修学院離宮に遊ぶ【弐】 | やまちゃん1のブログ

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修学院離宮に遊ぶ【壱】から

サロンの代表的文化人をみていく

本阿弥光悦、京都の三長者といわれた、茶屋、角倉、本阿弥。光悦は分家の養子で比較的自由な立場だったようです。家康から鷹ヶ峯を拝領し、芸術村を創設する。京都所司代から茶屋、角倉とならび町人のまま代官職を拝命する





本阿弥光悦
琳派の祖にして、日本のダ・ヴィンチとよばれる。俵屋宗達を見いだした。


光悦書、宗達下絵 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」




光悦 「船橋絵硯箱」




光悦 「熟柿」




光悦 「不二山」






京都所司代 板倉勝重(秀忠の信任あつし)
代官屋敷は上層町衆光悦はじめ僧侶の安楽庵策伝など京都文化人のサロンだった。



鹿苑寺(金閣寺)鳳林和尚の周辺


小堀遠州
大名茶人にして伏見奉行のマルチアーティスト



遠州 天授庵 方丈前庭



遠州 根来寺



遠州 仙洞御所(作治奉行)


遠州 八窓席



遠州 弧篷庵


遠州 閑雲軒



鳳林和尚(後水尾天皇の親戚)の鹿苑寺には、遠州、千宗旦、金森宗和などの茶人が集まった。金森宗和は野々村仁清を発見したことでも知られる。



野々村仁清 「色絵藤花文茶壺」


禁中、仙洞御所では華道の「立花」が盛んで、池坊専好が中心だった。



後水尾天皇 尾形光琳




立花図



池坊専好



東福門院和子 徳川秀忠の五女で後水尾天皇に入内。
幕府と朝廷を繋げ、京の町衆にも絶大な人気があった。




茶道、香道、和歌に精通する。徳川家の財力を背景に寛永文化を牽引する。ファッションリーダーとして京都の着物文化の先頭に立つ。光琳の実家「雁金屋」に残る寛文小袖。



寛文小袖 雁金屋



寛永文化は、朝廷および上層町衆の反幕府的エネルギーで産まれたのではなく、徳川幕府による朝廷の懐柔策として、幕府の財源により花開いたもので、朝廷、町衆、幕府の共作だったようですね。

仙洞御所も修学院離宮も幕府の経済力がなければ今に残っていませでした。

新型コロナの災禍も、国民、政府が一丸となって立ち向かうものです。

果たして、寛永文化のような将来に繋がる文化を生み出す事は出来るでしょうか。