◎近代日本の三悪道
我々を取り巻く様々な社会問題、
自殺・幼児虐待・治安悪化・少年犯罪の凶悪化・老人の孤独死・介護疲れによる殺人・少子化等々・・・。
その根本的な原因は拝金主義、学歴社会、核家族である。
これを私は「近代日本の三悪道」と呼んでいる。
今の社会の在り方は家族から父親、母親、子供を奪うシステムであると思っている。
父親を単身赴任・転勤・出張・交代制勤務によって家族から奪い、働く女性を応援すると云う名目で母親を子供たちから奪い、学制によって子供を奪う。これらの事によって家族から家族の時間を奪う。
気が付いたら自分を理解してくれる最も親しい人は赤の他人。
逆に家族同士があまりお互いのことを知らない。
子供は親の後ろ姿を見て育つと云うが、その後ろ姿すら見えず顔を合わせれば「宿題やれ!」、「皆についてけなくなるぞ!」、中学校に入ると「良い高校入れないぞ!塾に行け!」、高校に入ると「良い大学に入れ!」「良いとこに就職出来なくなるぞ!」。
そして決まってこう云う
「子供に良い人生を送ってもらいたいから・・・」
勿論これが全てとは言わないが、子供に大学なんか行く必要は無いって言う人も、子供には好きなことやらせたいと言う人も少なからず良い大学を出れば、良い仕事に就け、良い人生を歩めると思ってる方も多いのではないだろうか?
少なからず生活が保障されると信じてるのではないだろうか?
◎カルト宗教
我が国は明治の廃仏毀釈運動や神仏分離令などによって神と仏を無理矢理分けられ、伝統宗教が大損害を受け衰退し、我々庶民は心の拠り所を失ってしまった。
そして既存の伝統宗教の衰退はカルト宗教の勃興へとつながった。
この明治の時に誕生した数々の社会弊害を生み出す恐ろしいカルト宗教の本当の正体こそ「学歴宗教」である。
この時から人を評価する時、志の有無や人柄、何が出来るか、ではなく点数でするようになってしまった。
現在、学歴社会である。
つまり今の日本人の多くが「拝金主義」と云う御本尊を崇拝し、学歴があれば良い会社に入って高給を貰い幸せになれると云う教義(教え)を信じ、
高学歴=頭が良い
学歴無し=頭が悪い
と云う図式で見ているのでは無いだろうか。
その証拠に求人情報誌を見て欲しい。
「やる気のある方大募集!高卒以上」
「あなたを待ってます!大卒以上 」
その殆どの条件資格に学歴が入っている。
これは優秀かどうか、やる気があるかどうかではなく、学歴で見てる証拠である。
つまりウチの仕事は馬鹿じゃ勤まりませんよってことだ。
しかし本当にそうだろうか?
親に言われたから、まわりの皆がそうだったから、ただ何となく大学を出て、ただ何となく就職が決まり、生活の為に仕方なく働き・・・。
しかし中卒でもやる気がある者は沢山いる。
例えば営業の仕事がやりたい、営業だったら誰にも負けない、と云う中卒の人がいたとする。
しかし大概の営業関係の仕事は高卒以上。
だからその仕事に就くことは出来ない。
この人と、大学を出てただ何となく面接で受かったから働くと言ってる人と、どちらが会社にとって有益で、どちらが会社にとって優秀な人だろうか?
いざ入社し仕事に就き、経験を積んでどんなに頑張っても大卒と高卒・中卒では出世に開きがあるのではなかろうか?
本当にやる気のある人、優秀な人が大卒じゃないと就職出来ないし出世も出来ない。
これは正しい事だろうか?
人はどんなに辛くて大変なことでも、興味のあることや好きなことは必死で覚えようとするのものである。
それが相対性理論だろうが六法全書だろうが自分の選んだ仕事に必要であったら必ず覚える。
生まれて死ぬまで大体100歳ぐらいの人生、その内の三分の一は寝て過ごし、その内の大切な幼児期から青春時代を最低12年から16年ぐらいは学校で過ごす。
その間に学んだ英語、数学の公式、理科の実験、音楽等々、社会に出てどれだけ役に立っているのか?
人によっては、場合によってはまったく役に立たない「勉強(勉める事を強いる)」をして過ごす。
本当の「学問」はそうではない。
興味を持って「学び」、どうしても分からなくなった時、初めて「問う」のが本当の「学問」である。
必要なことは必要な時にすべきではなかろうか?
あなたが本当に興味のおもむくままに学びたいことを学んだら、あなたの人生はどうであったろう。
人々が「経済発展が人を幸せにする」と云う幻想を追い求めた結果、次から次へと深刻なる社会問題を生み出し続け、その社会問題に対しても、金が無いから、金さえあれば幸せになる、と拝金に走り、その為には良い高校出て、良い大学出て、良い会社入って、それが良いことだとひたすら人々は信じ続け、信じ込まされている。
そう、人がより良い人生を歩ませない社会、それが学歴社会である。
これこそが人々を苦しめてる正体である。
そろそろ学歴社会を見直そうじゃないか。
◎明治以前
振り返ってみると明治以前はカルト「学歴宗教」なんて無い。
そして「職住一体社会」、つまり、仕事と住むところが一体で家族が一緒にいられたのである。
子供は午前中は寺小屋で学び、午後は家の手伝い。その共同体の大人たちに囲まれ、或いは大家族に囲まれ人としての在り方を「教わる」のではなく「示されて」学んだ。
人との接し方、神仏や先祖を敬う姿、仕事のやり方など示され、それを見ておぼえていったのである。
この「示す」と云う字は神のことである。
「宗教」と云う字は「宀」に「示」である。「宀」は「家」と云う意味で、「示」と云う字が神で「家に祀られてる神の教え」。
神に供物を捧げてるところ象形が「祭」。
「祟る」と云う字は「出」と「示」からなるが、これは神が「出」て来て「示」すので、二つ合わせて「祟る」と云う字になる。。
「祠」も「示」と「司」からなるが、神を司る場所などを指す。
そして日本人はこの「示す」と云うことが実に良く出来る民族である。
敢えて言葉に出さずとも分かる、「コトアゲセヌクニ」とはそう云う意味である。
寺子屋では午前中は大部屋に五・六歳ぐらいから十一・二歳ぐらいの子供が一緒に学び、午後は家の手伝い。
年長者は年少者の面倒をみながら学び、その年少者は年長者の姿を見て学ぶ。
年長者に面倒を見てもらった年少者は当たり前のように年下の面倒をみるようになる。
つまり「面倒を見ろ!」なんて言わなくても自然にそうなるのである。
「勉強しろ!」なんて言わなくても年長者の姿を見て育って来てるので、自然にやるようになる。
つまり年長者の在り方が「示されて」いるのである。
寺子屋に通う子供たちは皆それぞれが先輩後輩ではなく、兄であり弟であり姉であり妹である。
人と人との繋がりの強さはここにある。
家に帰ると親の手伝いをしながら仕事を見て覚えていく。
仕事をする親を見ながら育ち、周りの大人から「お前の親爺はよう働くのう」「仕事が出来る大人になれよ」と仕事・働くと云うことを幼いうちから意識させて育てる。
親は子供の手本で、子供にやって欲しくないことは子供の前でやらない。
子供にこう云う大人になって欲しいと思うことがあれば積極的に子供に示すため、自ら率先して実行し子供に見せるのである。
子供は親から強制されたことは後々まで嫌いになり、親が楽しんでやってたことは子供も大人になったら自然とやるようになる。
だから「教える」のではなく「示す」のである。
そして十七、八歳ぐらいになると仕事も一人前になり立派な大人。
二十歳前には、そろそろ結婚と云う話がでる。
そして子供が出来て父・母となる。
「大家族社会」だから若いうちに出産しても祖母や曾祖母がいるので安心。
都市部でも町の共同体全体が親兄弟みたいなものだから困らない。
一緒に寺子屋で育ち三軒隣の姉やにオシメ取り替えてもらったなんて当たり前の共同体である。
それが親の代もそうなんだから町村全体が家族である。
友達の子供がイタズラなんかしたら怒鳴りつけるなんて当たり前。
母乳が出なければ、隣に貰いにいく。
金がなければ大根で払う。
人を評価する時は一番に職能で評価する「職能社会」。
つまり何が出来るかで評価する。
仕事は自分で創る社会。
これが明治以前の姿である。
明治の近代化はこの無名の学歴なんぞ持たない職人たちが築いたものだ。
今の社会を見てみよう。
幼稚園・保育園から洗脳が始まる。
級替えでバラバラ。
小学校に入るときにバラバラ。
クラス替えでバラバラ。
中学校に入るときにバラバラ。
高校に入るときバラバラ。
大学に入るときバラバラ。
会社に入るときバラバラ。
家族が出来てバラバラ。
老後は家族がバラバラ
最初に出来た友人の顔なんて覚えてない。
隣に住んでる人の顔も知らない。
親兄弟が死んでも仕事が忙しく葬式にも出れない。
人と人との絆、家族との絆とは何なんだろうか?
そんな事を考えさせない、考えられないように洗脳されている。
これが近代日本の三悪道によって生み出されたものである。
この三悪道を改めない限り、少子・高齢化問題も虐待問題も何一つ解決しない。
①職住一体社会へ
・ 江戸の職人町や商人町をモデルに仕事場と住居を一緒にする。これによって家族との時間が増え、家族との絆、地域との絆が強化される。
・雇用問題も起きづらくなる。
・生涯現役でいられる。
・タイムカードと云う見えない鎖から解放。
②学歴社会から職能社会へ
・まず就職条件から学歴を外す。そして寺子屋制度を見直す。
・高齢者に指導を任せることによって活躍の場を作る。
・幼いうちから自分の目指す仕事を意識させ、それに見合った教育をする。早くから一人前の職能者になれば後で幾らでもやり直しがきく。
・これによって無駄な勉強をしなくて済み、自分の仕事に誇りを持ち、一人前の大人として早くから社会貢献出来る。
・学費などで使う金を貯蓄に廻すことが出来る。
・現在の低学歴のニート対策にも繋がる。
③核家族社会から大家族社会へ
・ 親子三代一緒に暮らす。
・これによって子育ての負担が軽減され少子化を防ぎ、幼児虐待や育児ノイローゼ、「鍵っ子」や少年犯罪の凶悪化を未然に防ぎ、老人の孤独死を減らすことが出来る。
◎家族とは?
家族は一緒にいてこそ力を発揮する。
早く家を出て独立するのが良いことなんて近代に入ってからの考えである。
人は決して一人では生きられない。
あなたが現在、子をもつ親であるなら子供だけでなく子孫に思いを馳せなさい。
そうすれば祖先に想いが至るようになる。
あなたが未だ若者であるなら、祖先に想いを馳せなさい。
そうすれば子孫に思いが至るようになる。
祖先から子孫への連綿とした繋がりのなかで初めて個人の意味が分かるのである。
現在の自分達だけの都合しか考えない個人主義に別れを告げてこそ個人が確立されるのである。
家族とは、自分達だけではない。祖先も子孫も含めて本当の家族なのである。
人は寿命がある。
必ず老い、死んでいく。
そのことから目を逸らさず考えたとき、本当の人生を歩むことが出来るのである。
そのことが理解出来た時、あなたは本当の人生を歩むだろう。
我々を取り巻く様々な社会問題、
自殺・幼児虐待・治安悪化・少年犯罪の凶悪化・老人の孤独死・介護疲れによる殺人・少子化等々・・・。
その根本的な原因は拝金主義、学歴社会、核家族である。
これを私は「近代日本の三悪道」と呼んでいる。
今の社会の在り方は家族から父親、母親、子供を奪うシステムであると思っている。
父親を単身赴任・転勤・出張・交代制勤務によって家族から奪い、働く女性を応援すると云う名目で母親を子供たちから奪い、学制によって子供を奪う。これらの事によって家族から家族の時間を奪う。
気が付いたら自分を理解してくれる最も親しい人は赤の他人。
逆に家族同士があまりお互いのことを知らない。
子供は親の後ろ姿を見て育つと云うが、その後ろ姿すら見えず顔を合わせれば「宿題やれ!」、「皆についてけなくなるぞ!」、中学校に入ると「良い高校入れないぞ!塾に行け!」、高校に入ると「良い大学に入れ!」「良いとこに就職出来なくなるぞ!」。
そして決まってこう云う
「子供に良い人生を送ってもらいたいから・・・」
勿論これが全てとは言わないが、子供に大学なんか行く必要は無いって言う人も、子供には好きなことやらせたいと言う人も少なからず良い大学を出れば、良い仕事に就け、良い人生を歩めると思ってる方も多いのではないだろうか?
少なからず生活が保障されると信じてるのではないだろうか?
◎カルト宗教
我が国は明治の廃仏毀釈運動や神仏分離令などによって神と仏を無理矢理分けられ、伝統宗教が大損害を受け衰退し、我々庶民は心の拠り所を失ってしまった。
そして既存の伝統宗教の衰退はカルト宗教の勃興へとつながった。
この明治の時に誕生した数々の社会弊害を生み出す恐ろしいカルト宗教の本当の正体こそ「学歴宗教」である。
この時から人を評価する時、志の有無や人柄、何が出来るか、ではなく点数でするようになってしまった。
現在、学歴社会である。
つまり今の日本人の多くが「拝金主義」と云う御本尊を崇拝し、学歴があれば良い会社に入って高給を貰い幸せになれると云う教義(教え)を信じ、
高学歴=頭が良い
学歴無し=頭が悪い
と云う図式で見ているのでは無いだろうか。
その証拠に求人情報誌を見て欲しい。
「やる気のある方大募集!高卒以上」
「あなたを待ってます!大卒以上 」
その殆どの条件資格に学歴が入っている。
これは優秀かどうか、やる気があるかどうかではなく、学歴で見てる証拠である。
つまりウチの仕事は馬鹿じゃ勤まりませんよってことだ。
しかし本当にそうだろうか?
親に言われたから、まわりの皆がそうだったから、ただ何となく大学を出て、ただ何となく就職が決まり、生活の為に仕方なく働き・・・。
しかし中卒でもやる気がある者は沢山いる。
例えば営業の仕事がやりたい、営業だったら誰にも負けない、と云う中卒の人がいたとする。
しかし大概の営業関係の仕事は高卒以上。
だからその仕事に就くことは出来ない。
この人と、大学を出てただ何となく面接で受かったから働くと言ってる人と、どちらが会社にとって有益で、どちらが会社にとって優秀な人だろうか?
いざ入社し仕事に就き、経験を積んでどんなに頑張っても大卒と高卒・中卒では出世に開きがあるのではなかろうか?
本当にやる気のある人、優秀な人が大卒じゃないと就職出来ないし出世も出来ない。
これは正しい事だろうか?
人はどんなに辛くて大変なことでも、興味のあることや好きなことは必死で覚えようとするのものである。
それが相対性理論だろうが六法全書だろうが自分の選んだ仕事に必要であったら必ず覚える。
生まれて死ぬまで大体100歳ぐらいの人生、その内の三分の一は寝て過ごし、その内の大切な幼児期から青春時代を最低12年から16年ぐらいは学校で過ごす。
その間に学んだ英語、数学の公式、理科の実験、音楽等々、社会に出てどれだけ役に立っているのか?
人によっては、場合によってはまったく役に立たない「勉強(勉める事を強いる)」をして過ごす。
本当の「学問」はそうではない。
興味を持って「学び」、どうしても分からなくなった時、初めて「問う」のが本当の「学問」である。
必要なことは必要な時にすべきではなかろうか?
あなたが本当に興味のおもむくままに学びたいことを学んだら、あなたの人生はどうであったろう。
人々が「経済発展が人を幸せにする」と云う幻想を追い求めた結果、次から次へと深刻なる社会問題を生み出し続け、その社会問題に対しても、金が無いから、金さえあれば幸せになる、と拝金に走り、その為には良い高校出て、良い大学出て、良い会社入って、それが良いことだとひたすら人々は信じ続け、信じ込まされている。
そう、人がより良い人生を歩ませない社会、それが学歴社会である。
これこそが人々を苦しめてる正体である。
そろそろ学歴社会を見直そうじゃないか。
◎明治以前
振り返ってみると明治以前はカルト「学歴宗教」なんて無い。
そして「職住一体社会」、つまり、仕事と住むところが一体で家族が一緒にいられたのである。
子供は午前中は寺小屋で学び、午後は家の手伝い。その共同体の大人たちに囲まれ、或いは大家族に囲まれ人としての在り方を「教わる」のではなく「示されて」学んだ。
人との接し方、神仏や先祖を敬う姿、仕事のやり方など示され、それを見ておぼえていったのである。
この「示す」と云う字は神のことである。
「宗教」と云う字は「宀」に「示」である。「宀」は「家」と云う意味で、「示」と云う字が神で「家に祀られてる神の教え」。
神に供物を捧げてるところ象形が「祭」。
「祟る」と云う字は「出」と「示」からなるが、これは神が「出」て来て「示」すので、二つ合わせて「祟る」と云う字になる。。
「祠」も「示」と「司」からなるが、神を司る場所などを指す。
そして日本人はこの「示す」と云うことが実に良く出来る民族である。
敢えて言葉に出さずとも分かる、「コトアゲセヌクニ」とはそう云う意味である。
寺子屋では午前中は大部屋に五・六歳ぐらいから十一・二歳ぐらいの子供が一緒に学び、午後は家の手伝い。
年長者は年少者の面倒をみながら学び、その年少者は年長者の姿を見て学ぶ。
年長者に面倒を見てもらった年少者は当たり前のように年下の面倒をみるようになる。
つまり「面倒を見ろ!」なんて言わなくても自然にそうなるのである。
「勉強しろ!」なんて言わなくても年長者の姿を見て育って来てるので、自然にやるようになる。
つまり年長者の在り方が「示されて」いるのである。
寺子屋に通う子供たちは皆それぞれが先輩後輩ではなく、兄であり弟であり姉であり妹である。
人と人との繋がりの強さはここにある。
家に帰ると親の手伝いをしながら仕事を見て覚えていく。
仕事をする親を見ながら育ち、周りの大人から「お前の親爺はよう働くのう」「仕事が出来る大人になれよ」と仕事・働くと云うことを幼いうちから意識させて育てる。
親は子供の手本で、子供にやって欲しくないことは子供の前でやらない。
子供にこう云う大人になって欲しいと思うことがあれば積極的に子供に示すため、自ら率先して実行し子供に見せるのである。
子供は親から強制されたことは後々まで嫌いになり、親が楽しんでやってたことは子供も大人になったら自然とやるようになる。
だから「教える」のではなく「示す」のである。
そして十七、八歳ぐらいになると仕事も一人前になり立派な大人。
二十歳前には、そろそろ結婚と云う話がでる。
そして子供が出来て父・母となる。
「大家族社会」だから若いうちに出産しても祖母や曾祖母がいるので安心。
都市部でも町の共同体全体が親兄弟みたいなものだから困らない。
一緒に寺子屋で育ち三軒隣の姉やにオシメ取り替えてもらったなんて当たり前の共同体である。
それが親の代もそうなんだから町村全体が家族である。
友達の子供がイタズラなんかしたら怒鳴りつけるなんて当たり前。
母乳が出なければ、隣に貰いにいく。
金がなければ大根で払う。
人を評価する時は一番に職能で評価する「職能社会」。
つまり何が出来るかで評価する。
仕事は自分で創る社会。
これが明治以前の姿である。
明治の近代化はこの無名の学歴なんぞ持たない職人たちが築いたものだ。
今の社会を見てみよう。
幼稚園・保育園から洗脳が始まる。
級替えでバラバラ。
小学校に入るときにバラバラ。
クラス替えでバラバラ。
中学校に入るときにバラバラ。
高校に入るときバラバラ。
大学に入るときバラバラ。
会社に入るときバラバラ。
家族が出来てバラバラ。
老後は家族がバラバラ
最初に出来た友人の顔なんて覚えてない。
隣に住んでる人の顔も知らない。
親兄弟が死んでも仕事が忙しく葬式にも出れない。
人と人との絆、家族との絆とは何なんだろうか?
そんな事を考えさせない、考えられないように洗脳されている。
これが近代日本の三悪道によって生み出されたものである。
この三悪道を改めない限り、少子・高齢化問題も虐待問題も何一つ解決しない。
①職住一体社会へ
・ 江戸の職人町や商人町をモデルに仕事場と住居を一緒にする。これによって家族との時間が増え、家族との絆、地域との絆が強化される。
・雇用問題も起きづらくなる。
・生涯現役でいられる。
・タイムカードと云う見えない鎖から解放。
②学歴社会から職能社会へ
・まず就職条件から学歴を外す。そして寺子屋制度を見直す。
・高齢者に指導を任せることによって活躍の場を作る。
・幼いうちから自分の目指す仕事を意識させ、それに見合った教育をする。早くから一人前の職能者になれば後で幾らでもやり直しがきく。
・これによって無駄な勉強をしなくて済み、自分の仕事に誇りを持ち、一人前の大人として早くから社会貢献出来る。
・学費などで使う金を貯蓄に廻すことが出来る。
・現在の低学歴のニート対策にも繋がる。
③核家族社会から大家族社会へ
・ 親子三代一緒に暮らす。
・これによって子育ての負担が軽減され少子化を防ぎ、幼児虐待や育児ノイローゼ、「鍵っ子」や少年犯罪の凶悪化を未然に防ぎ、老人の孤独死を減らすことが出来る。
◎家族とは?
家族は一緒にいてこそ力を発揮する。
早く家を出て独立するのが良いことなんて近代に入ってからの考えである。
人は決して一人では生きられない。
あなたが現在、子をもつ親であるなら子供だけでなく子孫に思いを馳せなさい。
そうすれば祖先に想いが至るようになる。
あなたが未だ若者であるなら、祖先に想いを馳せなさい。
そうすれば子孫に思いが至るようになる。
祖先から子孫への連綿とした繋がりのなかで初めて個人の意味が分かるのである。
現在の自分達だけの都合しか考えない個人主義に別れを告げてこそ個人が確立されるのである。
家族とは、自分達だけではない。祖先も子孫も含めて本当の家族なのである。
人は寿命がある。
必ず老い、死んでいく。
そのことから目を逸らさず考えたとき、本当の人生を歩むことが出来るのである。
そのことが理解出来た時、あなたは本当の人生を歩むだろう。