人の役に立って嬉しいと感じる心はバブルやデフレと異なる世界にある


やさしさの記憶
寛容な心を持ち
共に生きることを知り
分かち合うことを知る
それはまだ私達の心の中を
薄く照らしている


 冒頭に韻文っぽく(もありませんが)エッセンスを書いてみました。
 前回の「自由」に関する記事からの追加的、補充的な記事です(前回の内容もなるべく要約し入っています)。大きな改良点は、前回の記事には部分的に加筆しましたが、特に自由主義の短期的局面と長期的な面を区別する必要性を感じ追加したこと、日本で起こったバブルやデフレの解釈を追加したことです。特にバブルとデフレの解釈は長大となり、大変に難産な記事でした(時間もかかりました)。しかし、完成度は高まったと思います。「人の役に立って嬉しい心」を言うために、ずいぶんと遠回りしています。表題のとおり、それとは異なる世界を詳細に説明しました。
 長いですが、どうかご容赦ください。最後の9が今回の主題部分です。
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[目次]
1、自由とは(1)
2、自由主義について
[短期的局面では、不寛容=自由主義]
[新自由主義が成長を生まない理由]
[日本の長期デフレと自由主義的国民性]
[日本のバブルと自由主義的国民性]
[自由主義的国民性を前提とした場合]
[バブルはお金を崇拝する全体主義(自由主義の極み)だった]
[自由主義の特徴(まとめ)]
3、民主主義とは
4、自由とは(2)「転移する自由」の原理
5、人類の歴史と自由主義的性質
6、日本の状況
7、脳科学的な視点
8、生き方との関係
9、自分のしたことが誰かの役に立って嬉しい心
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1、自由とは(1)

 自由とは、自分の意思で決定し実行可能な選択肢の多様さ大きさで、エネルギーのようでもあり、有限であり、流動し(将来の自由の大きさを左右する試験の合否など)、消費可能、交換可能、通貨や約束の形で貯蓄可能という性質がある。有限という点が非常に重要(無限にあると思われがち)。物と通貨のどちらが自由を多く貯蓄できるか、思い込みも含めそれが通貨に偏ると以下の自由主義は拝金主義になる。物(実体)と通貨(虚構)のバランスが重要(通貨の信用力と関わるため)。虚構を信じ共有する能力が人類を爆発的に拡大させたという説があるが、実体とのバランスを欠くとバブルのようなことが起こるためバランスの視点が必要ではないのか。


2、自由主義について 

[短期的局面では、不寛容=自由主義]
 自由主義とは、(不安、欠乏感を起点とし)他者より自由を多く欲しがることで、自由は有限なために「奪う」か「生み出す」しかなく、「生み出す」は簡単ではないため短期的には「奪う」が中心になる。自由を奪うことは、相手が自由を持つことを許さないのと同じことで(排他的である→「私有」=排他的独占=資本主義の基礎。許さない→不寛容。)、つまり短期的局面においては「不寛容=自由主義」である(これは本稿では非常に重要な定義で、様々な現象の理解に応用できる)。自由主義の延長には「不寛容の極み」「自由の独占」である全体主義がある(超自由主義)。自由主義(政治)と資本主義(経済)は一体となって、短期的局面として「自由を奪い・独占」するため、不可分であり同じものである。ただし、長期的には発明などイノベーションにより自由を「生み出す」可能性はある。

[新自由主義が成長を生まない理由]
 新自由主義(「小さな政府」、市場原理と自己責任)における政府による関与の縮小「緊縮財政と規制緩和」からは、一般国民にとって平和的自由(後述)が拡大されるかのような錯覚を生ずるが(財政健全化のイメージや緩和という言葉から)、実際は、いずれも資本家にとっての破壊的自由(後述)が拡大するものであり、一般国民の福祉は向上しない(これらは、「社会の維持運営経費」の削減・破壊、「社会を守るための規制」の削減・破壊により、新たな搾取や独占を開拓することなので、いずれも破壊的自由の行使、つまり「奪う」に寄与する。平和的自由と破壊的自由の両方が創出されるイノベーションは、新規の領域つまり未だ規制が存在しない領域で起こるとするなら、規制緩和とは既存の領域の切り崩しで、いわば解決済みの紛争のちゃぶ台返しと同じであり疲弊しか生まない。新自由主義は自由主義の短期的局面(奪い・独占)にしかつながらず、「争奪」だけで「創出」がないと成長は生まれない。バブル崩壊後の長期低迷の一因である(私は主因だと思う)。)。なお、ベーシックインカムの考え方は後述するように「生かさず殺さず」を巧みに行う資本主義の自己拡大と同様で「略奪」の要素になり得る(福祉の向上に対する真偽不明性がさらなる「略奪」を生む)。もう一つ、新自由主義は自由の略奪と独占を通じ、独裁・全体主義と連続している。規制緩和と独裁による抑圧は一見逆のようだが、自由主義は両極に存在し、支配と自発的被支配のような一見逆の現象を同時に生み出すのが特徴。

[日本の長期デフレと自由主義的国民性]
 新自由主義を数十年続けて深刻なデフレに陥り未だ抜け出せない日本と、自由主義でもデフレになっていないアメリカなど他国との違いは何か。
 デフレとは、相対的に物よりもお金の価値が高くなる現象で、そのうち「悪いデフレ」とは、(物価は安くなるのに)相対的に高価値なお金を手放せず使えなくなる面(実質的な賃金低下も要因か、あるいは商品がさらに安くなるのを待つからだとも)が強く出て購買力が低下し、ますます物の相対的価値が下がり、その結果企業の業績が下がり賃金が実質的に低下しお金が貴重になり、という経済が循環しなくなる悪循環が進行する現象。物価の下落と言っても、生産性の向上などにより経済の量的拡大(GDPの成長など)を伴う価格下落は「良いデフレ」、需要不足による価格下落は量の減少が起こる「悪いデフレ」という見方があり、日本の長期デフレは悪いほうという解釈が一般的(インフレにも、適度な経済拡大を伴い適度な需要が維持される「良いインフレ」と、コスト上昇や金融政策の失敗などによる過剰な「悪いインフレ」があるのと同じ)。日本では、バブル崩壊による資産価値の急落(資産デフレ 1992年)をきっかけにデフレが拡大し、2000年8月に日銀がゼロ金利政策解除を決めたことがこれに拍車をかけたとされる。ほかに価格下落圧力になるものとしては、円高による安くなった輸入品の流入や、インターネットでの価格情報の氾濫なども。
 政策や社会的条件など様々にデフレの要因が分析されているが、それらとは別に「お金を手放せない」傾向がより強く出る日本人だからこそデフレから抜けられないということはないのか、つまり日本人は慎重過ぎる(心配性、不安が強い)?、あるいは以下のとおりバブルを経験してこれを境により慎重になった?(バブルを反省して慎重になった?、あるいは不動産価値の暴落を経験し「物(実体)」を信じられなくなった?→バブル後に拝金主義がより強まった?→いや、もともとでは?)、「皆がしないからできない」という同調圧力(これはありそう)、やはり、もともとの性質として拝金主義があるのではないのか(後述のとおりバブルに関わる貨幣錯覚も拝金主義であるという解釈もでき、やはり「もともと」ではないか)。心配性だとしても、同調圧力だとしも、拝金主義だとしても、結局は後述のとおり、いずれも自由主義と通じていて、この3つとも元は同じものかもしれない。また、物の価値の縮小や、プラザ合意による円高不況で本来得意な製造業が海外流出したことによって、イノベーションが起こらなくなり、単なる奪い合い(これは自由主義の短期的局面で、資本主義による搾取も含まれる)だけになったことが停滞の要因なのは確かだと思う(ここでも自由主義が関わり、やはり国民性として自由主義の傾向が強いことはデフレにもバブルにも関係している)。


[日本のバブルと自由主義的国民性]
 物(資産)の価値の虚構の急高騰、つまり資産インフレであった1980年代後半の日本のバブル・・日本では金融引き締めによりインフレ回避に誘導されていたところへ、米国ドルの不安定化リスクに対し米国を助けるため先進国で行われた協調的ドル安合意=プラザ合意がもたらした円高不況=安い輸入品による値下げ圧力または輸入品の供給過剰というデフレ圧力(一見、供給過剰が先行する良いデフレっぽいが、輸出産業の大打撃によりGDPの縮小を伴うため悪いデフレ)が重なり、非常な引き締め状態となったまま放置され、遅れて金融緩和に転じたものの、引き締めの影響から物価がすぐには上がらないため緩和で供給される貨幣が「お金持ちになった」錯覚を生み(「デフレ圧力と低金利政策という組み合わせが名目金利を低下させ貨幣錯覚を生む」がこの解釈でいいのかは自信なし)、不動産や株式への投機が始まって連鎖的に過熱した現象とされる。
 バブルを生じた要因はほかにも様々あり、どれか一つという断定は難しい。ほかの要因・・第1次中曽根政権が行った1983年1月のアーバンルネッサンス計画=都市開発の規制緩和=新自由主義(プラザ合意前から始まったという説)、円高不況自体が投資先を不動産に向かわせた、景気刺激や円高回避を求める政治的圧力により低金利政策がしばらく継続された、マスメディアによる不動産価値の宣伝、低金利政策から金融機関の融資が不動産に向かい投機熱を加速させた、土地は値下がりしないという思い込み=土地神話など。なお、プラザ合意による円高不況で製造業が海外流出したことは、その後の停滞の大きな原因となったのではないか。
 連鎖的に投機が拡大する現象の私流の解釈としては、まず個人の段階では、相手が弱いことを確認できた時にさらなる相手への攻撃の意欲を生じてしまう現象と同様に、投機で利ざやを稼いだこと(誰かを負かし自由を奪ったことになる)を認識した瞬間にさらなる投機の意欲を抱くという現象を生ずる(脳科学の報酬系とは少し違うのかも)。集団の段階で見ると、投機で虚構の価値を拡大させると、その裏返しとして資産の信用(平和的自由を生むもの)を奪うことになり、その喪失した「平和的自由」が「さらなる略奪を起こす破壊的自由」に転換され(後述の仕組み)、投機による信用の略奪の連鎖的拡大を生んだのではないか。

 戦後の状況が似ていたドイツとの違いは、日本は米国との関係が濃密過ぎて、米国を助けた影響をもろにかぶり円高による貿易赤字を引き受けてしまっただけでなく、ドイツと欧州圏の関係のように日本を円高圧力から助けてくれる存在が無かった点がある。また、堅実路線のドイツに対して、日本は堅実さを欠き虚構=バブルに傾いた。)。そのバブルが崩壊したショック・反動、プラザ合意による円高不況で製造業が海外流出したこと(これは大きいのでは)、その上でバブル崩壊後に物の価値が下がり続けるために、(繰り返しになるが、私流の「自由」の概念を用いると)発明などのイノベーションによる新たな自由の創造が起こらなくなり、国内では単なる「自由の争奪」のみになったことが停滞(ゼロ成長)の大きな要因ではないのか(それでも政府は新自由主義を強行し、自由主義の短期的局面である「争奪」を成長と錯覚し続けた)。

 バブルのメカニズムのうちの一つとされた「貨幣錯覚」を生じやすくそこから抜けられない性質が仮にあるとすれば、拝金主義によるバイアスがそれではないか。つまり、バブルの要因の一つとされた土地神話や資産信仰は、バブル拡大の局面では投機対象に付随するものとして利用されたに過ぎず、実質的には拝金主義であった(お金という「虚構」を「実」と錯覚し、「実」のほうが「虚構」にすり替わる倒錯。極端=自由主義。)。「とにかく、お金は貴重で、少しでも多くお金が欲しいから、投資ではなく投機になった」、「金利が下がって、お金を利用しやすくなっても、お金を持っておきたい気持ちは変わらず、使えない」、日本人にはその傾向が強いのではないか。脳科学的には、貨幣錯覚は報酬系(ドーパミン)の神経回路が前頭前野などからの理性による制御を受けにくくなる状態ではないか(貨幣の実質価値=その額面で今「できること」、貨幣は道具に過ぎないことを考えられなくなる)、とすれば同調圧力の脱理性・脱モラルに似た状態ではないか(名目の金額の多寡にだけ反応してしまう、短期的思考)。拝金主義は、自己を放棄してお金という権威に委ねる(すがる)同調圧力、全体主義(自由主義)と同じものと見なせる。つまりは理性やモラル(憐れみや共感や自制心)を失い無責任を生じるわけで、バブルもデフレもその現れではないか(悪いデフレは「助け合い」が働かなくなる状況ともみなせる)。崇拝対象が独裁者かお金かの違いで、連鎖的な熱狂は全体主義もバブルも同じ。米国との関係が濃密過ぎることも、自由主義における「支配と自発的な被支配」が国家間で発揮されており、やはり自由主義的な国民性がかなり影響している。

[バブルはお金を崇拝する全体主義(自由主義の極み)だった]
 明治期から太平洋戦争まで続いたのは「国体」を崇拝し熱狂する全体主義で「国体」による支配を抵抗なく受容する「マイナスの平和的自由」(後述)であった。一方、平成のバブルは「お金」を崇拝し熱狂する全体主義で、お金による支配を抵抗なく受容した。後述する「マイナスの平和的自由」の概念を見出した、破壊的自由(短期的局面)の連鎖的増加を示す曲線(マルサスモデル)と、バブル拡大期の公示地価の上昇曲線は似ている。
 戦争とバブルで異なる点は、戦争終盤では「インフラの破壊や人命の喪失」(物質的な破壊)の被害が多く、「さらなる略奪を生む破壊的自由」には転換されなかった(仕組みは後述。だから終結に向かったのでは。)、そして、終戦時には物不足と実需要という高インフレ状態=復興するしかない状況が残ったのに対して、平成のバブルでは、虚構の拡大により「信用」という(平和的自由を生む)無形のものを破壊して奪い、喪失させ無力なものにしたため(土地神話の対象である土地を手中にし征服した感覚=対象を無力化した感覚)、それが「さらなる略奪を生む破壊的自由」に転換され蓄積されてしまった点である。
 その結果、バブル崩壊自体も(「これ以上の信用破壊は許さんぞ」と言う)急激な金利引き上げ政策(つまり自由の略奪、剥奪)によって起こり、さらには有り余った「略奪を生む破壊的自由」は破壊的な新自由主義のさらなる強化を招いた。「主に物理的破壊を伴わない略奪が、さらなる略奪の連鎖を生む」ことは、「資本主義が、他者(労働者)を生かさず殺さず巧みに自由を略奪(搾取)することでさらなる搾取の動機を生み、連鎖的に搾取が自己増殖する現象であること」にはっきり現れている(環境破壊は自然からの物質的な略奪なので、後述の仕組みによれば、トータルの自由の減少となりさらなる略奪の動機を増やさないはずだが、その略奪の証である例えば資源の枯渇や土地の生産性低下などがすぐ目には見えないため無視されやすく、また平和的自由への寄与が大きい資源の喪失は、平和的自由の喪失=破壊的自由への転換となり、トータルで自由が減少する中で破壊的的自由の比率が高まり略奪が継続される。)。


[自由主義的国民性を前提とした場合]
 結論として、バブルやデフレの要因は様々に分析可能でも、その多くは自由主義的国民性に由来している。
 お金を利用しにくくする「利上げ(金融引き締め)」は、文字通り「自由の略奪(剥奪)」で、お金を利用しやすくする「利下げ」は「自由の解放」、本来は利下げで経済が拡大して良さそうなのに(確かにバブルでは過剰反応して虚構の急拡大を招いた)、バブル後の日本では利下げをしても経済の縮小傾向(悪いデフレ)が改善しなくなってしまった。これは、バブルのショックが大きかったのもあるとして、「自由」には略奪を生む「破壊的自由」(後述)と人の共存と社会や自由の共有を成立させる「平和的自由」(後述)があり、日本では国民性として前者の自由に偏っているからではないか(2つの自由の区別がついていないからでもある)。「破壊的自由」は自由主義の短期的局面であり、極端(バブルもデフレも)を生むからである。低金利でも経済が拡大しなくなってしまい経済政策の「真偽不明」を招いていること自体も(「真偽不明」は分断を招き平和的自由に寄与しないため)破壊的自由に寄与してしまい経済停滞の一要因になっている(主因はイノベーションがなくなったこと)。分断を招きやすいのも自由主義的国民性。
 自由主義的な国民性が関わっていることは、十分あり得ることだと思う。騙す人と騙される人で詐欺が成立するが、どちらの人も拝金主義により導かれ得る(騙されるほうには知識が欠ける弱みがあるものの、巧みに煽られてコントロールされるのは、「自制できない」欲があるから。お金が絡むことで「騙す」のが普通なので、騙されるほうも「お金に弱い」ということ、さらには恐怖が快楽に転化するように快楽を感じる場合もあるらしい。)。
 祖先の系統から、日本人よりも自由主義が濃厚な人々が大多数であると考えられるロシア人や中国人(後述)でも同じこと(バブルや悪いデフレ)が起こるはずであるが、生存本能の妙というか、彼らは自ら好んで独裁・全体主義となり(為政者による一方的な情報統制や洗脳という見方では足りず、統制されやすさ洗脳されやすさ、進んでそうなる国民性があるのでは。為政者のせいにして反省しないから何度でも同じことを繰り返す、この「責任転嫁」という認識の歪みも自由主義の一つで、歪んだ結果を導き、これは自由主義が自由主義を生む自己増殖の例。日本人にもその傾向がある。)、強烈な自由の制限により国内的には「自由主義の短期的局面の暴走」が防がれている(自由全般を抑制すれば破壊的自由も抑制されるから)。ソ連崩壊前後では独裁が弱まったために経済が混乱したのではないか、つまり、国内的には独裁が混乱を抑え、対外的には独裁者の濃厚な自由主義を抑えるものがなく暴走(今回のロシアの侵攻のように)するのではないか。この対外的な暴走により国内外に数多の犠牲者を出して仮に自分たちの社会を崩壊させても、国民性である濃厚な自由主義は変わらないため独裁は何度でも再現される(そこそこの自由主義である日本でも戦後年数を経て自由主義が強まっている)。濃厚な自由主義の国民性には、激しい不寛容があり、これを反映して「裏切り者は許さず命を奪う」という激しい恐怖政治となり、またそのような独裁・全体主義でないと自壊してしまう国民性なのであろうということ。
 日本の戦後は、旧枢軸国の敗戦国として対外的な自由が抑制された(結果的に国内の人々の自由も「適度に」抑制された=民主主義に近い)ゆえに破壊的自由が暴走せず経済成長を支える要素になったとも言える。しかし、次第に対外的自由、国内的自由を得て解放されていく中で成長が止まり、ついにバブルやデフレが起こった(単純に自由を拡大すると平和的自由も破壊的自由も拡大するが、国民性により破壊的自由のほうがより発揮されるということ)。
 ここで重要なのは、このように破壊的自由に傾く国民性でも「個人を尊重」をすべきか否かという点であり、「個人の否定」が全体主義そのものであってそれは理性や生得的普遍的モラルの消失を招くものであることを考えれば、やはり個人は尊重すべきであり、それと同時に破壊的自由だけを「公共の福祉」を理由として民主主義のもとに制限する必要があるというのが私の答えである。そうしないと平和的自由は得られず、民主的に「公共の福祉」を実現する努力は重要である。ロシアや中国のような統制とは違うやり方はないのかということでもあり、幸いにも現行日本国憲法にその方法は書かれている。
 日本人は縄文以降の渡来人との混血が進み(縄文人は、はるかに古い系統※3で自由主義の系統ではないが、新しい渡来人は強い自由主義の系統)、そこそこにかなり自由主義であり、過去には独裁・全体主義が成立し(少なくとも明治から太平洋戦争まで)、近年は新自由主義の進展で独裁傾向が続いてきた(新自由主義政権への反対運動は多数派にならなかった=遺伝的に自由主義派・保守派が多数派だからではないか。自由主義派の攻撃を恐れ反対できない場合も結局は自由主義派ということ=見て見ぬふりをする同調圧力も自由主義の現象だから)。濃厚な自由主義のロシア人、中国人はほぼsempre(音楽用語で「常に」)独裁・全体主義である。
 なお、中国やかつてのソ連の共産主義(マルクス主義)=「生産手段の社会化?によって、階級闘争や搾取、支配を(一切)無くし、全ての人が(完全に)自由に成長・発達する」は、一見社会主義のようだが、まず人々の(例えば生産手段の運営に関する)意思を適度に反映させる民主主義がないため、人々による「共有」が保障されず、結局は国家(権力者)が生産手段を独占的に支配することになり、生産手段を通じて国民も支配されて...、と最初から破綻していること(つまり空論、自己矛盾)。そして、闘争や搾取が一切ない理想世界とは、「潔癖」すなわち「不寛容」な世界であり(不寛容=他者が自由を持つことを許さない=自由主義)、結局は自由主義が他者の自由を奪う現象と何ら変わらず、ソ連も中国も実際そうなっていた(いる)。実際起こっている全体主義や独裁では、個人が否定され、自律的な社会構造もないため「社会性」も希薄である。つまり中国やソ連の共産主義は社会主義などではなく濃厚な自由主義資本主義である。自由主義であるアメリカとは自由主義どうしの「覇権争い」になる(動物が鏡像の自分を見て「同種の他者=敵」と見なし攻撃するのと同じでは)。社会主義は民主主義と一体でなければ「共有」を実現できないため成立せず、民主主義にも人々の「共存」と社会(社会主義)が必須で、それは中庸の領域に存在し、「極端(右翼も左翼も)」は自由主義資本主義である。


[自由主義の特徴(まとめ)]
 自由主義は、短期的局面としては「自由を奪う」であり、過剰な不安を起点とし、他者の自由を奪い独占する自分第一志向、不安からの離脱への集中である。自由主義と連続し「同じもの」と言えるものは、例えば、私有(排他的独占)、同調圧力としての(責任転嫁、無責任、モラル消失、「決めつけ」という不寛容、強者への依存)、不寛容、潔癖、極端・過剰、狡猾、たぶらかし、そそのかし、差別、支配と自発的な被支配、資本主義、全体主義、保守、誹謗中傷、侵略、戦争など。極端、過剰の結果として、一見反対に見える両極のものも自由主義となる(放任と全体主義、支配と被支配など)。

 野生生物に見られる弱肉強食や利己的遺伝子論(の曲解)などによって、自由主義的なあり方がいかにも自然で正当性があるかのように語られがちである。環境破壊と言っても、太古にはシアノバクテリアが地球の大気組成を変え、生物は適応してきた歴史がある。ここで取り上げた人間の自由主義には特殊性はあるのか。私には「恐怖の対象(脅威を生むもの)に自らすり寄っていく性質(闘うわけでも逃げるわけでもない)」「同調圧力や熱狂などに見られる非常に強い依存心」が独特ではないかと思える(一般的には動物は怖いものに対して逃げるか戦う。寄生する生物には依存はあっても熱狂はあるのか。)。個体が集団の利益のために犠牲になる集団(まさに全体主義)が栄えると考えるのが群淘汰説(ただし、そもそも利他的個体の集団に変異などで利他的でない個体が生まれれば利他的個体の遺伝子は淘汰されるためあり得ないと批判されており、種や群れのための行動は血縁選択や互恵的利他主義により解釈される※14)、生存に有利な個体の子孫が栄えるという考えが個体淘汰または遺伝子淘汰、遺伝子を中心に見て生物個体は「乗り物」と考えるのが生存機械論※13。
 「進化的安定戦略」※12の考え方によれば、

「(前略)ハト戦略の個体とタカ戦略の個体が混じり合った状態(混合戦略)で種は安定する事になる。この状態では、闘争相手がハト戦略を取るかタカ戦略を取るかを見極める事が重要となる為、儀式的闘争が発達する事になる。」「利得が非常に高い資源を争う場合は、儀式的闘争ではなく直接的闘争が行われる(タカ戦略の純粋戦略が進化的安定)」 

 タカ戦略を自由主義とするなら、一般的には自由主義だけが拡大し闘争がエスカレートする状態は不安定ということになるが、争う資源の利得が非常に高い場合には自由主義だけのほうが有利ということ(当たり前っぽいが果たしてどうか)。
 同調圧力は、不安から逃れるために自己の責任を放棄して強者(脅威を与える主体)にすがったり、自己の不安や不快の原因を全部他者に責任転嫁して激しく攻撃破壊することで、自己を放棄する無責任は、自分で自分の自由を奪うのと同じで(自己の放棄=無責任、自己の放棄=「決めつけ(不寛容)」なども含め自分自身で自分の自由を略奪→自分の自由を略奪=無責任)、また、奪った自由は破壊的自由に転換されるため(後述)強い攻撃性を生じると解釈できる。「決めつけ」は、本来は因果の連鎖で起こっている物事を、100%誰か何かのせいにするということ(認識の歪み)。他者や自己の自由を奪うと破壊的自由に転換されるため、略奪がさらなる略奪を生む自己増殖の連鎖が短期的自由主義の特徴となる。自由主義は長期的には発明などイノベーションにより自由を創出し成長を生むが、その自由は平和的自由にも破壊的自由にも区別なく配分され得る。
 自発的な被支配が生じる例として、自由主義の延長として全体主義に向かう過程では「自分たちの民族は優秀で他の民族を支配し自由を独占する」という意識が必ず生まれ、そのことと同調圧力(=自己を放棄して無責任となり強者に委ねる性質)が相俟って熱狂とともに自ら強い独裁を求めるというものが考えられる。もしくは、崇拝対象と自己が全く同一であるという錯覚、認識の歪みが自己犠牲的な奉仕を導く。また、愛国心教育などナショナリズムを煽る作用への反応としても起こるのではないか。
 自由主義は夥しい犠牲者を出し社会を潰しても、生き残った者で自由主義派が多数派を成しさえすれば何度でも再生するため、自由主義は無くならず民主主義より優勢である。犠牲者とは戦争の犠牲者、新自由主義などによる格差の犠牲者であり、自由主義に異議申し立てをする最も正当性のある人々である。
 米英などの自由主義の国では、小選挙区制・二大政党・政権交代が機能することで、コントロール下のミニ崩壊(政権交代)によって、大崩壊による完全な独裁の成立を防いでいる。ただし、自由主義を独裁寸前まで強めるため、政治は強い自由主義となる。また、(遺伝的に)自由主義的な人々が圧倒的多数の場合は、自動的に独裁が成立する。
 「真偽不明性」は分断を招き「共有」を妨げるため民主主義には寄与せず自由主義に寄与する(2020年アメリカ大統領選挙の例。資本主義は、自然を破壊し、労働者を「生かさず殺さず」搾取の対象とする一方でイノベーションにより平和的自由と破壊的自由の両方を生み出すなど、根源的な「真偽不明性(幸福に寄与するのか否か)」があり、搾取の自己増殖に寄与している。)。自由主義は不満(不足感に伴う不安)や「真偽不明」を生み、それらは、ますます自由主義を拡大させる(新自由主義への不満や真偽不明性が新自由主義の政党を躍進させるなど)。
 論理性は不寛容の積み重ねとも言えるため、科学は自由主義的である。


3、民主主義とは

 民主主義とは、人が個人として否定されず「共存」して社会を成し、各人が主権を持つためには、自由は有限であるがゆえに社会や自由(責任を含む)の「共有」を必要とし、その「共有」を保障する(各人の意思を適度に反映させる)方法と、「共存」の原則から侵略戦争を否定し、互いの自由を適度に尊重する寛容さ(破壊的自由も完全には排除しない)つまりいくらか自由を抑制するあり方を必要とする状態を志向することである。民主主義を成立させるにはノウハウだけでなく、民主主義的な人々(例えば、ごく自然に「共有(分かち合い)」を実行できる性質などを持つ人々)を必要とする。自由主義は両極の広範に存在するが、民主主義は中庸という限られた範囲にしか存在しない。「共存」する社会を前提とする民主主義、民主主義によって保障される「共有(本来の社会主義)」、民主主義と(本来の)社会主義は相互に必要とし合い一体不可分のものである。「共存」を前提とするため、特に自由主義の短期的局面である「奪う」は「共有」とは矛盾するが、これを完全に排除せずいくらか含むのが民主主義社会主義である(「いくらか」なので圧倒的である独占、独裁は含まれない)。破壊的自由に対する防御として必要な破壊的自由とも言える。また、自由主義の長期的な要素としてイノベーションによる「自由の創造」によって成長を起こす可能性は重要。 

[潔癖=不寛容=自由主義(超民主主義は存在せず自由主義になる)]
 マルクス主義(共産主義)の言う理想社会は存在し得ない(なぜなら、民主主義は「共存(つまり社会の成立)」を前提とし、現に社会に破壊的な自由主義が存在する以上これを完全に排除することは「共存」に矛盾するため「混じり気のない理想的で完全な民主主義」なるものは存在し得ないから)。それにも関わらずそれを志向する潔癖さは不寛容と同じであり自由主義である。自由の「共有」が「独占(独裁)」にすり替わった「偽の」社会主義となる。

 



4、自由とは(2)「転移する自由」の原理

 自由の状態式
 (a.物質、時間、空間に制約された自由)-(b.人が「共存」する社会や、自由を「共有」する民主主義を成立させるために、さらに限定された自由、つまり平和的に使える自由)=(c.人の社会を破壊する「逸脱した自由・破壊的自由」)
 a-b=c
 個人、集団、社会など、様々なレベル、系に分解しても合算しても成り立つと考える。平和的自由bと破壊的自由cの関係式。
 aは総量的・上限的な概念量だが、発明・発見などイノベーションや思想、インフラ建設などにより生みだされ(増え)、資源の減少やインフラの喪失や人命の喪失などで減少し(技術や思想など無形のものは一度生みだされたら喪失しにくいが、思想統制などで減少する可能性はある。ただし、物質的、時間・空間的な制約が強まるかどうか個別に判断が必要。)、短期的には変動しにくい量と考える。仮に数量化できたとした場合、個人レベルでも総量aは相当個人差があると考えられる(お金持ちで人間関係が豊かで自由度の高い職業な人ほど大きい)。生み出した自由は、平和的自由bにも破壊的自由cにも区別なく分配される(原子力と核兵器など)。
 平和的自由bの比率が多いのが民主主義、破壊的自由cの比率が多いのが自由主義。破壊的自由cを完全に無くすことは、平和的自由bの「共存」に反するためできず、c>0なので、bがaよりもいくらか抑制されているのが民主主義の姿。
 自由の総量aが短期的には増減しにくいことから、平和的自由bが奪われたり、bを放棄した分は、破壊的自由cに転換される(非常に重要な現象)。仮に奪う行為自体をcだと考えると、自由の交換が瞬時に完了してしまい、その奪った(完了した)行為とは別にcが蓄えられるのはおかしいという話になるが、自由とは未来への選択肢つまり可能性のことであり、奪う行為(完了するもの)がcという解釈は間違っている。実際、自由を奪われて無力になった相手を見て「認識」する過程を介在して、さらなる破壊への誘惑を生む(それがcが増えたということ)現象がある(動物にもある現象)。
 戦争などで人命を奪うことは、物理的に奪うためaは減少しcには転換されない(bもcも減少)。多数の死者を出し新たなcの増加が抑えられないと戦争が終結しないという解釈もできる。なお、資源の枯渇など資源が利用できなくなることにより総量aが減る場合は、資源はbへの寄与が大きいためbのほうが減り、激しい資源の争奪を導くcが保存されcの比率を高める圧力となる(悪いインフレもこれに類似)。また、自然破壊の影響はすぐには現れないため、身近な物理的破壊を伴わず人を「生かさず殺さず(益が害かを真偽不明にして)」自由を奪う(搾取する)資本主義は効率的にcを増加させ、連鎖的爆発的に略奪(搾取)を拡大させるという解釈もできる。なお、「真偽不明」は意見が割れ分断を招くため、平和的自由には寄与せず、破壊的自由に寄与する(2020アメリカ大統領選挙の例)。 
 bがcに転換され、連鎖的にcを拡大させる現象をもう少し詳しく分析する。相手が自分より無力(平和的自由が少ない)だと認識することを介して破壊的自由に転換される(極めて動物的)ことから連想し、トータルで平和的自由より破壊的自由が僅かでも勝る時点から破壊的自由の自己増殖が始まる(言い換えると「民主主義では略奪の可能性は縮小し、自由主義になると自己増殖的に略奪の可能性が拡大する」)と仮定すると、
 dc(t)/dt = r(c(t)-b(t))
とし、ここで「短期的に」aは変動しないという仮定を使い(つまり「短期的」が前提)、a-b=cからa-b(t)=c(t)とし、これを使いb(t)を消去して、
 dc(t)/dt = r(2c(t)-a)(単純な変数分離型の微分方程式)、これを解いて
 c(t)=(1/2)e∧(2rt) +a/2が導かれる。
 これは人口爆発のようにマルサスモデルと言われる非現実的な青天井の加速度的、爆発的な無限成長モデルで(「短期的」が前提であり、実際にはどこかで崩壊する)、仮に破壊的自由c(t)がaを超えて増加するためには、必然的にマイナスの平和的自由b(t)について考える必要がある。
 自由がゼロの状態とは、「自分の意思で決めることがでる実行可能な選択肢がゼロの状態」であり、「マイナスの自由」とは「他者の意思で強制される選択肢の大きさ」という解釈ができるのではないか。失ったbがcに転換される現象とは矛盾なく連続している。「平和的自由bがマイナス」については、「自由」に対してマイナスを適用し、「平和的」はそのまま(bの属性そのものなので)だとすれば、「争いがない」ことが付加され、マイナスの自由つまり他者からの強制を反抗せず平和的に「共有」しているということになる。強制を抵抗なく受容する人々と、一方ではますます強まる独裁権力や破壊的自由の非常な増大(モラル崩壊も含む)を表すことになり、まさに「全体主義、独裁」特有の状態を正確に捉えていると言える(自由主義の延長上に全体主義があることが理解できる。「超自由主義」とも言える。)。また、バブル拡大期(その少し前から)の公示地価のグラフ(1980年代初めから終わり)を見ると、まさにc(t)の曲線と同じ指数的増加を示している。
 全く対称的にb(t)についても同じになるかと言うと、c>0としていたのでならない。仮にマイナスのcが何かと考えると「強制への抵抗」となり、解釈しようがありそうだが、超民主主義的なものは、マルクス主義の理想社会のようであり、やはり存在し得ないということになる(民主主義ではなく自由主義となり自己矛盾。平和を掲げているのに戦争をしているような。)


5、人類の歴史と自由主義的性質

 約7万年前に人口激減による存亡の危機でボトルネック効果により「社会的に協力する」一族だけが生き残り、その社会では「共有」が普通だったと考えられる(性染色体の父系祖先の系統であるY染色体ハプログループAの系統が多く、現存する最古の人類とされるサン人(=アフリカ南部のブッシュマン)の社会には権力は存在せず対等で、祭りの熱狂もない※11。Iの系統が比較的多めの北欧や北部ドイツ※7には分かち合いと民主主義の文化が残る。Dの系統を濃厚に残していたアイヌ人は明治までは私有の概念が無かった※3,8,9。狩猟採集生活との関連はあるとしても、それだけでは説明がつかないのでは。遺伝的に「共有」に親和する性質があると考える。)。
 約4万7千年前、性染色体による父系祖先の系統のY染色体ハプログループKの系統が中東のあたりで生まれる(以下、Y染色体ハプログループの系統をアルファベットのみで表す)※4。この系統は大きく拡大し、現在、ユーラシア、アメリカ大陸の男性の半分以上はKの子孫と言われる※4。進化に関する説明でよく登場する、まさに利他的個体の集団の中に変異によって利他的でない個体が発生し、利他的個体の系統を淘汰しているような状況。ロシア人はKの父系子孫であるR(R1a)とNの系統の人で大半を占め※6、中国華北の漢民族、朝鮮民族は同様にKの父系子孫であるOの系統の人が圧倒的大多数※2という現状から、この系統の特徴を窺い知ることができる(全体主義=自由主義)。イギリスやイベリア半島、ヨーロッパ南部の一部ではR(R1b)の系統の人が大変多く※5、イベリア半島や北イタリアの人々が大航海時代を主導し植民地を開拓、イギリス人は産業革命を起こし資本主義を進展させた。Rの系統の人は古くはおよそ5000年前にアフリカのバントゥー系民族に農耕を伝え同民族を拡大させた(同民族が他の民族から導入した牧畜を狩猟採集民族に伝えると、同民族の移住よりも牧畜の伝播のほうが速かったとされる)※10。
 この系統の特徴は、動物的な独占欲(相手が弱いと見れば攻撃し自由を奪い自分のものとし、排他的に独占)と、恐怖(脅威を与えている対象)に自ら近寄っていき(今もホラー映画や遊園地の怖いアトラクションが娯楽となっているのがその現れでは)、そして熱狂を起こす独特の特性(根源的な自己の存在不安から解放されることを求め集団の一体感を求めるが如く生まれる熱狂・・依存心ではないか)、他者の不寛容を攻撃しながら自己の不寛容を自覚できない(動物が鏡の虚像の自分を同種の他者と見なし攻撃する反応に似る)、産業革命を生むような知能など、これらは自由主義ではないか。この自由主義の延長には全体主義があり、全体主義には支配と被支配がある。この系統は、農耕を発明し、産業革命を起こして資本主義をより発達させ、これを支配に利用し、大航海時代には植民地を開拓した。人々を支配し家畜化する現象が自己増殖している。
 キリスト教とイスラム教の親であるユダヤ教にある「原罪」の起源は、おそらく人類(Kの系統)が自由主義を手にしたことであり、Jの系統の一人の男性がKの系統の娘と結ばれたことではないだろうか。先に「知識の木の実」を食べたのは女であり、「知識の木の実」とは自由主義の象徴で、狡猾さ(実際、後に農耕を発明し、それを他民族の支配に利用した)を手に入れていたKの系統の一族の女を意味し、禁断の行為を神に問われ責任転嫁に終始した2人の姿は、責任転嫁は自由主義の特徴であることから、自由主義の伝染を象徴している。その子孫が創設した教えは一神教という不寛容=自由主義を導くもの(ユダヤ教)であったが、寛容さを取り戻そうとしたキリストの教えからキリスト教が生まれた。
 民主主義(を担い得る遺伝子)は絶滅の方向に向かっている。世界の大多数が実質的にKの子孫となれば(Kの系統の遺伝子に覆われれば)、全体主義的な世界、一握りの支配者と家畜化され何ら抵抗なく支配される(支配されていることにすら気づかないかもしれない)大多数の人々からなる世界となるのではないか(本来の社会というものはなくなる)。つまり中国や北朝鮮のようになり、人類は7万年前とは遺伝的にも異なる種になるということ。前述の「進化的安定戦略」の考え方によれば、資源が逼迫していけば、タカ戦略(つまり自由主義的あり方)が有利となるためあり得ないことではない。


6、日本の状況

 日本では、Oの系統が何回か渡来してから千年以上が経ち(最初は農耕が伝わり、ヤマト王権の頃からは権力中枢にも侵入)かなり混血した。性染色体の父系祖先としてはOの系統の男性が過半数、D(縄文人)の系統の男性は4割弱※2、しかし(特に本土では)混血により縄文人の遺伝子はその割合以上に失われているのではないか。特に近畿四国地方は、全ゲノムの一塩基多型の解析による集団の遺伝的近縁度の調査(東京大学大学院)※1において、中国北京の漢民族に日本の中では最も近いとされ、特に大阪では独裁や新自由主義を掲げる政党が強く支持されている(同政党が掲げるベーシックインカムは、生存の自由の「共有」か労働者の家畜化か真偽不明で、このいかにも資本主義的な真偽不明性は破壊的自由のほう、つまり新自由主義を掲げる同政党に寄与する)。現在の日本人は、Oの系統による生粋の自由主義(保守)派が多数派で、混血により自由主義的な人も多いため、自由主義(保守)派が大多数となる。そのため小選挙区制において自由主義対民主主義という拮抗は生じようがなく、単なる不毛な権力闘争にしかならない(民主党が政権を取った時、民主党は自由主義であった)。自由主義(保守=自由主義=全体主義志向)の政党である日本の自民党は、今も「滅私」を「公益」と称して全体主義を復活させようとしており・・自民党の憲法草案2012では現行憲法の「個人の尊重」の「個」を削除して「個人の尊重」の否定を志向している=「滅私」=全体主義、全体主義=自由主義=無責任(濃厚な自由主義である全体主義だから無責任の極み)なので、国も国民も守れない(全体主義志向の同党によるマイナンバーカードの推進からは国家による国民の直接管理=全体主義の要素を感じる。民主主義を背景にした北欧の電子化とは違い、全体主義が背景では無責任が伴う。政府が一方的に無責任と言うより、自由主義的国民性ということは無責任な国民性があるということで、本人証明力の非常に高いマイナンバーカードを適切に管理できない面も加味される。そこまで考えたシステムになっているのか。)。
 「滅私」=自己の放棄=個人の否定=全体主義=自由主義=無責任、「滅私」=潔癖=不寛容=自由主義=無責任。適度な自制心は民主主義につながるが、「滅私」という極端は真逆の全体主義になる。しかし、似ているために巧みに「滅私」に誘導されてしまいかねない。

7、脳科学的な視点

 脳科学的なミクロな視点では、不安(将来に対する何らの恐怖)や不満(不足感による不安や怒り)に過度に集中することで、デフォルトモードネットワークが働かない状態となり、前頭前野との接続が切れて、理性や憐れみや共感や自制心などのモラルが働かない状態となり、さらに前頭前野の特殊な関与で恐怖が快感に転化する状態が考えられる。持続的にそれが起こる要因の一つとしてセロトニントランスポーター遺伝子の多型というセロトニンの再利用効率が低いタイプが生じたことがあるのではないか(セロトニン不足により不安を生じやすい)。 


8、生き方との関係

 「決めつけ」(あいつのせい、自分のせい、「自分は〇〇になるしかない」など)は責任転嫁と不寛容という自由主義(短期的局面)となり、他者や自分自身の自由を奪うため、前述の原理によりそれは破壊的自由に転換されてしまうので幸せにはなれない(他者や自己を傷つけ、最悪の場合は命を奪う)。「(どうせ)自分のせい」、「(誰かのけいで)〇〇になるしかない」のように実はこれらも責任転嫁であり、不安から逃げて責任から解放されようとしている。そして他者に責任を押し付けることが破壊の端緒となり連鎖的に破壊が拡大し自己破壊を招く。本来は不安から逃げてはいけない。「決めつけ」は、本来は因果の連鎖で起こっている物事を、100%誰か何かのせいにするという認識の歪みで、それでは誤った結果を導くことに。一方「〇〇になって、あれをしよう、これをしよう」という志は、自分の意思で決める実行可能な選択肢の創造(つまり自由の創造)を志向しており、「決めつけ」とは全く異なる。創造した自由は平和的自由にも破壊的自由にも利用可能であり、環境や本人の努力により平和的自由のほうにより多く配分することで幸せになることが可能である。

 やっと前置きが終わり(長過ぎですが)、本稿の主題です。

9、自分のしたことが誰かの役に立って嬉しい心

 「自分のしたことが誰かの役に立って嬉しい」と感じる心は、自分の意思を受容してくれる相手がいた=自分の意思が社会に反映(共有)された=自分が社会の一員として社会につながっていることを確認できた、そのことに「喜び」を感じる性質に由来するのだと思います。良かれと思ってしたことがなかなか受け入れられないことが多いと、この喜びは大きくなります。「ありがとう」という言葉は「受容しました」というサインであり、喜びと救いをもたらします。それだけ社会とつながることが救いになる、社会とのつながりを求める本性があるということです。熱狂を生むような特性(自由主義的なものである可能性)とよく似ていますが(集団での一体感が孤独を癒やすかのような)、熱狂は「依存心」であるのに対して、これは自分の意思を社会と共有させるものなので異なります(重要な違いです)し、熱狂は生まないでしょう。熱狂は他者と自分は全く同じという錯覚、認識の歪みを伴い、他者に全てを委ねてしまいますが、表題のことは、自己と他者は別々の人間として、互いに認め合い助け合うことを意味します。
 ここまで説明してきたように、これは「共有」の現象、民主主義の萌芽のようなものです。自由主義の世界、バブルやデフレを起こす精神性とは異なります。バブルもデフレも、虚構(お金)を信じ過ぎ、その独占性により「助け合い」を起こしにくくします(虚構が適度に生かされれば、非常に広範囲の協力を可能にしますが、「過剰に」信じるが故に、つまり自由主義により真逆になってしまいます。前述の「依存心」も「過剰」も「独占」も自由主義で、それでは「助け合い」は成立しにくいということです。)。「欲」を人間臭さとして肯定的に捉える場合もありますが...いえ決して、民主主義に「欲」が無いわけではありません。解説したように民主主義の中には必然的に「いくらかの」自由主義は含まれます。ただ、表題の心は自由主義的な性質を発揮させている人々よりも古い人類の記憶と言えるものかもしれません。 
 「共有」を社会主義(民主主義)だから気持ち悪いと思う人がもしも多いとすれば、古い人類の記憶が失われつつあるのかもしれません(約4万7千年前に生じ、動物的な独占欲、私有の概念など自由主義的特徴を強く持ったと考えられる系統を新しい人類と仮定し、それに対する古い人類という考え方です)。進化論や「進化的安定戦略」の考え方によれば、単純には利他的行動をする個体は利己的行動をする個体に排除されますが、集団としてはタカ戦略とハト戦略の混合戦略(民主主義に近いのかも)が安定で、ただし、資源が逼迫しその価値が高まった状態ではタカ戦略の純粋戦略(自由主義的)が有利になるらしいです。古い人類の記憶(遺伝子)は失われていくのでしょうか。自由主義(全体主義を含む)の政党である自民党の憲法草案2012では「個人の尊重」の「個」を削除し、「滅私」つまり全体主義が示されています(個人の自由を全否定し、国民を家畜化するもの)。利他的な奉仕の精神は、このようなものに利用されやすく劣勢です。
 子供は夫婦の共有の証でしょう(私には伴侶も子もなく、偉そうには言えませんが)。共有という社会主義(なお、中で書いたようにマルクス主義=共産主義は社会主義ではなく自由主義です)が嫌いな自由主義的国民性(同種の他者、つまり自由主義の他者を敵として嫌悪する性質も含まれる・・ということは、たいていの他者は嫌いということ)では、とにかく共有も同類も嫌いなのですから少子化を解決するのはなかなか難しいかもしれません(出生率には社会の発展段階に応じた特徴・・多産多死→多産少死→少産少死・・という人口転換理論があるので、これは特殊な見方です。しかし、アフリカの諸国で出生率が高いのは、人類の出アフリカ後に生じて拡大した自由主義的な人々とは異なる古い系統の人々の末裔が多いことと関わりはないだろうかと想像してしまいます)。子供の誕生は、この世に新たな自由(可能性)を創出させることでもあります。親にとっての自由は増えないですが社会としては新たな自由の創出です。子供がいずれ社会と関わり社会と自由を共有する、その子供を通じて自分も社会とつながる、その喜びがあるのかもしれません(何しろ体験がないため「かもしれない」と想像です)。ただし、ここまで何回か言及したとおり、新たに創出された自由は、平和的自由にも破壊的自由にも配分され得る特徴があります。平和的自由により幸せになれますように。

 非常に長い記事をお読みくださり、また、私流の拙い論説にお付き合いくださりありがとうございました。

 

 リンクはよいですが、同じタイトルの記事にするのはやめてください(リブログは無しにしました)。

 


(参考)
※1:東京大学大学院理学系研究科理学部サイトから2020/10/14「都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造~縄文人と渡来人の混血がもたらした本土日本人内の遺伝的異質性~」https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/
※2:「日本人」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/4/5  18:11 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※3:「ハプログループD (Y染色体)」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/3/6  22:51 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※4:「ハプログループK (Y染色体)」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/6/28  21:42 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※5:「ハプログループR1b (Y染色体)」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/2/20  10:26 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※6:「ロシア人」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/3/31  14:06 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※7:「ハプログループI (Y染色体)」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/1/18  05:50 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※8:「アイヌ文化」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/3/31  11:35 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※9:「コタン」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/1/30  12:48 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※10:「バントゥー系民族」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/3/8  13:28 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※11:「サン人」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23  13:50 UTC 版)https://ja.wikipedia.org

※12:「進化的安定戦略」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/5/8  12:59 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※13:「利己的遺伝子」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/4/11  01:18 UTC 版)https://ja.wikipedia.org

※14:「群選択」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/3/19  17:12 UTC 版)https://ja.wikipedia.org