、社会を「破壊」するからです。「真偽不明」は、政治問題化せず司法や学術研究に委ねる話です。

 選挙において、政党や候補者の言っていることを信用できるのかどうかは、過去の行動との整合性を確認するのが近道なのでしょうが、その裏側の意図まで読み取る必要がありそれは簡単ではありません。かと言って、過去を確認しようとする努力すら怠り、ただ選挙公報や政見放送だけを漫然と見て投票していたら自ら家畜になる道(自ら全体主義化)を選択することになります。政治は未来を作る仕事だと言いますが、これも極めて自由主義的な言葉で、過去から目を遠ざける一種の扇動的なレトリックです。過去の積み重ねが現在となり未来を作るという理性的な感覚を奪う言葉だと思います。今の人間の世界はそんなもので溢れかえっています。
 自由主義的になっても、脳の片隅には良識の欠片は残っているのかということが問われているように思います。
 ドイツのメルケル前首相についてですが、彼女が育った旧東ドイツ地域はY染色体ハプログループIの系統の人々が高頻度な地域ですが、彼女の父方の祖先はポーランド人(すぐ隣ですがこちらはR1aの系統が高頻度な地域、つまり自由主義的であり、分裂、分割、戦争が繰り返された)で、父も祖父もルター派プロテスタントの牧師でした。ルター派はIの系統の人々が多い北欧や北ドイツの人々に支持され、ルター自身もIの人々が高頻度なザクセン地方出身です。これだけではメルケル氏の行動の背景を知ることはできませんが、選挙での勝負へのこだわりの強さには自由主義を感じ、難民受け入れ政策には「分かち合い」の精神を強く感じます。特に「分かち合い」のほうが、血筋の影響、宗教(ルター派)の影響、それとも東側世界の抑圧の中で育った実体験の影響(あのつらい体験はさせたくない)、どの影響が強いのかはわかりませんが、一般的に考えて実体験の影響は大きいのかもしれません。日本でも悲惨な戦争の体験が戦後何十年かは強く影響を与え、多くの人が現行の日本国憲法を肯定的に受け止めることができた時代があったと思います。人間は骨身にしみる体験をしないと良識を失ってしまうものなのか。
 
※:東京大学大学院理学系研究科理学部サイトから2020/10/14「都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造~縄文人と渡来人の混血がもたらした本土日本人内の遺伝的異質性~」https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/

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