「決めつけ」をやめて自由を創造しよう 


 前の記事の煩雑さを回避して、最後の部分だけを若干修正してもう一度載せます。
 何になるかではなく、極めて具体的に何がしたいかで進路を決めるという発想は、一般的にも言えることかと思いますが、ここに書いた内容は自由や自由主義についての分析の結果から副産物的に出てきたものです(思いもよらなかったですが、なるほどでした)。


 「決めつけ」(あいつのせい、自分のせい、「自分は〇〇になるしかない」など)は、実は3つとも「他者のせいにする→他者を許さない」であり(後者2つは「(どうせ)自分のせい」「(仕方なく)〇〇になるしかない」と考えてみればわかります)、責任転嫁(無責任)かつ不寛容という自由主義(短期的局面)の現象です(自由を奪う=自由を持つことを許さない=不寛容ということ。以下、利己的で自由を奪うあり方を「自由主義」と呼びます。)。他者の自由を奪うため、「転移する自由」の原理(前の記事参照)により、それはさらなる破壊の自由に転換されてしまい、結果として自分自身の自由も奪うので幸せにはなれません。つまり、「決めつけ」で奪ったそのことだけでは完了せず、さらなる自由の破壊・略奪を生む力になるということです。他者や自己を傷つけ、最悪の場合は命を奪うこともあるでしょう。今年1月の東大前刺傷事件も「〇〇になるしかない」という思い詰めが起こしました。なぜ、自分自身の自由をも奪うことが起こるかと言えば、まず、何らかの強い不安から、「決めつけ」によって目先の解放がなされることから始まります(〇〇になる「しかない」には「(誰かのせいで)仕方なく」という責任転嫁が入っています。つまり責任から解放され楽になりたいわけです(一見責任感があるようで責任放棄です)。「自分のせい」もその前に「どうせ」がつけば全く同様に責任転嫁です。物事に100%というのはないとすれば、「自分のせい」としてしまうこと自体に「考えるのは面倒だからやめた」という要素が少しは混じっています。「腹を決める」も似ていますが、これは十分な検討を重ねて先のこともある程度見えた上で、その決定の責任を負う覚悟ができたということなので全く異なります。)。不安から早く逃れたい。まさに、自由主義の短期的局面です。本来は不安と向き合う必要があるのでしょう。目先の解放で自由になったと錯覚しますが、実はこの時点では責任転嫁により他者の自由を奪っていて(「どうせ私のせい」と聞かされた側が自由を奪われたということ)、その相手が困る様子を見て、「もっと困らせてやれ」と思うことが「奪った自由がさらなる破壊的自由に転換される」の正体であり(他者に責任を押し付けることが破壊の端緒となり破壊が拡大・・戦争も全く同じです。「もっと困らせてやれ」そんな感情は特定の人だけと思われるでしょうが、意識しないだけで、おそらく誰しも少しは生ずる可能性がある感情だと思います。)、その結果、理性を失い自分を追い詰め自分自身の自由を奪い、破壊的行動(他者も巻き込み自分自身に対しても)にもつながることになります。後者2つの例は表面的には逆となりわかりにくく、表面的な解釈でも自分の自由を奪っているように見えます。原因と結果で見れば「無責任が破壊を生む」ということです。不安から逃げずに向き合う必要があったのです。

 自由主義は麻薬のような作用を持っています(解放の錯覚)。新自由主義の規制緩和も「この規制が100%悪いと“決めつけ”て無くすこと」なので全く同様に、目先の自由の錯覚(例えば、労働者派遣法の緩和でフリーターのような働き方)と引き換えに実際にはさらなる格差拡大が示しているように(労働者を守る規制で守られていた労働者が規制緩和で力を失い、それを見て、もっともっと利用し搾取しようとする流れが加速度的に拡大)自由の略奪が進行します(労働者が守られていることを悪と「決めつけ」た結果です)。そして富を得た富裕層はさらなる略奪へと駆り立てられる循環になります。奪う側も奪われる側も何かに駆り立てられる状態です。自由と通貨は相互に交換可能で通貨として自由を貯蓄できますが、その交換の前提となる通常の「信用」の範囲を超えた過剰な「お金」はまさに虚構の自由となり、その虚構に皆が支配され、自由を奪われた状態を導くわけです。通貨自体も虚構と言えば虚構ですが、コントロールできる虚構か否かという違いとでもいいましょうか。

 このように新自由主義の「規制緩和」は「決めつけ」の現象であるため(何らかの責任転嫁を伴う)、自由を生み出すのではなく「奪う」現象=平和的な自由が破壊的な自由に連鎖的に転換される現象になることを多くの方は気づいておられないと思います(例えば新型コロナの感染状況に応じて規制を緩めるような場合は異なると思います。責任転嫁の有無による違い。)。郵政民営化(官による運営を悪とする「決めつけ」でした)で新しい産業が生まれなかったように、規制緩和はイノベーションを生まず、「別の独占(=新たな略奪の結果)」を作るだけになると思います。イノベーションの種(たね)は既存の規制の枠外にあると思ったほうがよく(既存の規制に伴うコストは基本的には過去の経験が導いた必要なコストなのだから)、既存の規制を壊して争いを蒸し返すのは筋違いというわけです。耕して空気を入れ替える、つまり現象維持が精一杯です。それはそれで一定の意味があるのかもしれませんが。「緊縮財政」も、「この支出が悪い」「この税収が足りない(例えば、消費税一択のようになっている)」という「決めつけ」になりやすく、結局、国民も政府も追い詰められ、資本家による独占という略奪の自由に転換されてしまいます。つまり新自由主義の「緊縮財政」では財政は健全化しにくいということです。「決めつけ」を多用する新自由主義では、国は壊れていくでしょう(独裁ではほとんど「決めつけ」になります。自由主義と独裁や全体主義が同質であり、連続していることが、このことからもわかります。なお、後述する「進化的安定戦略」※の理論によれば、一般的には集団ではハト戦略とタカ戦略の混合の場合が儀式的な威嚇だけで攻撃に至らず安定となりますが、奪い合うものの利得が非常に大きい場合にはタカ戦略だけのほうが有利とありました。つまり、資源が逼迫したような状況では自由主義、全体主義が勝ってしまうようです。回避するには資源逼迫を何らかの工夫で回避する必要があるということになります。)。「決めつけ」の政策をやっていないかという目で見てみるべきです。例えば、今、時勢から核抑止力の強化の話が出ていますが、「それではますます緊張を高め危険、軍拡競争に終わりはない、しかも米国の言いなり、被爆国なのに」という意見も当然あるわけで簡単に結論が出ません。ここで不安回避からすぐに抑止力強化が必要という「決めつけ」を行うと、分断は強まり平和的自由を奪うため破壊的自由に転換されます。先ほどの例で言えば、不安からすぐに逃げる(すぐに抑止力を高める)のでなく、まずは現状維持にしておくのがおそらくよいのだと思います(「不安」ではなく想定される現実の攻撃に備えた準備はもちろん必要ですが)。とはいえ、自由主義的な国民性があれば、社会が崩壊しても自由主義は何度でも再生してしまいます(利己的で自由を奪うのが自由主義で、遺伝的な性質として国や地域によりその強さの違いはあると考えます・・後述)。戦争体験世代が減り自由主義へのブレーキ(戦争=自由主義の犠牲者であり、正当に自由主義に異議申し立てをする存在)が弱くなっており(生活困窮者も新自由主義の犠牲者で、異議申し立てする存在ですがそもそも社会的に弱者になっています)、懲りることがなく日本は自由主義が強まり続けている状況です(日中戦争も太平洋戦争も自由主義=全体主義の結果でした。自民党などの憲法改正に不安が伴うのは自由主義の政党だからです。)。
 「決めつけ」とは、本来は因果の連鎖で起こっている物事を、100%誰かや何かのせいにするという認識の歪みで、それは誤った結果を導くことになります。

 また、責任転嫁により相手の自由を奪うのと似たものに、「約束を守らない」があり、その行動によって「(他者から見て)この人を信じていいかわからない」という状態であるうちは、確実に相手の自由を奪っており(どう対処していいかわからない=行動の選択肢つまり自由が奪われている)それは破壊的な自由に転換されます(倫理的にどうこうとは別に、困る相手を見てさらに困らせようとする心理が生まれてしまい自分自身にも破壊的な害が及ぶわけです)。自分の予定を関係する人に伝えないことによっても同様のことが起こるかもしれません。一般的に「真偽不明」な状態を作り出すことで同じようなことが起こります(2020アメリカ大統領選挙では真偽不明な「不正があった」という情報の流布が議事堂襲撃につながりました)。

 コストプッシュ型インフレがなぜ悪いインフレなのかは、「平和的自由を奪い」、その結果、破壊的な自由に転換されてしまうからとも考えることができます。資源逼迫は破壊的状況につながりやすいということです。


 一方、「〇〇になって、あれをしよう、これをしよう」という志は、自分の意思で決める実行可能な選択肢(前の記事で定義した「自由」)の創造を志向しており、「決めつけ」とは全く異なります。ただし、創造した自由は平和的自由(他者を個人として尊重したまま「共存」し、社会や自由を「共有」し争いがなく、平和的に利用できる自由)にも破壊的自由(他者や自己の自由を奪う逸脱した自由)にも利用可能なため、環境や本人の努力により平和的自由のほうにより多く配分することで幸せになることが可能だと思います。

 「〇〇を買って、あれをしよう、これをしよう」も同じです(それなら良い)。〇〇は手段であり、「〇〇を買う」だけが目的なら「〇〇が必要」という「決めつけ」なので(架空の理由を作りそこに責任転嫁)、手段が目的化しまい、買って溜めておくだけとなり、つまりそれは、デフレ(=成長も助け合いも生まない世界)とつながっていて、福祉は向上しません。それどころか、それを必要とする人、邪魔だと思っている人双方からの「要らないならよこせ」「要らないなら捨てろ」という攻撃を招き争いのたねにすらなります(無責任な決めつけが破壊的な自由に転換される現象だとわかります)。ただ、あまりこの考えを突き詰めると唯物論的になってしまいそうなので突き詰めないほうがいいでしょう。物に思い出や愛着を感じるような場合は、十分にそれを使った結果であり、それは単に買ったとか手にしたということではなくなっています。骨董蒐集でも、その品を鑑賞し楽しむならいいですが、興味はなくただ資産として持っておくだけというのはどうかという程度の話です。

 

 強制・命令や抑圧は自由を奪い、破壊的な自由に転換されます。軍隊の規律が乱れるのは必然です。抑圧は、「自己を捨てよ」という圧力なので、自己には理性や生得的で普遍的モラルがありますが、それを捨てるということだからでもあります。


 物理的、時間的などの制約を始め、人類が地球に住み環境に従属している以上、自由は制約されており、「有限」です。社会的に更に制約された平和的自由があります。そのことがあまりにも軽視されたり気づかれていません。いくらでも自由はあると思い込んでいます。アメリカなどで顕著な、他者の自由を侵害してもお構いなしに自己の自由を追求するあり方がそれです(実はロシアのやっていることと基本的に同じ傾向ではないか)。国家統制の強い国では、国家に反抗しなければ見かけの平等があるため自由を奪われていることに気づきにくい面があります。どちらにも「自由を奪う」現象が強くあり、それを自由主義と呼ぶならどちらも自由主義です(自由を独占する人間がある程度多いか極端に少ないかが違うだけ。いずれも「決めつけ」が極端に横行する社会です。共産主義はマルクス主義という潔癖つまり不寛容からして自由主義ですし、生産手段を「社会化」と称し誤魔化して「共有」ではなく「支配」しているので掲げる理想社会との自己矛盾が甚だしく社会主義でもありません。共産主義を敵視する側も自由主義資本主義なので結局同じところに立っているのですから、鏡の自分の姿を見て攻撃する動物と変わりません。自由主義は極めて動物的で、発達した科学技術を持っているため極めて「危険な動物」の状態と言えます。)。

 自由は「有限」であるがために、民主主義において各々が主権を持つためには、社会や自由を「共有」する必要があります(そのためには、社会の運営などに対して各々の意思をいくらか反映させる方法、各々の自由をいくらか制限する方法が必要)。自由とは自分の意思で決めることができ実行できることの選択肢の多様さや大きさです。
 より多く自由を求めれば、生み出すか奪うしかありません。奪い始めると前述のとおりその連鎖が始まります。ただし、存在自体が自由を創造しているもの、例えばインフラや人命など主に形あるものうち平和的自由も破壊的自由も両方を生むものを奪った場合は、自由の総量が減るため、さらなる破壊の自由には転換されず、主に形のない平和的自由(特に自由そのもの)を奪うと破壊的自由に転換されます。「主に」としたのは、「発明や発見や技術」などは形のないものでもありますが、一度生み出されたら簡単に失われない性質もあり、そういう例外があるからです。なお、資源は平和的自由のために必須なものであるため(破壊的自由にも使われはしますが平和的自由への影響が大きい)、資源の枯渇は自由の総量を減らしますが、平和的自由をマイナスにしてでも破壊的自由に転換されます。「マイナスの平和的自由」とは「強制・強権(他者の意思)」を無抵抗に受け入れる全体主義のような状態と考えます。以下の式(私の考え)から導いたことです。
 (a.物質、時間、空間に制約された自由)-(b.人が「共存」する社会や、その社会や自由を「共有」する民主主義を成立させるために、さらに限定された自由、つまり平和的に使える自由)=(c.人の社会を破壊する「逸脱した自由・破壊的自由」)
 a-b=c 

 bの割合が多いのが民主主義、cの割合が多いのが自由主義です。「共存」の原則からbがcをゼロにしてaになることはできず、c>0です。cのほうが大きくなると自己増殖的にbがcに転換される傾向があります(資本主義の拡大などの例)。なお、加速度的にcが増加する現象は、平和的自由が相対的に弱くなると破壊的自由が増すことから(平和的自由から破壊的自由への転換の際にその「認識」が介在)、短期的局面として、微分方程式dc(t)/dt = r(c(t)-b(t))と、a-b=cからa-b(t)=c(t)(短期的にはaは一定)によりc(t)を解けば、短期的にはc(t)がマルサス増加になることにより理解できます(短期的局面なので永久にその調子で拡大するわけではない点に注意が必要です。ただし、急拡大がもたらす破壊による重い傷は確実に残ります。戦争による傷、バブルによる傷。なお、バブルでの地価上昇の曲線を見るとまさにマルサス増加的でした。)。
 詳しくは前の記事で。


「自分のしたことが誰かの役に立って嬉しい」とは

(前回そのままの記述部分も多いので引用扱い)
 

 「自分のしたことが誰かの役に立って嬉しい」と感じる心は、自分の意思を受容してくれる相手がいた=自分の意思が社会に反映(共有)された=自分が社会の一員として社会につながっていることを確認できた、そのことに「喜び」を感じる性質に由来するのだと思います。
 「ありがとう」という言葉は「受容しました」というサインであり、喜びと救いをもたらします。それだけ社会とつながることが救いになり、社会とのつながりを求める本性があるということです。
 集団での一体感が孤独を癒やすかのような「熱狂」と一見似ていますが、熱狂は強烈な「依存心」だと思いますので、自分の意思を社会と共有させる「役に立って嬉しい」とは本質的に異なります(重要な違いです)。「役に立って嬉しい」は、熱狂を生まないでしょう。
 なぜ熱狂が「依存心」かと言えば、熱狂は崇拝対象に自分を同化させようとするような、他者と自分を同一視する錯覚、そのような認識の歪みを伴い、他者に全てを委ね、自己を全て捧げきってしまうことだからです(「委ねる」が依存ということ)。同調圧力の一種であり、ある種の「愛国心」とも同じです。自分を「カラ」にし、我を失った状態ですから、理性や生得的で普遍的なモラルを失い、残虐行為も行い、崇拝対象以外、つまり自分に対しても無責任となり、自己破壊すらします。
 「役に立って嬉しい」のほうは、自己と他者は別々の人間として(個人を否定せず)、互いに認め合い助け合うことを意味します。これは「共存」と「共有」の現象、つまり民主主義(前の記事参照)の萌芽のようなものです。

 「共存」「共有(分かち合い)」を社会主義(民主主義)だから気持ち悪いと思う人がもしも多いとすれば、古い人類の記憶が失われつつあるのかもしれません(約4万7千年前に中東のあたりで生じ、動物的な独占欲、私有の概念など自由主義的特徴を強く持ったと考えられる系統の人々(分子人類学で性染色体による父系統でKの系統の子孫。農耕を発明しそれを支配の道具として拡大しました。)を新しい人類と仮定し、それに対する古い人類の系統という考え方です。日本人では縄文人の遺伝子が古い人類の系統ということになります。その後の渡来系の人々が新しい人類です。華北の漢民族や朝鮮民族は直接の系統として圧倒的多数が新しい人類で、ロシア人も大多数が新しい人類です。イギリスやイベリア半島や南ヨーロッパの一部にも新しい人類が多いです(植民地の開拓や産業革命による資本主義の爆発的拡大。冒険心や科学はよいですが、まさに略奪の文化です。)。アメリカ大陸も先史時代に新しい人類が席巻しました。日本人の中でも、性染色体から見た系統でなく全ゲノムによる一塩基多型の解析から近畿四国地方が遺伝的に最も漢民族に近いとされます(だから大阪の例のように独裁や新自由主義が好まれるのでは。ヤマト王権やその後の武家支配に至る血塗られた権力闘争の歴史は新しい人類が関わっていると考えればわかりやすいです。)。古い人類の系統には「共有(分かち合い)」の概念があったと思います。約7万年前の人類絶滅の危機を生き残った人々です。その後に出アフリカがあり、さらにその後「新しい人類」が発生しました。北欧や北部ドイツには、ぎりぎり古い系統の側に属する人々がある程度残っていて社会民主主義の文化につながっています。本来の民主主義=社会民主主義は希少種になっています。)。
 「共存」「共有」を志向するのは利他的なあり方に近いと思います。進化論や「進化的安定戦略」※の考え方によれば、単純には利他的行動をする個体は利己的行動をする個体に利用されたり排除されますが、集団としてはタカ戦略とハト戦略の混合戦略(民主主義に近いのかも。儀式的「威嚇」のみで留まる状態。)が安定で、ただし、資源が逼迫しその価値が高まった状態ではタカ戦略の純粋戦略(自由主義的。力で奪う。)が有利になるらしいです。新しい系統が圧倒してしまい、古い人類の記憶(遺伝子)は失われていくのでしょうか。ロシアの侵攻は明らかにわざと資源の逼迫を起こして、力づくで奪うことを有利にさせようとしているように思います。ウクライナは世界的に肥沃な土壌、チェルノーゼムがある地域でもあります。

 子供は夫婦の共有の証でしょう(私には伴侶も子もなく、偉そうには言えませんが)。共有という社会主義(なお、マルクス主義=共産主義は社会主義ではなく潔癖で不寛容な自由主義です)が嫌いな自由主義的国民性(同類の他者を敵として嫌悪する性質も含まれる)では、とにかく共有も同類も嫌いなのですから(同類嫌いが異性との結び付きを促進すればよいですが)少子化を解決するのはなかなか難しいかもしれません(出生率には社会の発展段階に応じた特徴・・多産多死→多産少死→少産少死・・という人口転換理論があるので、これは特殊な見方です。しかし、アフリカの諸国で出生率が高いのは、人類の出アフリカ後に生じて拡大した自由主義的な人々とは異なる古い系統の人々の末裔が多いであろうことと関わりはないだろうかと想像してしまいます。植民地支配でかなり壊されているのでしょうが。)。
 子供の誕生は、この世に新たな自由(可能性)を創出させることでもあります。親にとっての自由は増えないですが社会としては新たな自由の創出です。子供がいずれ社会と関わり社会と自由を共有する、その子供を通じて自分も社会とつながる、その喜びがあるのかもしれません(何しろ体験がないため「かもしれない」と想像です)。ただし、新たに創出された自由は平和的自由にも破壊的自由にも配分され得る特徴があります。どうか平和的自由のほうが発揮され、より幸せになれますように。

※:「進化的安定戦略」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/5/8  12:59 UTC 版)https://ja.wikipedia.org

 

 (以下追記 2022/5/31)

 利他的な奉仕の精神は、利己的な存在に利用されやすいので注意が必要です。自由主義(つまり全体主義も志向)の政党である自民党の憲法草案2012では、現行の「個人の尊重」の「個」を削除しています。これは個を放棄させる「滅私」で、理性や生得的・普遍的モラルを失う全体主義です(個を放棄させて家畜のように扱うということ。しかも自発的に家畜化することを誘導している。)。他者を他者として(別の人格として)認め「共存」する民主主義の前提がなくなります。「滅私」を基礎に自民党が「公益」と称するものは個人の自由を全否定しており、現行の「公共の福祉」が民主主義の「共有」を成立させるための必要最小限の自由の制限となっているのとはかなり異なるものです。自民党が打ち出すものは、このように全体主義を志向していることが往々にしてあるため、是非気をつけてください。