◎はじめに

先ず國體とは神話皇室言語宗教(信仰)、歴史文化伝統伝承慣習の総体ことで、これを失えば我が国が我が国で無くなるもの、存在意義そのもの、そして守り伝えていくもの、のことである。

この國體について今の保守系の方々の見解を見てみると次のようにまとめられると思う。

國體」という概念の萌芽を「國學」に由来するとする説。

國學とは江戸時代前期の國學の祖とされる契沖が、儒学、蘭学、仏教などにとらはれない「萬葉集」の学問的解釈研究に始まり、国学の四大人(しうし)と呼ばれる思想家たち、荷田春満賀茂真淵本居宣長平田篤胤らによってさらに展開された学問体系である。

さらにこの國學の発祥を契沖の「萬葉代匠記」が著された約20年前書かれた山鹿素行の「中朝事実」が國學発祥の契機となったとする説。

この上記のについて以下に検討していく。


について

先ず「前提が正しければ導かれる答えも正しい」とは論理学の基本だが、一番初めの大前提が間違っている。

我が国に於ける國體観の初見は天智天皇の6世孫の聖宝理源大師(832年~909年)に由来する。

つまり我らが修験道の当山派の祖師である。

小野曼荼羅寺成尊僧都が、御三条天皇御即位(1068年7月21日)の時に編成された即位潅頂秘釈(鎌倉時代初期の筆写本)の中に、天皇が金輪壇の上で大日金輪の印契を結ばせられる意義を説明して、

天子ノ践祚之ヲ継体ト謂フ。継体トハ天子國體ヲ継承シタマフ也。天照尊ハ是レ大日金輪、和國ノ御國體也。手ニ金輪印ヲ結ビ心ニ天照尊ヲ思フ。天子自ラ國體ヲ証シ天照尊ヲ応現シタマフ。

理源房御本ニ依ルニ國體ニ深秘ノ四釈アリ、一者天照大神、ニ者國家曼荼羅、三者法王ノ憲法、四者神國記也。今ノ國體ハ第一釈也。範俊云ク、國家曼荼羅ハ國性也。


と示されている。

これに従えば天照大神が國體そのものであり、歴代天皇の御即位と云うことは、即ち歴代の天皇が相次いで天照大神と同体であることを意味するものである。要するに天照大神の大御霊をもって國體の真髄、國體そのものと仰ぎ奉るものである。


◎聖宝尊師の深秘の四釈

1、一者天照大神
我が国の國體は、天照大神そのものであるとする意

2、ニ者國家曼荼羅
範俊のいわゆる国性、即ち一君万臣の國家組織たる國家曼荼羅

3、三者法王ノ憲法
我が国最初の國體法である摂政聖徳太子の制定した十七条憲法

4、四者神国記
我が國體を示すところの記紀神話等の文献

以上の四釈いずれも國體に関する秘釈ではあるが、中でも「今ノ國體ハ第一釈也」と記して第一釈をもって最も妥当かつ正鵠なる日本國體観とされているのである。

この國體観は聖宝尊師何歳の時に創唱されたかは判明しないが、聖宝尊師は延喜九年(909)七十八歳をもって遷化しているので平安朝の上期であることは疑いない。

こうして聖宝尊師は修験道の教格的一要素たる神道に関して極めて重大なる思索を遂げて、神道のために金科玉条たる教権を付与し得たのである。

聖宝尊師は生前、宇多、醍醐の両帝に対してこの秘釈を奏聞する程のことは、当時の事情、宮中の御信任などから推して充分有り得たと考えられる。(天野説)

従って「國體」という概念の萌芽は平安朝にあるのであって、江戸期に始まったものではない。


について

そもそも國学の祖とされる契沖は真言宗の学僧である。また本居宣長によって提唱された「もののあはれ」と云う概念をウィキで調べると



<以下転載>

もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)とは、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁。日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、心の底から「ああ(=あはれ)」と思う何とも言いがたい感情。

江戸時代の国学者本居宣長が自著『紫文要領』や『源氏物語玉の小櫛』において提唱し、その頂点が『源氏物語』であるとした。

<転載終了>

とある。

その「世界最古の長篇小説」と云われてる「源氏物語」は大正大学の大場朗教授が

『源氏物語』には仏教と深く関わるくだりがあります。「雨夜の品定め」(帚木巻)や「物語論」(蛍巻)の展開には、『法華経』の中心思想や天台の重要な教学が密接に関わって、物語を奥行きのあるものにしています。また、葵の上を失った際の源氏の祈り(葵巻)には、当時の普賢信仰が深く関わっていますし、宇治十帖のヒロイン浮舟のゆくえは、叡山の思想信仰なしには語れないものとなっています。

と仰ってるように物語の随所に仏教教学が鏤められていて、特に仏教の無常観を易しく説いた仏教文学なのである。

つまり「もののあはれ」とは仏教の「諸行無常」を表した和語なのである。

著者とされる紫式部も石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承があるように仏教徒なのである。


維新政府の政治理念の中心になった復古神道をウィキで参照すると、角川日本史辞典には「江戸後期の国学系統の神道。古代の純粋な民族信仰の復古を唱えた神道。独善的排他的な一面をもつが、明治維新の思想的側面を形成し、神仏分離、廃仏毀釈の運動となり、神道国教化を推進した」とある。

この復古思想家らの儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想自体がそもそも無理があり、本質的に云えばそれぞれの復古思想家独自の「理想の形態に於ける日本民族固有の精神」と云うことである。

つまり国学の四大人(しうし。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤)によってさらに展開された学問体系とは「復古思想」と云う名の革新思想であり、聖徳太子以来「大乗仏教相応の地」の理念の基に建国に邁進してきた我が国のそれこそ「國體」に合わないものである。

現在の保守派が我が国の保守思想の典故とする復古思想は廃仏論に大きく傾いているが、我が国の歴史・伝統・文化から仏教思想を取り払ったらなんとも貧相になってしまう。


について

そもそも山鹿素行の「中朝事実」は南北朝時代の公卿北畠親房の「神皇正統記」が基になっている。

大日本国ハ神ノ国ナリ

の出だしで有名なこの「神皇正統記」は、我が国の古代史を論じたもので、神話、神仏習合思想、儒教思想、陰陽五行思想と皇統の正統性、普遍性及び世界性を力強く説いたものである。これは山鹿素行の「中朝事実」、が著された約330年前のことであり、これが國學発祥の契機となったと云っても過言でない。明治新政府による「捏造された皇国史観」とは違い真の「皇國史観」である。

$山伏の日々北畠親房


これを著した北畠親房は真言宗の僧侶であり、仏教思想がその根底にあるのである。


明治新政府の皇典講究所によってこの「神皇正統記」は中学校の教科書として採用されるが、中心思想として採用された復古思想(国体神学イデオロギー)によって神仏習合や陰陽五行思想を排除する大幅な改竄がなされた

岩波文庫版「神皇正統記」の校注を手がけた岩佐正氏によると

「天理本重修神皇正統記に見られる削除をあげると、開題・神代の条の削除は大系本神皇正統記で438行のうち119行の多きに及んでおり、その削除は四つの立場から行われた。

国史の教科書的な性格から、なるべく純粋に日本的な記事を中心にするために、シナ・インドの開闢説話を削り、次に仏教儒教等内外典に関する記事を、三に親房の信奉した度会神道説を、四に神代五代の年序に関するものを削除した(百王説など日本に存在する根拠なしとする立場からかその部分は完全に削除している)。

この四つの立場のうち前の三つは人皇の部分にも適用されている。その結果本文の削除52箇所、補訂118箇所(裏書は7箇所全部削除)に及んでいる。

<略>

こうしたさかしらは古典を冒涜するものであって、その試みは全く失敗に終わってしまった。ちなみに重修とは興国四年秋の親房の修訂をふまえた意味の重修である。

古典は古典として万人に正しく読まれることを欲している。時代により読者により、それが何等かの特殊な意図をもって、都合よく部分を誇張したり全体を色眼鏡をもって曲げられてはならない。それは古典の卑小化であり古典の生命を害うものである。

この前後二度に亙る神皇正統記に対する改竄・重修は親房の神皇正統記を幻想の神皇正統記とするものであり、それが個人の思い上がりの試みでなく、そうさせざるを得なかった時勢の存在していたことを認めるとするも、どのみち神皇正統記としては最大の不幸であった。皇典とか神典とかの与えられた名のもとではなく、日本の古典として広く正しく静かに読まれるべきものと思う。」

と仰ってるが正しくその通りである。


神道の出典と歴代天皇の出家

そもそもの神道の初見をみると

「神道」の用例は、日本書紀二十一巻、用明天皇条「天皇信佛法尊神道」とあるのが初見である。

天皇仏法を信じ、神道を尊びたまふ

これは、

「易経」の卦辞「風地観」を説明した彖伝(たんでん)の

「観天之神道 而四時不惑 聖人以神道設教 而天下服」

(天の神道を観るに、しかも四時たがわず。聖人神道を以って教えを設けて、天下服す)

とあるように儒教の経書から採っている。

また天皇は明治の時まで退位後出家して僧侶となることを慣習としていた。

神道界最高神官たる天皇は、日本仏教界最高位の法皇(ほうおう、のりのすべらぎ)号を称され、陛下から猊下(げいか)と尊称が変わり、聖武天皇を始めとしてこの法皇号を称された天皇だけでも37方いらっしゃる。

下の画像の後醍醐天皇は、袈裟を着け手に密教の修法の時に使う五鈷杵と五鈷鈴を持っている。つまり密教行者の姿であり、金剛薩埵の姿である。

$山伏の日々後醍醐天皇


いちいちの法皇の名は過去記事参照

法皇

つまり、復古思想なる江戸時代に生まれた新しい革新思想は、上記のように仏教を深く信じた天皇を蔑ろにし、神道の本来のあり方を貶めた、まったくの独善排他主義に陥ったものであった。

まして明治の時、維新政府が自分達の「理想の天皇像」を実際の天皇に押し付け、祭祀王たる天皇に肉食をさせ、無理矢理軍服を着せて陸海軍を統帥させるなどと、今までの國體を無視し、天皇を操り人形にする萌芽は「復古思想」にあると言わざるを得ない。


天皇御謀叛

最近「西洋の」保守思想、コークやエドマンド・バークを持ち出して「我が国は、最高規範たる國體の支配する国家であり、臣民は言ふに及ばず、天皇と雖も國體の下ある」と説明する方があり異論はない。

しかし鎌倉時代には形骸化した律令に代わり、武家政権による新しい法律・制度が作られていった。その時代の末期に起きた後醍醐天皇の倒幕計画などは「天皇御謀叛」と言われたくらいである。

謀叛とは君主・主君にそむき武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すのであるが、幕府より天皇の方が上位である。では何に対する謀叛かと云うと正しく「國體」に対する謀叛である。

つまり我が国の最高の権威である天皇、そして最高権力たる幕府すら國體(法)の下位に置かれる存在になっていたということを如実に表している。

つまりコークやエドマンド・バークよりずっと以前から「天皇と雖も國體の下ある」のであって、採れるところは取ったとしても、何も新たに「西洋の」保守思想を我が国の保守思想とすることはない。

そもそもバークの「フランス革命の省察」自体その批判対象をフランス革命に対して為されており、我が国に於いてこの批判対象を適用すれば、明治の革命である明治維新、つまり明治新政府に適用されることは云うまでもない。
 

國體とは?

以上長くなったが、我が国に於ける國體とは簡単に言えば理源大師の深秘の四釈を踏まえた上で

我が国は聖徳太子以来、神仏習合、陰陽五行の理論によってその中央に天皇を 配置し、四季の循環を促進させ五穀豊穣・鎮護國家・万民豊楽の祈りを國家体制の基盤とした祭祀国家である

これを「國體」というのであり、中央に天皇を配置することによって「皇國」というのである。